Conversation

「射精責任」を読んでいて知らなかった事実が沢山あることに驚いている。例えばパイプカット。卵管結紮手術がリスクも副作用も重く費用も高い手術なのに対し、パイプカットは簡単で副作用もなく楽な手術であるが「男らしさ」が害われるというイメージで忌避されがちなんだとか。まず「パイプカット」って名前がいけないんじゃ?と思う。カットって名詞がやたら痛そうだし、一回やったら二度と元に戻せなさそう(わたしは管をちょんぎるんだとばかり思っていた)。痛みもなく復元性のある手術にしては名前が重すぎる。「精子バイバイまた今度手術」とかに変えた方が良いのでは。それはさておき、まじで、女、避妊の失敗に関する責任負わされすぎじゃない?前に見たフィリピンの世界で一番忙しい産院のドキュメンタリーで、それこそ芋洗いみたいにゴロゴロゴロっと妊産婦が転がされていて(一ベッドに四人くらい)そこここで一日中子供が生まれたり死んだりしてるんだけど、お医者さんがしきりに産んだばかりの女性にIUDを薦めるんだよね。キリスト教文化圏だし、女性にも避妊の知識がないからお金もないのに7人とか8人までぽんぽん産んじゃうんだけど、彼女らの世界では男さえ避妊しなければ極貧になって生活が立ちいかなくても子供は産むものということになっていて、お金がないのもあって全然、医者の説得に首をふらないわけです。そのことがちょっと問題だみたいなフレーバーで作品内では描かれてるんだけど、いや考えてみれば絶対的に避妊しない男のせいだからね?男が避妊しないからって理由で女が避妊するしかない世界、今まで気づいてなかったけどよくよく考えるとすんごい地獄だけど、射精責任を読んで思うのは日本もどっちかっていうとアメリカよりもフィリピン側だなと思うわけです。つまり、著者のブレアさんはコンドームを一番の避妊方法として推奨してるけど、それって女性の避妊に対する主体性がある程度確立した上で一周回ってってことじゃん?日本はまだ全然そこに到達してないから。ピルはくそ高いし、もちろんIUDとかパッチは一般的じゃないし。女性が性的にイニシアチブを取るべきではなく、男の避妊方法にああだこうだ口出しするべきではないという風潮がいまだにある中で「男に依存する」避妊具であるコンドームだけに頼らざるを得ないの、アメリカには周回遅れなんだよな。セックスについて、避妊についてカップルでまじめに話し合う文化もないし、男に任せた方がよく、ごたごた言うべきではない、ということになってるからこそ女の主体的な避妊は社会に浸透せず、男任せになっている、女の性の自己決定権すらまだ当たり前のものとして社会に浸透してないのに、そっから積み上げてかないと司法的にも社会的にも女が強く男の射精責任を問える世の中にはとうてい到達しないのではと思うと暗澹たる気持ちになるが、下の世代のためにやっていかないといけないことなんだろうなぁ。たぶん。とりあえず「射精責任」と「わっしょい!妊婦」は子供の手がいつでも届く場所に置いておくことに決定した。どっちも性教育の教科書に最適だと思います。中学・高校で配って欲しい。
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