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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第八章 『ヴィンセント・ヴォラキア』
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第八章23 『ルイ』



 本当に、自分たちは奇妙な関係だったとナツキ・スバルは思う。

 奇妙というよりも、悪質というべき巡り合わせが、スバルたちをここへ導いた。


 その理念も在り方も全部大嫌いだ、ヴォラキア帝国。

 どうしてなんだと泣きたくてたまらない、『記憶』のないレム。

 全部お前の責任だと憎たらしかった、『暴食』の大罪司教ルイ・アルネブ。


 呪うしかない状況をお膳立てされて、敷かれたレールの通りに嘆いて怒って、衝突を繰り返しながら、スバルはこの日々を死んで死んで生き抜いた。


 触れ合い、助け合った人たちもいるのだ、ヴォラキア帝国。

 優しさと思いやり深さは泣きたくなるくらい一緒の、『記憶』のないレム。

 何度も命懸けで健気に尽くしてくれた、『暴食』の大罪司教ルイ・アルネブ。


 お膳立てされた呪いを噛みしめて、敷かれたレールの通りにいくのを拒んで、優しく傷付け合いながら、スバルはこの日々を死んで死んで生き抜いた。


 呪い、嘆き、憎むのか。呪わず、嘆かず、許すのか。

 その、曖昧であり続けた関係に、決着を付けなくてはならないときが訪れたのだ。



「――――」


 客室を訪れたスバルの宣言に、空気の張り詰める感覚が室内を覆った。

 室内にいるのはレムとルイ、それに加えてラムとタンザの合計四人。前者は当事者として、後者は見届け人として、スバルは彼女らと話すことを望んだ。


 エミリアやベアトリス、他の一同は決着を待ってくれている。

 ナツキ・スバルの出す答え、それが如何なる形に結ばれるのであっても。


「……アベルさんとの、大事な話は終わったんですか?」


 切り出し方を考えていたスバルに、先に言葉を発したのはレムだった。

 傍らにルイを座らせ、その手を握ってやっているレムのそれは、彼女が意識しているのかいないのか、牽制のようなものにも思えた。

 その問いかけに、スバルは首を横に振り、


「今は中断ってところだ。こっちの話が片付かないと、その話も進められない。……そのアベルとの話にも、ルイのことが関係してる」


「あーう?」


「どうして、ルイちゃんが?」


「『星詠み』って奴の予言で、この戦いに勝つためにルイの存在が大事だって、そういう話になったからだ」


「――っ」


 包み隠さず、前提を伝えたスバルにレムの表情が苦み走る。ルイの手を握ったまま、レムは「それでは」と薄青の瞳でスバルを見据えて、


「あなたは、ルイちゃんを戦わせようというんですか? こんなに小さくて、まだ何もわからないような子なのに、そんな残酷なことを……」


「戦うのが必要かどうかってのは、いったん後回しだ。ただ、先に後ろの話だけは言わせてもらう。――ルイが何もわからない子ってのは、それは間違いだよ」


「何を……」


「言葉で意思疎通が難しくても、ルイはちゃんと置かれた状況をわかってる。味方したい相手も、そうしたくない相手も選べる。その上で、こいつはここにいるんだ」


「それは……っ」


 スバルの静かな言葉に、レムが下を向いて言葉に詰まった。

 レムも、スバルの反論が事実だとわかっている。そうでなければ、そもそもルイはこうしてここにはいないのだ。

 ヴォラキア帝国に飛ばされてきた時点で、わけのわからない状況で、初めて対面したスバルやレムに刷り込みのように甘えている。――なんて、そんな理由では説明がつかないぐらい、自分たちはとんでもない修羅場を乗り越えてきた。


 刷り込みが愛情ではなく、自分が生き残るための庇護者を求めた防衛本能の表れなら、スバルやレムといることが生存にマイナスなのは言うまでもないことだ。

 ただ生き残るだけなら、スバルたちといない方がルイにとって楽だった。


「その点は、ラムもバルスに同意見ね。事情はレムからぽつぽつ聞いただけだけど、レムともバルスとも離れてその子がここにいるのは、自分で選んだ結果でしょう」


「姉様……」


「勘違いしないで、レム。ラムはレムの全面的な味方で、あとでバルスを一緒に八つ裂きにすることは心に決めているけれど、事実を捻じ曲げて語りはしないわ」


「一部聞き捨てならない宣言があったけど、ありがとう」


 口を挟んだラムに、スバルは感謝と渋さの合間ぐらいの気持ちで礼を言う。

 それもまた、ラム側からの牽制だとスバルは感じた。同時に、ラムはこの話に公正に関わり、感情的にレムの味方をするつもりはないとの、そういう提示だとも。

 それこそ、レムがたびたび口にしていたラムの評価通りの行動。


「姉様は、優しすぎます……か」


 口の中だけの呟きが聞こえたのか聞こえていないのか、ラムは何も言わずに小さく鼻を鳴らすと、細い足を組んでお茶のカップに口を付けた。

 その傍らで、どこか所在なさげにしていたタンザも、その黒目でスバルを見ると、


「ラム様と同じく、私もシュバルツ様に肩入れはしません。事情も測りかねておりますので、味方のつもりで置いたのでしたら勘違いなさらないようお願いします」


「わかってる。タンザはちゃんと俺に厳しい。味方してくれとは思ってないよ」


「――――」


「あれ? なんかちょっと不機嫌になった? なんで?」


 ラムに倣い、公平な立会人宣言をしたタンザの表情がちょっとムッとなった。

 表情変化の少ないタンザだが、わりとするのがこのムッとした顔だ。大抵はセシルスの無茶な言動か、ヒアインが一言多いときなどに飛び出すことが多い。

 あと、高頻度でスバルに向けていることもある。


 ともあれ、ラムとタンザの立場表明のおかげで、マインドセットは終わった。

 そのまま、スバルは改めて本命のレムとルイ、その二人と向き合う。

 そして――、


「ルイ、今から大事な話をする。お前についての、俺の腹の中身を包み隠さずにだ。逃げないで、聞いてくれるか?」


「……あーう!」


「そっか。いい子だ。ありがとな」


 一瞬の躊躇いのあと、ルイが声を弾ませて頷く。

 その反応もまた、彼女がスバルたちの、周りの話をちゃんと理解できていることの証拠だ。そのルイの横顔を、レムが目を泳がせながら覗き見る。

 そこに、自分の望んだ感情があることを期待するレムは、ルイが少しでも嫌がる素振りを見せたら、それを理由に話を中断しただろう。

 でも、ルイの横顔に、それをする理由を彼女は見つけられなかった。


「レムもルイも、わかってると思う。俺が最初から、ルイのことをずっと警戒してて、ずっと疎んでて……ずっと、嫌ってたってことを」


「――――」


「レムが最初、やたら滅多に俺を疑った理由も、それが一番の原因だもんな。何とか二人を引き離そうとして、指まで折られたっけ」


「あのときのことは……私も、やりすぎました」


「いいんだ。今となっちゃ、あれも俺とレムとのいい思い出だよ」


「は?」


 左手の指を折り曲げしながら答えたスバルに、レムが正気を疑う顔をした。レムだけでなく、ラムとタンザにも同じ顔をされたので、指を折られた話なのに、心を折られる前にスバルは「ともかく」と話を変えた。


「俺はバリバリ、ルイのことを警戒してた。そんな俺のことを、レムはバリバリ疑ってた。ルイがどんな気持ちだったかわからないけど、ピリピリした空気は感じてた、よな?」


「うー?」


「一回はぐれて、シュドラクのみんなと合流したあとも、グァラルから一回逃げ帰ったときも、そのあとのグァラル攻略戦の前後も、ずっとそうだった」


 だからますます、スバルとレムとの間には埋め難い溝が広がっていった。

 スバルがルイを憎らしく思った理由に、彼女の存在がレムとの関係悪化を招いたというのが多分に影響していたのは疑いようのないことだ。


 そんなルイへの悪感情も、レムと別行動になって、魔都カオスフレームへ向かい、そこでの出来事で変わることになった。

 レムを介さずルイと過ごし、彼女がその懸命さでスバルを守ろうとして、徐々に徐々に、スバルも認めざるを得なくなって。

 だから、魔都ではぐれたあと、帝都でベアトリスと再会した場にも、ルイがいたことを素直に喜べた。そこに、もう最初の頃にあった悪感情はどこにもなくて。


「そのまま、なあなあで深く考えないでいけたら、きっと楽だったんだと思う。でも、そんなのは無理なんだ。傷口とおんなじなんだよ。放っておいても治る傷もあれば、放っておいたらどんどん悪化する傷もある。これは、放っておいちゃいけない傷なんだ」


 傷口を癒すためには、治療をしなければならない。

 そして治療は、魔法や薬に頼るだけじゃなく、時には大胆な方法を使うこともある。

 これもまた、そうしなくてはならない類の傷なのだ。

 だから――、


「今まで一度も、俺は言わなかった。どうして俺が、ルイ、お前を嫌ってたのかを」


「うあう……」


 じっと、その青い目を見てスバルは心情を吐露する。

 スバルの真剣な眼差しと声に応えるように、ルイもそこから目を逸らさなかった。何を言われても受け入れようと、そういう覚悟が少女にはあった。

 その代わりに――、


「……やめてください」


 唇を噛んで、震える声でそう言ったのはレムの方だった。

 まるで懇願するように震える声を、彼女はルイの手を握ったままで言った。――否、違った。そうではない。手を握られているのは、ルイではなかった。

 レムの方だ。レムの方が、ルイに手を握られていると、それがわかる。


「聞きたく、ありません。あなたがルイちゃんを嫌っていた理由なんて、そんなのどうでもいいです。あなたが薄情なだけで、いいじゃないですか」


 嫌々と、弱々しく首を横に振って、レムがスバルの言葉を拒絶する。

 ぎゅっと、ルイの手に重ねた手に力を込めるのを避けながら、代わりに反対の手を骨が軋むほど強く握りしめて、レムはその先を拒もうとした。

 そのレムの気持ちを尊重してやりたい。レムの望みを何でも叶えてやりたいと思う。


「ごめん。このことは、お前にも耳を塞がせてやれない」


 でも、ダメだった。

 レムのその望みを叶えてやることも、尊重してやることもできなかった。

 レムにあるのはこの部屋を飛び出して、聞かないという選択を取ることだけ。彼女が本気でそれをするなら、スバルにもレムを止める権利はない。


 しかし、レムにもわかっている。

 ここでスバルの言葉に耳を塞ぐということは、自分の欠けた『記憶』に背を向けるということであり――、


「――――」


 無言で自分を見守っている、ラムの気持ちを裏切るということなのだと。


「それでも、嫌です……聞きたく、ない……っ」


 ぎゅっと目をつむり、歯を食い縛って、レムはここから逃げ出すことを選ばない。

 しかし、スバルの言葉の先には拒絶感を強く強く訴える。

 その言葉に胸を叩かれながら、スバルもまた、ルイから目を離さなかった。


「うあう」


 ルイの唇が動いて、そう、言葉にならない声を音にする。

 その音が、『スバル』と自分の名前を呼んでいるのも、ちゃんとわかっていた。

 わかっていたから。


「ルイ、俺がお前を嫌って……憎んでた理由は」


「やめて……っ!」


「――お前が、レムの『記憶』を奪った張本人、『暴食』の大罪司教だからだ」


 ――わかっていたから、スバルもそれに応えなくてはならなかった。



                △▼△▼△▼△



 言い切った。言わずにおいた言葉を、ついに。

 告げた瞬間、そこには秘密を打ち明けた感慨や、憎らしい相手を糾弾するような胸のすく感覚は一切なかった。

 あったのは、胸に溜め込んだものを明かしてなお、重さと苦みを増した懊悩。

 そしてそれは、続くその後の展開でさらに加速する。


「わああああ――っ!!」


 高い声を張り上げ、その顔をくしゃくしゃにしながら、レムの手が伸びてくる。

 彼女の手がスバルの胸倉を掴むと、ものすごい力で強引に押し倒され、何の抵抗もできないままに体の上に乗っかられる。

 体が小さくなっていなくても叶わなかったろうが、体が小さい今は余計にそうだ。

 レムが本気でその両腕に力を込めたら、スバルの口なんて簡単に塞がれてしまう。


 でも、レムは決定的な一言が出るまで、それをしなかった。

 そして今、こうしてスバルに馬乗りになった瞬間だって。


「どうして……どうしてなんです……っ」


 声を振り絞り、激情で顔をくしゃくしゃにしながら、息がかかるほどの距離でスバルの顔を睨みながら、その腕を力ずくに用いようとはしない。

 感情を激発させて、それでもレムは、最後の一線で理性的だった。


「――――」


 そのレムの熱い息を顔に感じながら、スバルは伸ばした手で外野を制する。

 スバルが押し倒された瞬間、とっさにタンザはスバルを守るために動こうとした。そのタンザの腕をラムが引き止めていたのが、視界の端に見えていたから。

 スバルの側からも、それでいいと二人に訴え、目の前のレムを見つめる。


 その、レムの薄青の瞳からぽたぽたと、涙がスバルの頬に落ちた。

 怒りでも悲しみでもない、やり切れなさが強く宿った瞳と、彼女に最後の一線の理性を守らせた理由。それが涙にこもっている。

 それは――、


「あなたに言われなくたって、私だってわかっていました……ルイちゃんが、私の思い出せない『記憶』と関係あることは、わかっていました……!」


「レム……」


「だって、他にないじゃないですか。あなたがあんなに、ルイちゃんのことを邪険にして、何度も何度も私から遠ざけようとする理由なんて、ルイちゃんの傍にいたら私が危ないんだって、それしか、ないじゃないですか……っ」


 吐息も、声も、その瞳も、全部を弱々しく震わせて、レムが己の心を吐露する。

 そう聞かされ、スバルは目をつぶった。当然のことだった。


 他ならぬレムこそが、失われた『記憶』という被害の当事者なのだ。

 そのレム自身が、スバルや他のみんなよりも自分の『記憶』を気にしていないなんて、そんな馬鹿なことがあるはずがない。

 誰よりも、自分の『記憶』の在処を焦がれ、悩み抜いていたに決まってる。


「気付きますよ……私のこと、馬鹿だと思ってるんですか? 馬鹿かもしれません。何にも知らない、馬鹿な女です。あなたのことだって何にも知らない! 知りたくもない! それなのにずけずけと踏み込んで……大嫌いです、あなたなんて!」


「――――」


「あなたなんて、ルイちゃんと比べ物になりません。ルイちゃんはずっと、私と一緒にいてくれて、私を気遣ってくれて……その、ルイちゃんが、私の……」


 とめどなく溢れる涙が、スバルの頬を打つだけでなく、レムの頬も、顎も伝い、涙滴で彼女の身も心も装飾し、偽っていく。

 わかっていて、その上でわからないでいることを望もうとする。


「全部、全部何かの間違いで……全部、あなたの嘘で……」


「――レム」


「――ぁ」


 弱々しく、そうこぼしたレムの瞳が涙で揺れ、大きな涙滴が落ちると、きっと彼女のぼやけた視界は一時的に晴れて、そこにスバルの顔が見えたはずだ。

 押し倒されたスバルが、その両手でレムの顔をそっと挟み、自分に視線を固定する。

 黒瞳と青い瞳とが交錯して、スバルは涙でびしょびしょの愛しい顔に、告げる。


「嘘じゃない。レムの思ってたことは全部そうで、ルイは、俺たちの敵だった」


「――っ、敵って、なんですか。私の、私の『記憶』をどうかしたからですか? だったら……だったら!」


 強く頭を振って、レムはスバルの手を離れると体を起こした。そのまま彼女は、最初の位置に立ったままのルイを振り向いて、


「だったら、私が……私がルイちゃんを許します。私が許すんですから、それでいいじゃないですか。ほら、それで、全部解決じゃないですか……」


「いいや、ダメだ。それじゃ、何も解決してない」


「なんでですか!!」


「――俺が、お前を苦しめたルイを、絶対に許さないからだ」


 声をひび割れさせ、ルイを許すと、そう言ったレムにスバルは断言した。

 そのスバルの言葉を聞いて、目を見開いたレムが掠れた息を漏らす。ふと、レムの体から力が抜けて、スバルはゆっくりと体を起こした。

 まだ、スバルの体に乗ったままのレムと、体を起こして至近距離で見合う。


「俺だけじゃない。ラムも、他のみんなも、レムを大切だって思ってる全員が、ルイのことを許さない。お前がルイを許すって、どんなに言ってもだ」


「そん、なの……」


「それにな、レム……ルイがしでかしたことは、お前のことだけじゃない。もっと、もっとたくさんの、大勢の人が、ルイのしたことで、『暴食』の罪に苦しんでるんだ」


 たとえレムが本当にルイを許しても、勢い任せでない心からの慈悲で彼女を許しても、この世界にはもっと大勢の、ルイを許せないたくさんの『レム』がいる。

 その人たちが救われない限り、レムの必死の訴えが実を結ぶことは、ない。


「……他にも、大勢の?」


「ああ。途方もないくらい、たくさんの人が苦しんでる」


「じゃあ……じゃあ、どうにもならないじゃないですか」


「――――」


「最初から、どうにもならない、そういう問題じゃないですか。どうにもできないってことを伝えて……それが、それがあなたの言う決着ですか?」


 わなわなと唇を震わせて、レムの瞳をまたしても大粒の涙が伝っていく。

 あるいは自分の『記憶』について苦しむよりも強く、レムはルイのことで涙する。

 自分の『記憶』なんていいからルイを救いたいと、救ってほしいと、そう感情的になった通りに、レムは唇を震わせた。涙した。

 その涙にも、震え声にも、スバルは切り裂かれる痛みを味わった。


「ごめん、ふざけてるよな」


「……謝らないで、ください」


「でも、ごめん。レムにとって、ずっと辛くて苦しいことしか言えなくて」


「だから、謝らないでください……っ。私は、聞きたくない……!」


「ごめん、でも聞いてくれ」


「だから……っ!」


「俺は、諦めたくない。――ルイを、許さないままでいたくない」


「――ぇ」


 ひゅっと、レムの喉から息が漏れて、彼女の目が見開かれる。

 そのレムの正面で、スバルは大きく深呼吸して、自分の唇を舐めた。一言一句、自分の考えが過たず、ちゃんと聞かせたい子たちに伝わるように。


「俺も、レムと同じだ。ルイを許したい。ルイを許せないままでいたくない。でも、無理なんだ。だって俺は、レムのことが大事だから」


「――っ」


「だから、そのレムにひどいことをして、レムの『記憶』を奪って、今もレムをこんな風に苦しめてるルイのことを許してやれない」


 そっと手を伸ばし、スバルはレムの頬を伝う涙を指で拭った。

 その一滴を拭ったところで、たくさんの涙滴がすでにレムの頬を濡らしている。それでも、レムはスバルの指を折らなかった。

 拒絶されなかったのだと、だからスバルは言葉を続ける。


「みんなにも散々言われたよ。馬鹿なこと言うな考えるなって、すげぇ叱られた。たぶん、オットーは今もルイが死んだ方が丸く収まると思ってると思う」


 でもそれが、きっと自然な発想なのだ。

 自浄作用とは言わないが、そうならなくてはいけないと皆が心では理解している。スバルも頭ではわかっていて、だからこそ強く反対された。

 だけど――、


「ユリウスに言われた。あいつ、すげぇ奴だ。逆に馬鹿かもしれない。あいつだって、レムに負けず劣らずの被害者のくせに、あんなこと、普通言えねぇ。馬鹿だよ」


「――――」


「賢い奴にも、馬鹿な奴にも色々言われて……カッコいい奴にも、優しい子にも、すごい人にもたくさん言われて、考えた。いっぱい考えて、決めた。俺の落とし所」


「落とし、どころ……」


「俺は、ルイを信じたい。許したい。……でも、今すぐは許してやれない」


 そう、自分の考えを口にして、目の前のレムの瞳が揺れるのを見ながら、スバルの頭の中を、ある男から言われた言葉が過った。


『好みでコロコロ他人の生き死にを決めるような奴と、付き合えるわけあるか』


 相容れなかった男に言われた言葉が、ナツキ・スバルの魂に痛々しく爪を立てる。

 好みでコロコロ、許す許さないを決めるような態度は、信じるに値しないと言われた。

 きっと、あの言葉は正しい。一番信用ならないのは、スバル自身の心だ。


 それでも、誰に譲るわけにもいかないこの心と折り合いをつけて、やっていく。

 絆されやすくて、すぐに掌を返すような脆くて情けない魂と、折り合いをつけて。


「――ぁ」


 スバルの言葉に驚いて、動けずにいたレムをぎゅっと抱きしめた。

 身長差があるところを、スバルは自分を下敷きにする彼女の体から引き抜いて、へたり込んだレムの頭をお腹に抱えるように抱きしめた。

 スバルが本当に心から、レムを大事に思っていることが伝わってほしくて。

 それから――、


「――うあう」


 その声が聞こえて、呼ばれたスバルはルイの方を見た。

 レムに手を離され、その場に立ち尽くしていたルイは、自分の番がきたのだとわかっていて、スバルのことを呼んだ。


「うー……」


 心細そうに立つルイ、その姿に「あ」と声を漏らし、スバルに抱きしめられていたレムが慌てて立ち上がった。

 そしてレムはルイを正面から抱きしめて、


「ご、ごめんなさい、ルイちゃん……私たちで、勝手に……」


「あう、うあう、あーあう」


「ごめん、なさい……っ」


 弱々しく謝りながら、レムが自分の顔を袖で拭い、ルイの隣に立った。

 また、ルイの手をぎゅっと握り、しかし、寄りかかるのではない顔で。そうレムの心を動かしたルイに、またちょっとだけ嫉妬する。

 その上で――、


「――ルイ、まだ俺になりたいか?」


「……う?」


「……何を、言ってるんですか?」


 スバルの質問、その意味がわからなかったらしく、二人が揃って首を傾げる。

 そう、二人で首を傾げた。レムだけでなく、ルイもまた。――『ルイ』も、また。


「さっき、レムに言った通りだ。たとえレムが許しても、俺はルイを許さない。他の大勢の、『暴食』の被害に遭った人たちも、ルイを許さないはずだ。でも」


「……でも?」


「でも、ルイ、俺はお前を許したい。許せるものなら、そうしたい。だから、聞かせてくれ」


 しっかりと、声が震えないように意識して、スバルはルイを真っ直ぐに見る。

 レムがルイの手をぎゅっと握り、ルイもその手を握り返しているのを見る。それが、二人の関係の答えなのだと、そう願いながら。


「お前は、大罪司教か? それとも、可能性か?」


「――――」


「散々言われた。俺もそう思ってる。この世界は大罪司教を許さないし、許しちゃいけない。『暴食』の大罪司教、ルイ・アルネブは許されちゃいけない存在なんだ」


「――――」


「でも、お前は俺を助けてくれた。何度も何度も庇ってくれた。自分が、俺になりたがってたことも知らない。俺の知ってるルイ・アルネブとは全然違う。それでも、『暴食』の権能は使える。魔女因子は持ってる」


 それがスバルの、これまで過ごしてきた『ルイ』への印象の全部だ。

『記憶の回廊』で出くわした大罪司教、ルイ・アルネブと同じ見た目をしていて、彼女と同じ権能を持っているにも拘らず、同じ人間とは思えない態度。

 それはいつかの『ナツキ・スバル』のように、今こうしている『レム』のように。


 同じでありながら、違っているもの。

 同じであることも、違っていることも、自分の意思で選び取ることができるもの。


 そんな『ルイ』に、問いたい。


「お前は、この世界の誰も許してくれない大罪司教か? それとも、大罪司教がしでかしたことを取り戻せるかもしれない、可能性か?」


「あ、うぅ……」


「お前は……お前は、新しく生き直せるか?」


 もしも、もしもだ。

 もしも『ルイ』の置かれている状況が、『ナツキ・スバル』や『レム』と同じなら、スバルが投げかけているのはひどく残酷で、理不尽な問いかけだった。

 身に覚えも、心当たりもない、自分ではない自分の負債が圧し掛かってくる苦しみを、スバルはよく知っている。レムも、わかっている。

 そしてそれと同じものを、こうしてルイにもまた被せようとしているのだ。

 だけど――、


「それができるなら、それを望むなら、俺の手を取ってくれ」


 言いながら、スバルはゆっくりと自分の手を、ルイへと差し出した。

 ルイの目がスバルの顔と、差し出された手とを行き来する。同じように、少女の隣で息を呑んだレムも、スバルの瞳と手とを視線で辿った。


「ルイ、たくさんの人が、俺とおんなじようにお前を呪ってる。その人たちみんなの気持ちを代弁するのは俺にはできない。けど、一個だけ」


「――――」


「お前がどうしたらみんなに許されるのか、俺にはわからない。ただ……ただ、俺がお前を許すために必要なことは、教えてやれる」


 ここにくる前に、この時間を許してもらう前に、エミリアが言ってくれた。

 エミリアは、スバルが教えてくれたなんて言っていたけど、とんでもない。スバルはいつだって、みんなに教えてもらってばっかりだ。

 自分の気持ちの解決方法さえ、教えてもらわなくちゃわからなかった。


 スバルが、どうしてルイを許したいと思っているのかも。

 どうしたら、スバルがルイを許してやることができるのかも、全部。

 その、落とし所へ辿り着くための方法は――、


「――ルイ、大勢の人間を救え」


「――――」


「今、お前は理不尽な目に遭ってる。自分には身に覚えのないことで、とんでもなく理不尽な十字架を背負わされそうになってるのかもしれないってわかってる。それでも」


 大きく息を吸って、揺れない瞳でルイを見て、伝える。


「大勢の人間を助けるんだ」


「――――」


「助けて助けて、助け続けて、奪った以上に助け続けていれば……少なくとも俺は、俺だけは、お前に味方してやれるんだ」


 ――やらかしたことは、絶対に消えてなくならない。


 それはアナスタシアが以前、そして直前にも、スバルを凍りつかせた発言だ。

 スバルの『死に戻り』にさえ、決して覆せないものがあると教えた、スバルにとってはトラウマに等しい忠告だと、そう今は思えている言葉。

 しかし、アナスタシアはこの発言のとき、合わせてこうも発言していた。


「自分の正しさを信じてもらいたければ、それなりのものを見せなくちゃいけない。評価を変えるには、別の評価で覆すしかない」


 それこそが、スバルのトラウマになった忠告の、最も重要な部分だ。

 スバルが今、こうしてルイに手を差し出しているのも、彼女の行動が、スバルの抱いていた悪感情を覆したから。


 その、スバルに起こった心の変化を、『暴食』の被害に遭った全ての人たちに起こす。

 それが――、


「――それが、俺がお前に用意してやれる『ゼロから』だ」


 ゼロどころか、世界規模でマイナスから始めなければならない。

 途轍もなく、途方もなく、遠大で荒唐無稽な難題で、やり遂げられるなんて誰が信じられるだろうかという、そんな誇大妄想みたいな理屈。


 だが、それがスバルが用意してやれる精一杯だった。

 そしてこの途轍もなく、途方もなく、遠大で荒唐無稽な難題で、やり遂げられるなんて誰も信じられないような誇大妄想みたいな理屈なら、スバルは手伝ってやれる。

 他ならぬ、ナツキ・スバルがかつてそうしてもらったのと同じように。


「――――」


 手を差し出したまま、スバルはじっと、答えが出るのを待つ。

 急かしもしない。永遠に待つこともしない。必要な時間を、必要なだけかけて、必要な答えが出るのを、じっと待ち続ける。


「私は……知りません」


 その静寂の中、押し黙っているスバルとルイの傍ら、レムが呟いた。

 一瞬、それがスバルの提案を聞き入れないという意味かとも思われる発言だった。しかし、そうではないと、レムの眼差しが言っていた。

 彼女は、続ける。


「大罪司教というものも、ルイ・アルネブなんて名前のことも、全部」


「――――」


「でも、その大罪司教というものも、ルイ・アルネブという人間も、この世界にいることを許されないなら……この子は、何になるんですか?」


 声は、震えていた。でも、その薄青の瞳に涙は湛えていなかった。

 潤んでぼやけた視界では、自分の欲する答えも、相手が提示した答えもちゃんと見えないと、そう訴えかけるように、レムの瞳は真っ直ぐだった。


 大罪司教でも、ルイ・アルネブでもないことを選ぶなら、何になるのか。

『ルイ』として、たくさんの理不尽を背負い、その向こう側にあるかどうかもわからない許しを求める道を往く。――そんな少女が、何者になるのか。

 そう問われ、スバルが返せる言葉は――、


「――スピカ」


「え……?」


「新しい生き方と、新しい自分を生き直すその子に、俺はこの名前を贈る」


 レムの目が見開かれ、そしてルイもまたその瞳を見開いた。

 これまでと違う生き方を選び、これからは全く異なる未来を目指すなら、スバルは自分がしてやれることは全部してやるつもりだ。


 誰も大罪司教を許さない世界で、誰もルイ・アルネブを許さない世界で、それでも目の前の少女を許したいと心から思うから。

 スバルが少女のことを許せるように、そんな何者かになってほしいと望むから――。


「スピカ……」


 唖然と、呆然としながら、その名前を口にして、レムの視線が傍らを見る。

 少女はじっと、スバルを見つめていた。スバルも、目を逸らさずに少女を見ていた。


 こうなってほしいと、そういう願いはある。

 でも、それを口にすれば、きっと少女はそうしてしまうから。自分の願いではなく、スバルの願いを尊重してしまうから、言わない。


 誰かのためじゃなく、自分のために選び取ってほしいから。

 自分が歩いて歩いて歩き続けて、歩き続けた先にその道を振り返ったとき、自分が選んで歩いてきた道だと、そう思えるようであってほしいから。


「――うあう」


「――――」


 少女の薄い唇が動いた。スバルの名前が、柔らかく呼ばれた。

 じっと黙って、スバルは待つ。急かしたくもない。永遠に待ちもしない。必要な時間をかけて、必要なものを選んだ、その答えを聞きたくて。

 そうして、自分を必死で抑え込むスバルに、少女の表情が変わった。


「あううあう」


 緩く柔く、紡がれた言葉と浮かんだ微笑み。

 そして、青い瞳から、その眦から涙が伝い落ちて、少女の手が、差し出されたスバルの手を、そっと握る。

 その細く、柔らかい感触を迎え入れ、スバルはぎゅっと目をつぶった。


 大罪司教でも、ルイ・アルネブでもない、新しい生き方。

 大罪司教であり、ルイ・アルネブであったという、拭い去れない過去。


 それを抱え込み、茨の道を歩んでいくことになる少女――『スピカ』の手を、ぎゅっと強く、手放さないように握りしめて。


「俺は、いつかお前を許したい。――だから、一緒に頑張ろう」


「……あう!」


 ニッと、白い歯を見せて、涙顔でスピカが笑った。

 そのスピカの笑顔を横から覗き込んでいたレムの、その感情が膨れ上がり、決壊する。


「――っ」


 それまで以上に、熱く、たくさんの涙を流したレムがスピカを抱きしめた。

 抱きしめて、掻き抱いて、わんわんと声を上げて、レムが泣く。そのレムにつられ、抱きしめられて驚いたスピカの表情が曇り、くしゃくしゃになり、


「――ああああう!」


 スピカもまた、大きな声で、顔をくしゃくしゃにして、年相応の様相で、年相応とは言えない宿命を背負いながら、泣き出した。


 新しく、この世界に生まれ落ちた存在が、誰もがそうするみたいに。

 産声みたいにわんわんと、少女たちは泣き続けた。泣き続けたのだった。


 ――スバルも、ちょっと泣いた。



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