魏の張郃は三度死ぬ ~国民作家も筆の誤り〜
今回は新聞校閲のお仕事からは離れて、ある小説のミスについてのお話を。
時は2世紀末。民衆の蜂起で衰退する後漢王朝から、群雄割拠を勝ち抜いた魏、呉、蜀の三国が覇を競う世へと移り変わる中国戦乱の時代。『三国志』の世界です。のち潤色を加え物語化された『三国志演義』(以下『演義』)は、日本でも小説や漫画、ゲームなど様々な形式に翻案され、今でも広く親しまれています。
その普及に大きな功績を果たしたのが吉川英治(1892~1962年)。昭和戦前から戦後にかけ『宮本武蔵』『新・平家物語』など数多くの時代小説、大衆小説を世に送り出し「国民文学作家」とも称された彼が著した『三国志』(以下『吉川三国志』)は、横山光輝の名作漫画『三国志』の土台になるなど後世に強い影響を与えた大作です。
この『吉川三国志』の中で「3回死んだ武将がいる」というのは三国志ファンの間ではよく知られた有名な話。果たしてどういうことでしょうか。
その武将とは魏の張郃(ちょうこう)。後漢の群雄の一人・袁紹から魏の始祖・曹操へと主君を転じ、以降魏を代表する名将の一人として各地を転戦、物語後半では総司令官の司馬懿の下で主人公格である蜀の諸葛亮(諸葛孔明とも)と戦う人物です。
張郃、三たび死す
1度目
そんな張郃の1度目の戦死シーンを見てみましょう。三国志の前半の主役であり、のちに蜀を建国する劉備が曹操の軍勢に攻め込まれます。曹操に仕えて間もない張郃は劉備や配下の猛将・趙雲を追い詰めますが、劉備の義弟であり、突如加勢に現れた万夫不当の豪傑・関羽の手勢に出くわします。
四巻、167ページ。
以下、同文庫から引用。ルビは省略した。
2度目
再び曹操の大軍に襲われて潰走する劉備軍。乱戦の中で救出した劉備の幼子・阿斗を抱いて単騎で逃げる趙雲の前に張郃は再び立ちふさがり、二つの鉄球を備えた鎖使いの敵役として登場します。張郃は鎗を奪い取った上に馬から振り落とされ絶体絶命に陥った趙雲にとどめの一撃を見舞いますが、これを外してしまいます。
3度目
時代は下り、劉備の遺志を継いで魏への出兵を繰り返す蜀の宰相・諸葛亮。ところが配下から同盟国の呉が魏に寝返ったという急報を受けて進軍を諦め、入念な策を施して引き揚げます。追撃に慎重な司馬懿を押し切って突出した張郃は罠に落ちてしまいます。
本当に三たび死んだのか
いかがでしょう。いやそう言われても困るかもしれませんが、よくよく読むと、はっきり死んだと断言されているのは実は3度目のみなのです。1度目は「屠ってしまった」であり、2度目は「(趙雲は)張郃の肩先から馬体まで、一刀に斬り下げて、すさまじい血をかぶった」「趙雲は彼を仆した」と記され、いずれも絶命したという証明はありません。
……とはいえなあ。それはかなり無理のある解釈と言わざるを得ないでしょう。ひとまず、1度目の「屠る」という言葉を辞書で引いてみます。例えばこちら。
ほふ・る【屠る】①鳥獣のからだを切りさく。②殺す。③敵をやぶる。
おおむね各種辞書はこの三つの意味を挙げており、合戦の場合は生死を問わず使います。『吉川三国志』で他に「屠る」の用例を探してみましょう。
この漢、なかなか勇猛で、曹洪も危うく見えたが、逃げると見せて、急に膝をつき後ろへ薙ぎつけて見事、胴斬りにしてようやく屠った。
楊齢というのは、長沙の太守韓玄の股肱の臣で、防戦の指揮官を自分から買って出た大将だったが、この日、関羽がその楊齢を一撃に屠ってしまったので、長沙の兵は潰乱してたちまち城地の第二門へ逃げこんでしまった。
これらは明らかに命を奪う意味で使っています。張郃の軍を粉砕したことに加え「とうとう敵将張郃を」と強調していることからも、破るだけでなく討ち取ったと解する人の方が多いでしょう。2度目は体を両断されるほどの重傷を負いながらも一命は取り留めたと言えなくもありません。ただこの時の吉川英治の筆は乗りに乗っており、武神趙雲の青釭の剣が次々に噴き上げた鮮血を「愛の虹」とまで評しています。これで討ち漏らしていたらちょっと格好がつかないでしょう。
なお、横山光輝の『三国志』では1度目は場面ごとカット。2度目の鎖使いは登場するのですが名乗らないまま趙雲に倒されており、頭巾に八の字髭が特徴的な張郃とはやや風貌が異なります。原典の『演義』(井波律子訳、ちくま文庫)では2度とも趙雲と打ち合った末に退却。最後の(?)戦死はいずれもほぼ共通しています。
恐れ多くも仮に自分が校閲を担当していて『演義』の展開を知っていたら、1度目の段階で「死んだと受け取られる可能性がありますが、オリジナル展開にしてよいですか?」などと聞かざるを得ないかな、と思います。予備知識ゼロと仮定すると、次に登場した時点で「えっ死んだと思ってましたがまた出すんですか(大意)」とお伺いを立てることになるのでしょう。それにしても作者も校閲も、膨大な登場人物の生死や相関関係を把握するのは相当に骨が折れることでしょう。
中日新聞と吉川三国志
ところでこの『吉川三国志』、実は中日新聞の前身である「名古屋新聞」の夕刊に連載されていた時期があるのです。中外商業新報(現在の日本経済新聞)やいくつかの地方紙と日を合わせて1939年8月26日から始まった連載は、しかし戦時の新聞統制でライバルの「新愛知」と統合させられ、1942年9月に「中部日本新聞」が創刊されたことを機に途絶してしまっています。
なお、遠い先達をくさすようで気は引けますが、この名古屋新聞の連載は誤植のオンパレードであり、例えば趙雲を何とか生かして配下にしようと考える曹操の「士を愛するというよりも、士に恋するのであった」という性分が「士に變すのであつた」とご丁寧にルビ付きで間違えられていたり(変の旧字体は「變」、恋の旧字体は「戀」)、張郃の「郃」が全てへんとつくりが入れ替わっている回があったりと枚挙に暇がありません。手書きの原稿を活字に組んでいた時代のこと、そもそも作者の意図した通りに読者に届けられるかがまずは何よりも大事なことだったはずです。
結局作者は
さて、この張郃問題、肝心要の作者本人はどう考えていたのでしょう。講談社の編集者として吉川英治と親交の深かった萱原宏一は、こう回顧しています。
苦徹成珠の吉川さんも"三国志"だけは、リラックスに書かれたようである。楽しんで書いておられる風でもあった。馬上からバラリンズンと斬殺した人物を、後の場面で活躍させて、飛んだ失敗したよと、吉川さんが苦笑したようなお愛嬌もあった。
(萱原宏一、『吉川英治とわたし』所収、講談社)
張郃のこととみて間違いないでしょう。どうも誤って戦死させてしまった自覚はあったようです。また傍証として、戦後間もない時期に大日本雄弁会講談社(現・講談社)から刊行されたバージョンでは、実は2度目の戦死の場面が改稿されて張郃は生き延びているのです。
その隙に、趙雲は躍り立つて、
『天この若君を捨てたまはず。われに靑釭の劍を貸す!』
と、歡喜の聲をあげながら、育(ママ)に負ふ長劍を引拔くやいな、張郃の肩先へ斬つけた。張郃は何か目がくらんだやうに、馬から落ちてしまつた。
後々の語り草に、世の人はみなかう言つた。
(――其折、坑のうちから紅の光が發し、張郃は眼が晦んで刹那に趙雲を逸し了つた。これみな趙雲のふところに幼主阿斗の抱かれてゐた爲である。(後略)
(261ページ。大日本雄弁会講談社、1949年。
ルビは省略し、字体はなるべく原文に合わせた)
ただこの改稿はのちに普及した各文庫や全集では採られませんでした。豪快にぶった斬る描写を先に読んだ身としては、その理由がなんだか分かるような気がします。当時の吉川英治は他にも新聞や雑誌に連載を何本も抱えたまさに八面六臂の活躍であり、楽しみつつ一気呵成に書き抜いた物語が細かな齟齬を超えるだけの熱を宿すのであれば、後に手を入れつじつまを合わせることが常に正解とも限らないのかもしれません。それなら武将の名前の方を差し替えればよかった気もしますが、まあともかく。
最後に
なお、吉川英治の本名は英次(ひでつぐ)と言います。新進時代に用いていた多数の筆名をやめて本名を使ってほしい、という編集からの要望を容れたところが、なんと雑誌のゲラ刷りで「吉川英次」が「吉川英治」と誤植されてしまったにもかかわらず「この方がいいや」と気に入ってそのまま使い続けたそうです(『吉川英治 人と作品』松本昭、講談社)。何とも鷹揚なエピソードですが、3度死んだ張郃と同じように、過ちが時には怪我の功名になることも――なんて書くと、校閲としては立場がないかな?


コメント