【大河べらぼう】第1回「ありがた山の寒がらす」回想 蔦重の背中を押した朝顔姐さんの死と意次の言葉 「吉原の女たちのために働く」蔦重の覚悟 女郎の教養の高さ随所に
江戸を焼け野原にした「明和の大火」
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」がいよいよスタート。VFXと実写を組み合わせた、迫力の大火災シーンから始まりました。蔦屋重三郎(横浜流星さん)が暮らす吉原も全焼した「明和の大火」です。
明和9年(1772年)2月末(現在の暦では4月初め)のことでした。春の南風にあおられ、火は3日間にわたって燃え広がり、死者は14700人、行方不明者は4000人を超えるという大惨事でした。「江戸三大大火」のひとつに数えられます。当時の模様は絵巻にもなっています。
延焼を防ごうと、火消したちが懸命の防火作業を展開。
しかし、凄い火の勢いを止めることはできません。
町人たちの家はもちろん、数多くの大名屋敷や神田明神などの寺社も燃えました。「べらぼう」のキーマンのひとり、老中・田沼意次の屋敷も焼けました。目黒の行人坂(現在の目黒区下目黒)が火元でした。
東京に土地勘のおありの方は「目黒の火事で浅草の先の吉原まで焼けちゃったの?」とびっくりされるかもしれません。現在の地名や駅などと重ね合わた地図を見れば、いかに大きな火災だったかイメージできるでしょう。「浅草」の文字の上あたりが吉原です。
火の回り具合を詳しく記した下記の地図もご覧ください。延焼の過程が想像できるでしょうか。
火事、女郎にとっては助かる側面も
ドラマでは、単なるスペクタクルとして大火災を描いたのではありません。火事は吉原にとって重い意味があったからです。そもそも日本橋近くにあった吉原が、浅草の北に移転したのは「明暦の大火」(1657年)が直接の原因でしたし、吉原で働く女性たちにとって、火事は悪いことばかり、というわけでもなかった実情があります。
幕末の偉大な浮世絵師、歌川国芳(1797~1861年)の「里すゞめねぐらの仮宿(弘化3、1846年)」が象徴的です。「どこかで見たことがある」という方も多いでしょう。現在、大阪中之島美術館で開催中の「歌川国芳展」(会期は2月24日まで、この作品の展示は1月19日まで)でも展示されています。
“臨時営業”の方が儲かる 吉原の不人気を象徴
『里すゞめねぐらの仮宿』は国芳の代表作のひとつ。当時、天保の改革で花魁を描くことを禁じられたため、国芳は遊郭の賑わいを擬人化したすずめたちの姿で描きました。タイトルの「仮宿」に注目です。この作品が描かれた前年の弘化2年(1845年)の暮れ、吉原が火災に遭ったため、「仮宅」と呼ばれる別の場所で臨時営業が行われました。国芳はその模様を描きました。臨時営業の方が客の入りが良かった、ということがこの作品の背景にあります。
吉原独特の格式ばったルールが緩み、料金も安くなるため、「仮宅」は多くの江戸の男たちから歓迎されました。ということは普段は何かと敷居が高く、遊ぶのにも値が張る吉原は、一部の男性を除いて足が遠のきがちだった、という事の裏返しでもあります。
ドラマでも、ひもじさのあまり、火つけで捕まった女郎のシーンが吉原の苦境を表わして痛切でした。女郎は「火事の時は仮宅で安いから客が押し寄せた。もういっぺん、ああなれば腹一杯食えると思った」と火をつけた動機を語っていたといいます。実際、厳しい生活から逃れようと、女郎が火をつけるのは吉原ではよくある出来事でもありました。雇い主の横暴を告発するために火を付けたケースさえありました。
朝顔の無惨な死、蔦重の生き方を変える
貴重な食べ物を同僚の女郎たちに分け与え、病気と栄養失調で亡くなった元花魁の朝顔(愛希れいかさん)。着ていた着物を売り物にする輩に身ぐるみ剥がされ、素っ裸で吉原近くの浄閑寺に埋められようとしていました。まともに葬式すら出してもらえない、悲惨な女郎たちの生涯が象徴的に描かれました。
親に捨てられた幼少期の蔦重と花の井(小芝風花さん)に、本を読むことの喜びを教えてくれた朝顔。子どもたちへの柔らかな語り口、同僚や蔦重への心配り。天使のような女性だったのでしょう。「ほんとうに優しい人だった」という蔦重の言葉どおり、さすが名優の愛希さんという心打つ演技でした。恩人の無惨な死にざまに、蔦重の嘆きと怒りは募ります。「吉原に好き好んで来る女なんていない。きついけど白い飯だけは食える、が吉原だったんだ。それがロクに食えもしねえって。そんなひでえ話があるのか。」
何かを変えなければいけない。蔦重が覚悟を決めた重要なシーンになりました。
ライバルとの戦いに苦戦の吉原
「岡場所と宿場には勝てない」。蔦重とお向かいの蕎麦屋の主人の半次郎(六平直政さん)の会話の中でも、吉原不振の原因として手軽な遊興の場に客足を取られている現状が語られていました。
「岡場所」とは無許可の風俗街で、深川や本所など各地にありました。また東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、日光街道の千住など、江戸の中心から近い宿場には「飯盛女」という女性たちがたくさんおり、やはり男たちの遊び場になっていたのです。堅苦しい決まりがなく、安い値段で遊べたことから人気を集めていました。こうした“ライバル”たちのやりたい放題に手をこまぬいていたのが、当時の吉原の現状でした。
「都心から小1時間」の吉原への道は3ルート
綾瀬はるかさん演じる「語り/九郎助稲荷」がスマホも使って吉原の案内をしてくれました。
ここではまず、大まかな吉原の全体像とアクセスをご案内をしておきましょう。江戸唯一の公認遊郭である吉原。場所は浅草の浅草寺の裏手です。江戸の中心部からは北の方角にあります。千束村という地区の、日本堤という堤防の南側を整地して作った街です。横が約330㍍、奥行きが約250㍍という長方形の敷地でした。東京ドーム2個ほどの敷地に約1万人が暮らしていました。うち遊女が2000~3000人程度だったといいます。
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1286208
上の古地図にあるとおり、もともと湿地帯を開発した吉原の周辺は田んぼに囲まれており、女郎が逃げないよう「お歯黒溝(おはぐろどぶ)」と高い塀に囲まれていた人工都市です。忽然と現れた別世界、という佇まいでした。
「大吉原展」(2024年、東京藝術大学大学美術館で開催)の図録から許可を得て転載
日本橋あたりから吉原へ向かうルートは3つ。①船を使って隅田川を北上。山谷堀の船宿で降り、あとは徒歩 ②隅田川沿いの「馬道」と呼ばれる道を陸路で。最初の頃は武士は馬で、その後は駕籠、または徒歩で ③下谷コース。上野方面から正燈寺を抜けて内陸側から。ざっと1時間程度という行程でした。
吉原の出入り口は北東側の大門(おおもん)一か所だけなので、どういうルートを取っても必ず吉原の北東側に出ます。大門の手前のアプローチが「五十間道」という通り(長さ約90㍍)で、蔦重が勤めていた茶屋「つたや」もこの通りにありました。吉原内の様々なルールや年中行事などは、追ってご紹介していきます。
意次が指摘した商売の本質 「お前は人を呼ぶ工夫をしたか?」
早々に田沼意次(渡辺謙さん)と主役・蔦重の対面という重要なシーンがやってきました。第1回最大の見せ場になりました。
幕府公認の遊郭であり、税金に当たる運上・冥加も納めている吉原が、岡場所や宿場に押されて低調になっているのは道理に合わない、と訴えた蔦重。女たちが飯も満足に食べられないほど苦しんでおり、非公認施設を取り締まる「警動」を行ってほしい、と求めました。それは一面、正しい主張ではありましたが、意次の指摘はさらに本質を突いたものでした。宿場の発展は幕府にとって重要な政策テーマであることに加え、吉原の女郎屋や茶屋の経営者の儲け過ぎにも言及。さらに決定的なひと言が蔦重に突き付けられました。
「人を呼ぶ工夫が足りないのではないか」。
権力にすがる前に、自分たちの手で成すべきことがあるのではないか?という問題提起。蔦重は天地がひっくり返るような驚きと興奮を隠せませんでした。
朝顔の死によって「情」を燃やした蔦重。さらに意次の言葉で「理」のビジネス感覚が必要であることを学びました。起業家としての心構えを時の権力者から教えられた蔦重。第1回から、今後のストーリーの方向性を決める重要な場面が明快に、巧みに描かれました。森下さんの脚本の冴えを十分に感じさせました。
読書は女郎の娯楽かつ仕事 歴史ものにも興味
「文芸ドラマ」の場面も次々に登場しました。茶屋の仕事と並行して、貸本業を営んでいた蔦重。女郎たちに売れ筋の本を貸して小遣い稼ぎをしていました。ドラマでは「さるかに合戦」「したきれ雀」などのおとぎ話を中心とする「赤本」や、遊郭の人間模様を描いた「洒落本」などを扱っていました。吉原の外に出ることが許されない女郎たちにとって、読書は欠かすことのできない大切な娯楽でした。さらに、客との交流で和歌や俳諧、漢詩、書、文章、茶の湯、生け花など幅広い教養が求められる女郎にとって、知識を身に付ける読書は必要不可欠な営みでもあったのです。
蔦重が扱っていた書籍をご紹介しましょう。女郎たちの素養の高さが伺われます。
こちらは洒落本の「辰巳之園」。初版は明和7年(1770年)の発刊ですから新しい作品です。深川の遊びを面白おかしく描いたもので、のちに知識人らを対象とした読み物「黄表紙」にも大きな影響を与えたとされる重要作です。
「知的空間」としての吉原を象徴
平賀源内のベストセラーも読む遊女
病床の朝顔に、せめてもの恩返しと蔦重が読み聞かせをするシーンは泣かせました。蔦重が手に取っていたのは、ドラマでも重要な登場人物となる平賀源内のベストセラー「根南志具佐(ねなしぐさ)」です。こちらも歴史的に重要な書籍です。
宝暦13年(1763年)の発刊。この年、実際にあった歌舞伎役者の溺死事件を材料にして、面白おかしく小説化しました。「談義本」と呼ばれるタイプの読み物です。
滑稽な表現をまといつつ、同時代の風俗を描いて世相を風刺する内容です。今作では地獄の閻魔王や竜王が住む竜宮城が登場し、竜王の手下のシジミやサザエ、エビなどが人間世界を偵察してくるなど、荒唐無稽もいいところですが、そうした馬鹿馬鹿しさの中に同時代の世相を巧みに織り込みます。源内独特の文章が冴えわたっています。
内容的にも李白や杜甫、孔子、論語などの漢籍や仏典、枕草子や方丈記など古今東西の古典の引用が華麗に散りばめられていて、源内の博覧強記ぶりと、それを楽しんでいた江戸の人たちの知的レベルの高さが伺われます。そうした読者層の中には吉原の女性たちも含まれていたのです。
「忘八」でも狂歌のひとつやふたつ
お上に直訴した蔦重の無鉄砲に激怒した大手の女郎屋や引手茶屋の主たち。女を売り物に金儲けに明け暮れ、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の徳を忘れた外道として「忘八」と揶揄される存在でもありました。この顔役たちの寄合で、大見世の主で、教養人としても知られた扇屋宇右衛門(山路和弘さん)が自らを揶揄する狂歌をひとつ捻っていました。
吉原、そして出入口の大門とも、江戸の中心部から見て鬼門とされる「丑寅」の方向にあります。というわけでオレたちは「人でなし」。一方、「午(ウマ)」=南の方角=に出入り口はなく、そこは葦の原(吉原)ですよ、ぐらいの意味でしょうか。読み解きにちょっと自信はありませんが、このぐらいの即興のクリエイションが当たり前にあったのが吉原。「光る君へ」に続き、「文芸ドラマ」としての薫りも漂ってくる「べらぼう」です。
(美術展ナビ編集班 岡部匡志)
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本記事で使用した一部の地図は、鈴木理生・鈴木浩三『ビジュアルでわかる 江戸・東京の地理と歴史』(日本実業出版社刊)と鈴木浩三「地形で見る江戸・東京発展史」(ちくま新書)から、著者の許可を得て掲載しました。
両書はアマゾン(https://www.amazon.co.jp/gp/product/4534059612/)(https://www.amazon.co.jp/dp/4480075178)などで購入できます。「大河べらぼう」を見て東京の街を歩くのにピッタリの本です。
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