「いいですか? 尊。掌印というのは、仏や菩薩の表す意味を表現するものです。呪詞もそうですが、カッコつけでやっている訳ではないんですよ」
(いや、知っているが……)
二人で行動していたある日のこと。
佳子は尊に、そんなことを話していた。まだ、尊が安倍家にやって来てそう日が経っていない時のことだ。佳子は自分と同年代の少女を前に、先輩風を吹かせたくて仕方がなかった。
……もっとも、この後すぐに尊が予想以上にしっかりしていると悟り、先輩風を吹かせるよりも甘えて自分の世話をしてもらうようにシフトしたのだが。
ともあれ、先輩風を吹かせたい佳子は尊の微妙な態度を無視して、掌印を形作る。
ちょうどお金を表すジェスチャーのような形で右手の人差し指と親指で輪を作り、左手でも同じことをする。右手は垂直に立て、左手は寝かせた状態に。こうすると、阿弥陀如来がする掌印の完成だ。
「これは"来迎印"。人が亡くなる時、阿弥陀如来が浄土からやって来る時の掌印とされていますね。意味は「衆生の救済」。この意味から、呪術的には範囲設定の際に使用される掌印になってるらしいですよ」
(知っているよ……)
ただ、この時まだ佳子に遠慮があった尊はそこまで強く指摘できない。結果として、先輩風を吹かせることに夢中な佳子は尊の様子には気付かず、
「他にも色々とありますよ。代表的なのは"九字"ですかね。藤原では教えられてますか? "九字"。ウチだと必修なんですよ」
「そ、そうですか……」
「必修て……。まるで学校だな」と内心で思いつつ、尊は頷く。
おそらく、よほど教え込まれたのだろう。佳子は滑らかに手を動かしながら、
「朱雀・玄武・白虎・勾陣・帝久・文王・三台・玉女・青龍。原典だと「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」ですけど、
佳子は諳んじるようにしながら、
「頭から「独鈷印、大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、隠形印」。九字の掌印はよく使うので、覚えておいて損はないですよ。あっ、外縛印と内縛印は彌虚葛籠の掌印でもありますから、尊も知っているかもしれませんね!」
「そうですね……」
当然、九字の掌印など尊も知っている。何なら術師を始めて間もない頃から知っている基礎知識である。
ただ、気持ちよく先輩風を吹かせている佳子にそれを指摘するのも憚られた。重ねて言うが、まだこの頃は尊の中にも佳子への遠慮があったのだ。
「私はまだ領域展開ができませんから。今からどんな掌印を組もうか考えているんですよ。やっぱり来迎印ですかね? なんかこう、颯爽と助けに来た……えー、正義の味方っぽいじゃないですか!」
「私もそう思います」
もはや完全な機械的同調と化した尊の相槌に、佳子は天真爛漫な笑みを返す。
あまりに屈託のない笑みに面食らった尊に、佳子はこう続けた。
「尊のことも、助けてあげますよ! この天才の佳子さんがね!」
◆ ◆ ◆
首を、
そして直後、違和感に気付く。
……刎ねた!? 「壺」で!? 否、「壺」が直撃したなら、細切れになって「壺」の中に入っていくはずだ!!
つまりあれは……「壺」の攻撃によるものじゃない!!
状況を見れば、すぐに分かった。
首から切り離された、ボロボロの滂沱の胴体。滂沱は──残った腕で、己の首を自ら切断していたのだ。
……呪霊は、呪力によって構成されている。つまり人間のように、腹から呪力を練るといった観念は存在していない。呪力による治癒にだって制約はない。つまり……やろうと思えば、首からだって再生できる。
『………………ッ!!』
逃げる気? 援軍がいるのか? いや……あの目はそんな目じゃない!!
「佳子ォ!! 一旦下がれ!!
証拠に、滂沱から激しい呪力の
領域の再展開か? いや……馬鹿正直にまた展開したとしても、私に潰されることは承知の上だろう。となると、単に広域に「雲」を展開して雷での攻撃か? なら、展延を軸に戦えば祓えるはずだが……! クソ、なんだこの嫌な予感は!
「大丈夫です!! 未来は既に見ています! 領域展開はない! 雷が降ろうが槍が降ろうが何とかしてみせますよ!!」
しかし、佳子は突撃を選択したようだった。
チッ、あの馬鹿め。黒閃を決めてハイになっていやしないか? だが……一人だけ突出させた方が却って危険か……。
仕方がなく、私も佳子の後ろについて走っていく。ついでに、首から下は消滅する前に「
……やはり、呪力制限の縛りは馬鹿にできない。首だけになって一〇メートル弱吹っ飛んだ滂沱は、佳子が接近するよりも早く肉体の再生と「雲」の展開を達成した。……ん?
滂沱の右腕がない。再生しなかったのか? 再生箇所を制限する縛りか、あるいは単純に呪力量が足りなかっただけか……まぁ確かに、これなら両手がないから掌印も結べない。領域展開がないという佳子の判断は、これが理由か。
だが……!
『小娘どもが。呪霊を、
滂沱の背に聳え立った「雲」が──突如、彼の目の前で「凝縮」され始めた。
……! これは……!!
雲外蒼天
極ノ番 「快晴」
「雲」が、一点に凝縮されていく。
おそらく、"重力"だ。本来は外側に向ける重力操作を、内側──つまり「雲」自体を対象にとって、その力で「雲」を強烈な勢いで凝縮しているんだ……!
「佳子、やっぱりアレはまずい! 未来を──」
「だから大丈夫です! きちんと見ています!
あれは……なんだ? 火の玉?
何で水を圧縮して火の玉が……そういう術式効果か? クソッ、前世の無学がもどかしい!!
……考えろ。この局面は詰めに差し掛かっている。
佳子の予知を知っている滂沱が、回避されることを考慮せず切り札を使うとは思えない。とすると、予知を貫いて佳子を狙う算段がついていると考えるのが妥当。
たとえば佳子は未来、つまり次の攻撃が見えていると言っていたが、その攻撃がブラフだったら? これ見よがしな切り札は囮で、その陰で死角を突いた攻撃で佳子を始末する……十分あり得る!
やっぱり駄目だ。極ノ番は一旦様子見をするべき。その結果滂沱に逃げ切られたとしてもそれはそれで受け入れた方がいい。術式はほぼ割れている。私たちの役割は、天使への引継ぎなんだから!
「佳子駄目だ! 下がれ!! それは罠だ!!」
そう言って、一歩踏み出した瞬間──私の脳裏に電流が走った。
……佳子は未来を読んだと言った。どんな攻撃を食らうのか、とも。
つまり佳子が見た未来は、自分が攻撃を受けて死んだ未来。当然、佳子はそれを「否定」するはずだ。
それ自体はいい。佳子が自分が死ぬ未来を「否定」したということは、少なくともその未来には到達しないということ。
だが……「否定」した場合の未来は、佳子にも制御できない。
盤面さえ用意していれば蓋然性の高い未来へ誘導することはできるが……
滂沱が直前に佳子への攻撃を取りやめて、攻撃対象が変更されたとしても……未来は「否定」されたことにはなるだろう。
たとえば──佳子への攻撃を警戒するあまり、自分への攻撃という可能性には思い至っていなかった私とか。
つまり、滂沱の狙いは私か…………!!
佳子はまだ未熟だ。突然私が殺されれば、精神的動揺は凄まじくなる。その状態ならいくら消耗した滂沱でも逃げ果せることは容易だろう。
そう考えれば、厄介な結界術の持ち主を殺しつつ安全に逃げ切れることができる良い策だ。ギリギリだった……! あと一瞬でも気付くのが遅れていたら、死んでいた。
だが、気付いてしまえば後は簡単だ。
領域展延
展延を使えばいい。極ノ番相手にどこまで軽減できるかは分からないが、最低限拮抗くらいはしてくれるだろう。その間に飛び退いて躱せばいい。
ちょっとでも時間を稼げば、その間に佳子が仕留めてくれる。……俯瞰したら、佳子の判断が正しかったのはちょっと癪、
だ、が?
……腹が、熱い?
……はは、まずったな。
これ、腹に大穴が空いてるんじゃないか? クソ、多分断面とか焼け焦げてるよな……反転術式……仮に使えたとしても、これは無理か。
「みっ、み、尊ぉ!? 嘘、そんな、なんでっ!?」
『ハッハッハァ!! 見てるか跡切ィ!! テメェの仇、確かに取ったぞォ!!』
もう、音も聞こえない。
佳子は────あの馬鹿。滂沱に背を向けて私の方へ駆け寄ってやがる。それじゃあ流石に滂沱も逃げるよりお前を殺す方を選ぶに決まってるだろ……!
「やだ、びょ、びょういんっ! きゅうきゅうしゃっ!」
何事かを喚く佳子の背後へ、滂沱が迫ってくる。
あー……これは二人とも死ぬ流れ、か……?
「ごめんなさい、わたしが言うこと聞かなかったから、ごめんなさい、ごめんなさい!!」
……はー。
「………………どうせ死ぬなら、か…………」
抜けていく身体の力を総動員して、私は両手を動かす。
人差し指と親指で輪を作り、構える。
阿弥陀如来の手の形とされる、衆生の救済を意味する掌印。
"来迎印"。
私は、最後に佳子に笑いかけた。
柄にもなく……颯爽と助けに来た、正義の味方っぽく。
「佳子。
領域展開
「
なお、今日24時頃にももう一回更新します。
呪毒進運のエピソードはそこで終わる予定。術式解説もあるので注意です。