ドラフト1位で入団した74年から2年間2軍暮らしで汗を流した。「とにかく走った。団地が壁になって風が通らず、暑かった思い出しかない。夏はスラパン(スライディングパンツ)一丁でした」。39年にできた中モズでは試合はほぼなし。大阪中心部から遠かったとされ、戦前戦後の1軍本拠地時代は計33試合で他は甲子園など間借り。それは50年の大阪球場完成後、2軍本拠地になっても変わらずウエスタンは大阪、西宮などで開催され「わたしの時は1試合もなかった」。もっぱら鍛える練習場だった。
1年目は春先に右肩を痛めた。当時の1軍は前後期制。その合間に中モズに現れた野村克也兼任監督と、初めて交わした会話がこれだ。
「どうや」
「肩おかしいです」
「契約金返してもらわないかんな」
2年目は投げ続け、2軍でなんと16勝。これは今もウエスタン最多勝記録だ。「なぜ1軍から声がかからないのかと思ってましたよ」。サイン、クイック、けん制など英才教育の方針だったことは後で知った。
3年目の76年は「(阪神からトレード加入した)江夏(豊)さんが(キャンプ初日に)来て、すごいお客さんで、阪神の選手は凄いと思った」。この年、藤田さんも満を持して1軍に昇格し、11勝3敗、防御率1・98で新人王。「監督は『お前はアウトコース低めに投げとれ』だけ。そうそう、マウンドに来る時、マスクを頭の上に被ってたら続投、ミットの上においていたら交代でした。そこばかりみてましたね」とクセを思い出す。
線路沿いをさらに北西へ進むと合宿所「秀鷹(しゅうよう)寮」があった場所は、1階が美容院の3階建てマンションに。「周りは田んぼでカエルが鳴いてたなあ」。電鉄の厚生施設で研修など行われた「南海なかもずクラブ」は閉鎖されていた。そして中百舌鳥駅の手前の踏切の角には「山本商店」の看板が。巨人からロッテ監督も務めた山本功児さん(2016年没、享年64)の実家だった駄菓子屋の建物が残っており「お菓子とかパンとか買いました」と振り返る。