占領後の硫黄島には、戦闘機P51が多数進出した。硫黄島発のP51の本土攻撃は一つに「武蔵野空襲」がある。
東京都武蔵野の工場地帯を狙った爆撃。硫黄島守備隊が「散ルゾ悲シキ」との訣別電報を残して玉砕してからわずか10日余り後のことだ。
米軍側記録によると、B29による再三の武蔵野空襲は当初「成果貧弱」「成果不十分」と評価され続けていた。それが硫黄島陥落を境に「成果優秀」に転じた。硫黄島発のP51の護衛により、従来よりも低い高度からの昼間爆撃が可能になったため、とされる。
硫黄島の戦闘機部隊は終戦までの4ヵ月で1700回以上、出撃した。硫黄島守備隊の最高指揮官栗林忠道中将は玉砕間際の硫黄島からこんな電報を本土に発していた。
「(島の)要地(航空基地)ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘサル所ニシテ幾重ニモ御詫申上ク」
栗林中将の予見は死後、的中したのだった。
つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。
本書の抜粋元『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』では、北海道の新聞記者が「日本兵1万人行方不明の謎」に挑んだ一部始終と、多くの日本人が知らない「硫黄島の驚きの実態」が描かれている。