このほか、硫黄島を燃料補給拠点とした場合、サイパン発の爆撃機は燃料を半減できる一方、本土に投下する爆弾の積載量を格段に増やせるという利点もあった。
こうした米軍側の思惑を、島を守る兵士たちは知っていた。兵士だけでなく、一般国民も分かっていた。新聞が盛んに米軍側の狙いを報道していたからだ。だからこそ守備隊は95%が戦死するまで戦ったのではないか、との見方もある。
1945年3月26日。全滅間近の守備隊が最後の総攻撃で出撃した先は、すでに米軍制圧下にあった飛行場方面だった。守備隊は最後の最後まで米軍による本土爆撃を妨げようとしたのかもしれない。
「硫黄島はB29の天国」
『戦史叢書』によると、硫黄島の航空基地化は、日本海軍が1933年に南部で飛行場を整備したことが起源だ。その後、戦局悪化とともに滑走路の拡充が進んだ。最終的には島南部の「千鳥飛行場」のほか、中央部に「元山飛行場」、その北側に「北飛行場」を整備した。
1945年2月19日に硫黄島に上陸した米軍は、日本側守備隊との戦闘と並行して、重機を使った元山飛行場の拡張工事に着手した。B29が離発着するためにはより長い滑走路が必要だったからだ。
その滑走路にB29が初着陸したのは米軍上陸から2週間後の3月4日だった。これを皮切りに硫黄島は、日本本土爆撃作戦で被弾・故障したB29の緊急着陸地となった。終戦までの着陸数は2000機を超えたとされる。「硫黄島はB29の天国」。そう記された米側戦記もある。