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八神夕歌(やがみ ゆうか)[T.Ishiyama]
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八神夕歌(やがみ ゆうか)[T.Ishiyama]
@kotonoha_yakata
youtube.com/@kotonoha_yaka…Joined October 2018
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そもそも、紫式部は源氏物語を書いたことがすごいというよりは、勅撰集の約1100首に迫る795首もの歌を自作して自分の物語の中に詠みこんだことがすごいのです。しかも、歌を詠まさない人間には絶対に歌を詠まさない(葵の上のようにね)。これが人間業じゃないんですよ。
高校の探究は、いかに「安易にアンケートに走らせないか」「フィールドワークに安易に行かせないか」がポイントだと思っています。とにかく文献に当たる。統計や年鑑に当たる。原テクストに当たる。叙述に耳を傾ける。そこから導かれる論理的帰結を正しく記述する。それを自分の言葉で出力する。
高校三年生の半分は共通テストを受けないんです。高校三年生の半分は大学に進学しないんです。そのことの意味をよく考えて、古典指導の意味を踏まえないと、すぐに議論がエリートの議論になってしまう。この五年間、私が【ずっと】言い続けていることです。言い続けているのに、本当に理解されない。
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巻一「桐壺」冒頭部分は、物語最初の和歌である【限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり】にたどりつくまでの壮大な【詞書】だと考えると、その凄さが際立ちます。「生きる道を選びたかったのだ」と死の間際に詠まれたこの歌が、源氏物語という物語全体の行く先を規定するのです。
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源氏物語は、795首の歌に捧げられた「詞書」であり、そういう意味では【歌物語】なのだ、と私は考えています。
今日は家庭科の試験監督に入っていたのですが、クーリングオフのメールでの文面を答える問題とか、給与明細の見方の問題とか、賃貸契約書から毎月の支払額を求める問題とか、「これTwitterでさんざん話題になっとる問題全部やってますやん!」となったので、皆さん家庭基礎の教科書を読んでください。
高校に入ってはきたものの、漢字検定でいえば5級に通らない、九九も全て言えない、魚は切り身で泳いでいると本気で思っている、常に停学者が15人ほどいる、三年生は4クラス20人編成(教室の机は16台しかない)、そういう学校の生徒に、どのような国語を教えるのか、私はそれを議論してほしいのです。
「考察は感想じゃないよ」と言っているのに感想を書いてくるというのは、たぶん本当に「書くこと」の指導が体系的になされていないことの証左だと思っています。それと同時に、「感想を書かせすぎている」ことの弊害を感じます。あとは、要約で「筆者は」「と思った」を書くなと言っても書く生徒。
お願いだから、教育には「口を出さずに金を出せ」を淡々と実行してください、予算があれば解決することしかありませんから、今の教育現場。
「漢詩を学ぼう」説明プリントを作成してみました。従来のイメージとガラリと違うものを目指したので、おそらく面食らうものになっているかもしれません 敢えてトリヴィアルな作りにしました。ちなみに、Wordで作成しています。表はExcelで作成しました。
以前からずっと作りたかった「古文助動詞一覧・活用の型別まとめ」をやっと作成しました。私はこれで教えたほうが助動詞は早いと思っています。用言の活用さえ覚えたら、助動詞は全部それに依拠します。それが一目でわかるでしょう、これ?
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私は「生きていればあとで必ず確認できるから、気にせず自分の判断で逃げろ」と生徒にいつも伝えています。というか、プリントを作って配るようにしています。
哲学は、もっと方法論的に高校までで教えておいたほうがやはりいいように思います。哲学は学問分野を超えて必須の思考の枠組みだと思うのです。しかし、高校ではあまりにも雑に思想的なものが扱われていて、私はそのことに不満を覚えています。
大阪府立の高校は、学校司書も置かない、図書予算も公費は5万出せば十分だろうという委員会のふざけた姿勢によって、そもそも探究以前の問題なのですが(ほんとに万博の予算をよこせ)、その中でも勤務校はなんとか尽力して必死で運用しています。でも教育委員会はそろそろ一度崩壊しろと思っています。
だいたい、採用試験に落ちた人の通知封筒に講師登録の案内を入れるの、控えめにいって失礼なんですよ。民間企業で、お祈り通知と一緒にアルバイト募集の紙を入れて送ってくるのかという話ですよ。こういう発想が官製ワーキングプアを作り上げてしまうんです。本当に馬鹿馬鹿しい。
教育学部の教授に小中高教員経験者、起用を義務化…文科省方針(読売新聞オンライン)
#Yahooニュース
news.yahoo.co.jp/articles/12369
逆にしてほしいんですよね、小中高教員に教育学部の教授(准教授以上)の起用を義務化。こっちだと思いませんか? あと、文科省官僚の教員免許と教歴の必須化。
昨日、黒板の画像に板書計画を書き込むと便利だというツイートを見かけ、思わずテンプレートを作ってみました(縦と横のA4サイズ、黒板スリム版とワイド版の四種類作成してみました)。GoodNotesなどのテンプレートで読みこめば、指導案の板書計画も非常に作りやすくなります。上下に余白も作りました。
「うつくしきもの」の「うつくし」は【小さくてかわいらしい】ものを指すので、「なんかちいさくてかわいいやつ」ことあのキャラも「うつくしきもの」です。 #光る君へ
古文・漢文の時間はもうそもそも圧縮可能な限界まで圧縮されているので、ここで不要論を叫ぶ人は現場のことを知らなさすぎですし、知ろうとしなさすぎですし、これ以上減らせというなら、それは文化を燃やす歴史の弑逆者でさえあります。実利とか、そういう問題じゃないんですよ、歴史って。
たとえば私は源氏物語を専門として学生時代から研究に向き合ってきていますが(今は教育に身を置いているので、別にたいした業績も何もないただの素人のようなものです)、紫式部のことや藤原道長のことは漢文日記やらで読んだ記述以上の「人間性」を見出すことはできませんし、そもそもそれもまた→
四月から初めて学校現場に教員として務める方は、
・事務室や備品置き場、印刷室の場所を教えてくださる先生
・教務手帳の作り方と書き方を教えてくださる先生
・近場のお昼ごはんを食べられる場所を教えてくださる先生
がいたら、その先生は最後まで信用していいと思います。
「道徳」という言葉をやめて、「人権と法律」とかにしたほうがいいと思います、いまの教科としての「道徳」は。徳目にしているからおかしなことになるんです。これこそ実用を求めなければなりません。
あと、児童生徒を呼び捨てにする問題よりも、私は教員が自分のことを一人称で「先生」と呼んだり、Twitterのアカウント名などに「〜先生」とつけているほうが、よほど隠れた強い権力機構を感じるので危険なように思っています。低学年なら仕方ないという意見もありますが、それには与しません。
どこの会社が、自分の会社の試験に通らなかった人を嘱託・派遣やバイトで雇うのか、という話ですよね、これ。学校だけがずっとそんなことをしている。しかも不合格で講師に回った人にはろくな研修なし。そこがどうかしています。研修やフォローアップが必要なのはそういう講師の先生方です。
お願いですから、非常勤の先生の給与は担保してくださいね、教育委員会の皆様 こればかりは上の都合で授業が飛ぶのですから、何も対応なしというのはありえないです。というか、今回の件で誰も不利益を被ってはならないのです。そこを政府はまず考えないと
教員評価、昔に「Sをつけたいんだけど、人数的に一年だけ借り1で許して」と校長に言われ「A」がついたことはあります(翌年からはずっとSでしたが、「人数的に」という言葉はそれからずっと喉に引っかかっています)。絶対評価じゃない評価って何なのでしょうかね。
小中学校の10%が感染したら一斉休校というのも目を疑いたくなりますし(そんな事態になったら市中はもう惨状でしかないことくらい想像がつかないんですかね)、重症病床稼働50%以上で都心の動きを止めるというのもつまるところなんの具体性もないですし、雰囲気で政治をするな、とは言いたいですよ。
勉強の極意は【便覧】と【図説】にあります。これを読みこなすのです。副読本をないがしろにする人は後悔します。理科も図説、社会も図説と史料集、国語は便覧です。数学は教科書、英語は文法書です。とにかく授業進度なんて無視して好きに読むのです。読みつぶすのです。読みまくるのです。
やっと言えました。ここ数年、「しんどいなら学校に行かなくてもいいよ」という発信があって、私はそれも真実と思いつつ、非常に言語化できないものを感じていたのですが、いま、ようやくそれを言語化できたように思います。
「明日、しんどいなら学校においで」
これが私の教育の根幹です。
助動詞の接続がぜんぜん分からないという生徒に昨日補習していたのですが、助動詞の接続は、
「まだそれが行われていない系+る・らる・す・さす・しむ」→未然
「すでにそれが行われている系」→連用
「推測をともなう系」→終止
の大きく分けて三分類なんだよ、と説明したらびっくりされました。
『方丈記』一冊を岩波文庫で自力で読めるようになれば、おおかたの古典はほぼ(敬語や主語の省略を練習すれば)読めるのではないでしょうか。私は高校時代、方丈記から入って、竹取物語、伊勢物語は岩波で読み通しました。敬語は竹取物語一択です。法則にまったくの乱れがありません。和歌は伊勢物語。
源氏物語は、授業後にものすごい熱量で、授業で説明しきれなかった事項について、ものすごい精度で質問してくる、目を輝かせた生徒が必ずといっていいほど出てくるので、これがすごいと思うんですよね。「女御・更衣あまたの【あまた】ってどれくらいだったのですか?」という質問はなかなか鋭い。
古典敬語の種類別・五十音順一覧表を作成しました。これもありそうでなかなかないんですよね(^_^;) 一枚に収めたので、活用していただければ幸いです。
入院していたらわかりますが、大阪、明らかに救急車のサイレンの音が激減しています。私の入院している病院も間違いなく急患受け入れを抑えています。この一週間、病院下まで響くサイレンを聞いていませんもの。つまりはそういうことなのでしょう。今病気したら本当に大変ですよ……。
あとはこの『「羅生門」55の論点』(三宅義藏、大修館書店)です。羅生門で気になる点はほぼ網羅されていて、これ一冊必読と言って良いかと思います。
これ、「言語文化」に対する挑発的な宣戦布告ですよ。桃太郎やかぐや姫でなくとも、過去にあった物語を(文脈を変えて解釈するならともかく)根本の部分から変えることで【道徳】を押しつけようとするのは、もはや教育の名を借りた弾圧ですらあります。第一、このことで偏見や差別を「どう」学ぶのか?
Quote
NHKニュース
@nhk_news
「桃太郎」が女の子「桃子」の紙芝居 小学生ら偏見や差別学ぶ #nhk_news www3.nhk.or.jp/news/html/2021
繁田信一先生がまた面白そうな本を監修されていたので購入しました。『平安貴族 嫉妬と寵愛の作法』です。なかなか良いと思います。古文常識のかゆいところに手が届いています。
ところで、この浜島書店の常用国語便覧の「源氏をめぐる女性たち」のページ構成、これ完璧だと思いませんか? 人間関係図も年齢差も全部綺麗に収まっていて、私は目から鱗が落ちました。
もう最近は自己紹介もやらなくていいかな、という気がしてきました。私の高校時代、2年生の数学Ⅱを担当していた非常勤の年配の先生は、教室に入るやいなや、名前だけ黒板に書いて窓際に向かい、「桜が綺麗ですね」とだけ言って、いきなり加法定理の説明から入ったので、それでいいように思います。
もうやっぱり小学校の先生の持ち時間が多すぎるのが問題なんですよ、これ。
高校の18時間は18時間×50分で900分、小学校は6年生は1015単位時間を45分で割って22.5時間ですが、実質の時間割は29コマなので29時間×45分で1305分。そりゃ無茶です。
学校の掃除の件、ひとつ言いたいのは、「そんなに掃除をさせたいなら、せめてTほうきのヘッドは1ヶ月に1度は全交換させてくれ」ということです。あと、モップをいいかげんにあの毛むくじゃらのではなく、マイクロファイバーにしてくれ……というのも。
あと、このオリジナル【年組番名前】スタンパー、何か急ぎでプリントを作った時に、名前欄を作るのが面倒というような場合にものすごい力を発揮します。余白にポンと押せばそれだけで名前欄が完成です。Xスタンパーの1835角型です。
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→後世の人間の「創作」的な人物像でしかないかもしれない、ということは、見逃してはならないと思うわけです。もちろん、史実とは明確に違うこととその話を同日の論にはできないこともわかりますが、皆さん、理想の「その人」を、歴史上の人物に求めすぎてやいませんか、とは言いたくなるわけです。
教員の質の低下、という言葉はあまり好きではないのですが、しかし、明らかに以前より根本的な読解力や背景知識が不足している国語科教員は急増しているように感じます。理不尽な問題を出したり、理不尽な指導をする教員は昔から少なからずいましたが、そうではない指導力不足の教員が増えてきた。
国語が得意な人というのは、生活と言葉が身体感覚で結びついている人です。生徒に対する私のこの感覚が外れたことは今のところありません。ちなみに、運動神経とは全く関係ありません。センスとも関係ありません。生活の実感、そうとしか言えないものです。
こんな感じの読解のメモを生徒にも配布しています。とにかく「問題を出す側のメタな視点に立つことも大事だ」ということと、「文法は機能的に整理して理解するのが大切だ」ということを伝えていっています。
Twitterで学校の評判が下がるのではないのです、学校の評判が下がるようなことをするからTwitterで拡散されるのです。この論理の順逆を間違えている学校が多すぎます。
黒板アートの何が気になるって、
・そのチョークはまさか学校の備品ではありませんよね?
・からっぽの教室に入学してきた生徒をからっぽの教室で送り出すのが学校なのではないのですか?
・それ、感動エビデンス主義になっていませんか?
という三点に尽きます。