御伽の国の四季 (未完)
いい歳をこいて1円にもならない物書きをしている自分が嫌になる。
けれど自分の中には何故か『書かなければいけない』という衝動が湧いてしまう。それは誰かが時折、塞ぎこむ私にくれた小さな飴玉に対して不器用ながらも伝えたい感謝の気持ちなのかもしれない。そしてその選択が間違っていたとしても、過去の私が残してくれた伏線を何もせずに忘れていくなどと粗末な扱いにしたくはないと私という人間が選んだ人生なのだ。
限られた時間の中で私はいつも不安で、最近毎日ため息をついてしまうことが多い。そんな中でも、諦めきれず夢中で書き続け、かけがえのない時間を無駄にしてできた作品は、私から見れば結局駄文にしかみえないが、他の人にはどう見えているのだろうか。きっとウンザリしている人も多いに違いない、私と初めて会って談笑した人から見れば暗い文章の多い私を見て毛嫌いする人もいるかもしれない。ただ、私が書くこの文章は飴玉を置いていく彼らに宛てたものであるため目をつぶって頂きたい。
彼らは人というよりもキツネや猫などの獣の耳や尻尾を生やしている。私は現実の猫が苦手だが、仮想の猫は嫌いではない。特に声の出ない人参嫌いの猫は、私の文章がわかっているのかのように振舞い、時折現れては扱いの困る言葉をどこかから咥えて持って置いていく。その唾液と毛のついた言葉を見るたび私は眉間にしわを寄せてしまうが、しっかりと水で洗って口に放り込んでコロコロと転がしてみると、ほんのりと甘い味がする。
運悪く読んでしまった人がいないように、この先を読んだとしても何も得るものがないことを先に述べておく。
ある日こんな物語を思い出した。うろ覚えなので、きっといくつかの作品が混ざり合っている。
夢の世界に迷い込んだ主人公が、元いた世界では決して会うことのできない者達と出会うお話。物語ではそこにいる者達は別の世界と姿かたちが違い、その事実は伏せられている。そしてまた主人公を含め登場人物達はみな様々な事情を抱えており、何かに誘われるかの様にその場所に集まる。
こういった物語は似たような作品が世の中にはいくつもあることに気づいた。作品によっては別世界で会う者達は元の世界の正体が人ならざる者だっている。飼い犬や野良猫、捨てられた玩具、虐げられているロボット、既にこの世に実在しない思念体など。不思議なことに現実では人の言葉を話せない者達でさえも、この世界では主人公と同じ言葉で意思疎通ができる。
これらの作品の共通点は、主人公が現実世界で何らかの居心地の悪さを抱えているところである。相手とうまくいかず喧嘩ばかりをする日々に苦痛を感じていたり、当たり前の日常の中に溶け込む社会の違和感に気づいたり、好きな人への告白に失敗し生きる意味を失ったり。作品によってその『居心地の悪さ』という感情は、何となくその場所に対してつまらなさを感じている者から、世界から自分の居場所はないと絶望している者まで異なる。
そんな主人公が迷い込んだ異世界は自分のことを全く知らぬ者たちがいる新世界。理由もわからず巡り会う何かと何かが織りなす時間。読者は主人公を通して彼らの正体とこの世界の隠された真実を知り、そして主人公の抱えた問題の本質に気づいていく。
こういった物語には分類名はあるのだろうか。うろ覚えの内容だけでは正確に伝わらないので、いくつか作品を紹介していく。
例えばとあるゲームの作品では恋人とうまく行かない日々を送る男が一夜の過ちを犯したことにより、その日以来、悪夢に苦しめられるというお話がある。彼は毎夜、眠るたびにその世界へと連れて行かされ、夢から覚めるために怪物から逃げるデスゲームをさせられる。そこでは現実で恐れている不安や恐怖が怪物という形になって追いかけてくるのだ。
そこで怪物に殺されてしまうと現実では謎の怪死を遂げて見つかる。たとえ死に物狂いで逃げ仰ることができたとしても、夢から覚めれば何故かその世界であったことを忘れてしまう。そしてまた次の夜に悪夢は繰り返される。面白いことに、その悪夢の世界にいるのは主人公だけではない。主人公と同じような羊達がいて、主人公は逃げ続けるなかで同じく苦しんでいる羊達と出会い、助言を貰ったり与えたりして助け合いながら窮地を共に乗り越えていく。やがて主人公は自らの罪に逃げ続けるか向き合うかの選択を迫られていく。
別に他人の男女のトラブルなど、私にとってその日大きいトイレをしたかどうかを考えることよりも重要ではない。したがってこのお話の結末も今回話したいこととは関係ない。
何故この作品を紹介したのかというと、この作品は主人公が現実の世界と夢の世界を半強制的に行き来している。作品では現実世界で唯一の居場所ともいえる大衆のダイニングバーで閉店まで酒を飲みながら、そこに来る常連客との談笑を通じて何らかの情報を集めていく。本当の現実世界では、知らない人の席にいきなり腰を掛けて声をかけることなど怪しまれるし、ましてそんな勇気があるのならもっと簡単に事態を攻略できるような気もするが、限られたメモリで作られた世界線の中では開発者にとってこの方法が一番気づかせやすい方法なのだろう。何を気付かせたいのかというと、一つはそこで得た情報から、裏世界にいる羊たちが皆バーにいる者達であるということをプレイヤー側に気づかせてくれるということだ。その裏世界を通して表世界では気付けなかった身近な人々の本当の心情に気づくことができるプロセスは、他人が何故その行動をとったのかを表だけで理解することの難しさを表している。
そして、主人公の理性の欠いた判断から欲に溺れた行動による過ちは、主人公だけでなくバーにいる常連客達も同じであること。皆それぞれ違う形であれ恋愛について悩み、葛藤を抱えながら生きているという描写も物語に深みを出している。現実の人間関係の不条理さに対してわかっていれば回避できるというリプレイ願望をファンタジーを通して満たせることができるのもまたゲームならではの魅力である。
また別のアニメの作品では、舞台は現実の世界だが、そこにひっそりと営む喫茶店で、人と人ならざる者との交流を描くお話がある。
それはとあるビルの地下にあり、ロボットと人との交流を描いた話だ。ここでは『ロボットと人を区別してないけない』という独自のルールの下で、誰が人間で誰がロボットなのか見分けがつかない。この世界で最も多いロボットは、頭に浮かぶホログラムがなければ人間と見間違えるほど精巧に作られたアンドロイドという存在である。
そこでは普段では人らしい振る舞いを制限されているロボット達が自由に人間のふりを行い、感情を持っているかのようにカフェの時間を楽しんでいる。主人公とその友人は彼らと交流を通して、今まで便利な道具として扱っていたロボット達の複雑な現実と向き合い始めていく。
この作品では、明確な線引きは難しいが現実の世界と夢の世界という表現を用いると、カフェの外と中になるだろうか。
先程のゲーム作品との違いは、登場人物達が自由に外と中を行き来が出来る。そして主人公達は迷い込むというよりも、能動的に興味半分でお店に立ち寄ったことで始まる非日常的なお話である。
普段の生活から思いがけない場所から気付かされるロボット達の「気持ち」という感情の様な反応。彼らを心があるかないかわからない存在とおいた時、仮に人同士ならばと私は考える。
私達は身近にいる感情らしきものを制限している又は制限されている「他人」という名のロボットに対して本当の気持ちを理解できているだろうか。体型、服装、性別、年齢、経歴、階級、人種など。私達の中にはブラックボックス化されたシステムがいくつも存在する。
この作品のように。もしも人もロボットも、そして他人でさえも見分けがつかず、区別できないカフェが実在したとしたら。どんな化学反応が起きるだろうか。人によっては互いに寄り添うことのできる気づきが生まれる物語があるのかもしれない。
最後に、他の作品ではこんな物語もある。これは昔からあるWEBで掲載されている漫画である。
そこに登場する夢世界の人物は皆、現実と姿は何も変化していないが、彼らは時代や世界がみんなバラバラで意思疎通が難しい者もいる。不思議なことにその夢世界には意識的に来たわけではなく皆、気づけばそこにいた。一見何も共通点はないけど、その世界にいる者達は皆、迷い込んだ時のことを覚えている。しかし何故ここに来たのかが分からない。
実はそこは何かしらの決断を迫られた瞬間に迷い込んでしまうというモラトリアムの夢世界である。現実の世界は決断をしなければいけないその時間で止まってしまっている。故にそこにずっと居続けても良いし、迷い込む前の現実の状況に対して、決断をして現実に戻っても構わない。しかし中には中々決断をすることができず月日が流れ、挙句には何の選択肢があってここに辿り着いたのかを忘れてしまった者達もいた。
主人公はそんな彼らと、ぎこちない交流を重ねていくうちに、やがて一人一人からここに来た理由を教えてもらう様になる。しかしそれは、その人がこの世界からいなくなるきっかけにもなり、仮に現実に戻ったとしても幸せにはならないという真実が待っていた。主人公は他人から話してもらう時に責任が伴うことに気づく。初めは無意識に相談を受けていたが、自分にとって居心地の良い空間になればなるほど、彼は親しい友人が夢世界から消えていくのを拒み、意識的に相談を受けることを避け始める。彼らと別れたくはないから。
このお話の場合では他の例と違って、現実世界と夢世界を自由に行き来することはできない。夢世界から何かをしなければ現実の世界に戻れないあたり最初に紹介したゲームの作品と同じだが、このお話はそれよりも平和で切なさの余韻が強く残る。遥かに死に対するイメージは強くなく、どちらかというと生に対しての選択をすることの苦悩に焦点を当てている。
生に対する選択とは何かというと、私たちがどのように生きるか、または生きるために決定する行動であり、私が言いたいことは、いわゆる私達が常に求められているものである。例えば今日は何時に何処へ行き何をするのか。朝起きたとき今日は朝ごはんを摂るか摂らないか、学校に行くか行かないかとか。学校の先生から授業を受けた後に与えられる宿題にも、やるかやらないかの選択肢が与えられている。毎日繰り返しているとそれを考えてからでは間に合わないため、寝る前に次の日の予定を決めている人もいるだろう。これは学生の話だけではなく社会人にも当てはまる。
さらには、生に対する選択肢は、自分だけに完結したものだけではない。自分と他者が相対する場面でも生に対する選択肢は存在する。
現実の世界では話しかけ方にも選択肢はある、相手に歩み寄るべきかそれとも共感をなくして冷静に結果を伝えて話すべきか。仮想の世界においても同様である。賑やかな輪の中に加わるか加わらないか。名も知らぬ相手に声を掛けるか掛けないか。こんな時もし相手の気持ちがわかったなら、どんなに楽だろうか。しかしこの世界にそんな魔法はない。
ただ先程の二例目に紹介したアニメ作品の中に次のような台詞がある。
「『あなたは私をどう思っているの?』って。それが、ここにいる理由。」
主人公がそこに通い続けるロボットに、何故この喫茶店に通いつめるのか尋ねた時の言葉だ。そのロボットは人間の手伝いをしている補助ロボットだが、その主人らしき相手からいつも粗雑な扱いを受け続けていた。そこで、そのロボットは自分の中に生まれた疑問に対する答えを探すためにここにいるのだという。
その質問は、自分と見た目が同じでも中身が違う相手に理解を示したい考えから生まれた胸の内に秘めている純粋な問いかけ。アニメの彼女は今も喫茶店に通い詰めている。彼女の想いは叶ったのだろうか。昔の記憶が曖昧で結末が思い出せない。
考えが分からない相手がいるのなら、自分の中で溜め込んでいても辛いだけである。それならば、いっそのこと別の人に話すという方法は有効である。さらにはその相手が同じような境遇を経験したことのある人であったり、逆に考えのわからない相手と同じような人物であったならば、もしかするとそこに新しい視点が見つかり、解決の糸口につながる答えが見つかるかもしれない。
現実の世界はデジタルではなくアナログで、どんなに最悪の結末や、どんなに素晴らしい結末であろうと、それらは連続に続き同じ時間軸に存在できる。同じ境遇であろうと現実は小説よりも奇なりとよく言ったもので、捻くれ者の私は今もそれを実感しているし、そして愚かにも私は信じている。あの時は失敗しても、命が無くなっていないのであれば人同士の繋がりというものは、またいつか再開することだってあり得るのだ。それこそが小説よりも奇なりと呼ばれる現実の真価である。それはきっと、お互いが笑顔で和解できる救済という希望があっても良い。それが来ることを願って、同じことを繰り返さないように、あのときのあの人は、自分のことをどう思っていたのだろうかと脳裏の片隅に置いて、この夢の世界を彷徨いあの人と同じ考えを持つ人と出会い気づくことも決して無駄ではないはずだ。
扨、三つの例を出した。私が紹介した三作品だけでは、前述で述べた人ならざる者との交流はロボットしかあげられなかったかもしれない。代表的な作品が他にもあるかもしれないが、私が話したい作品の部類については概ねわかって頂けたかと思うので、他は読者に補完してもらいたい。これらの物語は素性の知らない者達との出会いによって、やがて主人公の何かが変化する過程が描かれたり、その世界の真実が解き明かされていく。それをふまえた上で、こういった物語には共通したジャンルがあるのだろうか。ただ、今更ながら断っておくと、私は別にジャンルが知りたいわけでは無い。
本題は、今私が夢中になっている『物語』は、まさにそういったジャンルに近いのではないかということを伝えたいことである。
(続く)


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