戦後、「紫電改」の人気が高まる
では、数ある海軍航空隊のうち、どうして三四三空が人気を博すようになったのか。
その要因はいくつも考えられる。日本軍が連戦連敗を重ねていた太平洋戦争末期、起死回生を期して登場した紫電改という新鋭戦闘機の存在。司令、飛行長、飛行隊長以下、主要登場人物が個性的で、いわゆる「キャラが立って」いること(なぜか副長は埋没している)。日本本土が一方的に空襲を受け、敗け続けていた時期に、押し寄せる敵機に一矢を報いた活躍。
……なかには幻影に近いものもあるが、そんなイメージが広く浸透しているのは確かだろう。
もともと、戦闘機マニア、搭乗員ファンと呼ぶべき人たちは戦後の早い時期から存在した。それに火をつけたのは、大戦初期に零戦を駆って活躍した坂井三郎中尉の「坂井三郎空戦記録」(日本出版協同、昭和28年)である。
出版されたのは、テレビの本放送が始まり、街頭テレビのプロレス中継に人々が熱狂したのと同じ年のこと。日本軍が優勢だった太平洋戦争前期、米軍機をバッタバッタと撃ち墜とす零戦の姿は、外国人の巨漢レスラーを空手チョップでなぎ倒す力道山の姿と同様、敗戦にうちひしがれ、「ガイジン」コンプレックスに陥っていた日本人たちの心を掴んだ。
いっぽう、紫電改と三四三空が注目を集めるようになったのは、それよりいくぶん後のことである。そもそも紫電改(紫電二一型)という戦闘機の存在は、零戦や雷電(らいでん)とちがって戦時中には公表されておらず、一般の日本人が初めてその名を知ったのは、終戦直後に新聞に掲載された旧軍兵器の暴露記事を通してだった(朝日新聞昭和20年10月6日、毎日新聞10月22日、など)。
昭和31(1956)年、「今日の話題」第39集「紫電改空戰記」(堀光雄著)が出たものの、広く知られるようになったのは、昭和37(1962)年、源田實司令その人が航空幕僚長のときに著した『海軍航空隊始末記 戦闘編』(文藝春秋新社)で、三四三空の戦いぶりを紹介したのがきっかけである。
いま、同書を読み返すと、「大戦末期に登場し、零戦よりすぐれた性能の紫電改で、個性的な3人の隊長のもと、押し寄せる米軍に一矢を報いた」という現在に繋がる三四三空や紫電改のイメージは、この本がもとになっていることがわかる。
昭和38(1963)年1月には、三四三空の活躍を描いた東宝映画「太平洋の翼」が公開された。源田司令が「千田司令」(三船敏郎)になっているなど、登場人物は仮名で物語もフィクションだが、世に紫電改を知らしめた意味は大きい。同じ年の「少年マガジン」3月10日号では「日本が生んだ名機 紫電改のひみつ」と題する特集が組まれ、7月、同誌でちばてつやの漫画「紫電改のタカ」の連載が始まった。
そんな流れから、昭和37~38年が、紫電改が人気を博するターニングポイントになったと言っていい。
余談だが、海軍兵学校出身で戦後、薬学を志した萩原義秀が考案した育毛剤「紫電」が、昭和35(1960)年、山城製薬から発売された。その改良版である「薬用 紫電改」が、カネボウより発売されたのは、昭和58(1983)年のことである。毛髪の「起死回生」への願いが込められたネーミングなのだ。
じつは三四三空の一部隊員には、終戦直後、占領軍による天皇の処刑をふくめた最悪の事態にそなえて、いざというときには皇族を匿い、皇統を護持する秘密作戦が発動されていて、この時点ではまだその任務が正式に解除されていなかった(『【戦後秘史】秘密裏に36年間も遂行されていた皇統護持作戦とは?』)。
そのせいもあって、主要な関係者の口がまだ重いうちに、誇張やフィクションをまじえたイメージが作り上げられ、伝説が一人歩きを始めた感は否めない。そして、そのきっかけをつくったのは、誰あろう源田司令その人だった。