プロ野球・西鉄ライオンズ(現西武)の伝説の名投手、池永正明(いけなが・まさあき)さんが、がんのため死去したことが26日、分かった。76歳だった。高卒新人でいきなり20勝を挙げ新人王を獲得。入団5年で99勝を挙げる天才投手だったが、球界を揺るがせた「黒い霧事件」で1970年に永久失格処分(永久追放)を受け、2005年に復権するなど波乱万丈の人生だった。通夜、葬儀・告別式は家族葬で行われる。
野球界のレジェンドが、亡くなった。オールドファンならば、一度は必ず耳にしたことがある「池永投手」が、がんのため帰らぬ人となった。
山口・下関商でエースとして3季連続で甲子園に出場。2年生だった1963年春には優勝、夏は準優勝という実績をひっさげ、巨人、南海、西鉄の争奪戦の末、西鉄入り。ルーキーイヤーの65年に20勝、防御率2・27で新人王に輝いた。3年目には23勝で最多勝を獲得。翌年にも23勝と、入団5年間であっという間に99勝を積み重ねた。
西鉄に同期入団した尾崎正司(のちに将司)が「同期にあんなにすごいやつがいたんじゃ、この世界で成功するのは無理」とプロゴルファー転向のきっかけとして語ったというのは、有名な話だ。
そんな天才エースを「黒い霧」が襲ったのは69年のシーズンオフだった。「八百長をした疑いのある選手」の中に池永さんの名前もあった。池永さんは先輩選手から100万円を預かったことは認めたが、八百長行為は一貫して否定し続けた。刑事事件としては不起訴になったが、70年5月に日本野球機構(NPB)は永久失格処分を下した。
野球界を去った後は、福岡・中洲でバー「ドーベル」を経営。訪れたファンが、トイレの壁に励ましのメッセージを書き連ねた。処分取り消しを求める署名運動がたびたび起こり、国会でも取り上げられた。当時の巨人・渡辺恒雄オーナーからも問題提起があるなど、復権の機運が徐々に高まった。2001年に発足したマスターズリーグでは、福岡ドンタクズの監督を務めた西鉄の先輩・稲尾和久が「池永をもう一度マウンドに立たせたい」と尽力。31年ぶりに公の場に復帰した池永さんは「もう許していただきたい」と口にした。
05年3月のオーナー会議で野球協約の改正が承認され、同4月にはNPBが処分解除を発表。35年ぶりの復権となった。その後、09年にマスターズリーグが活動停止するまでドンタクズの監督を務め、社会人クラブチームの指揮も経験。18年7月には全国高校野球選手権山口大会の開幕戦の始球式に、元気な姿で登場。球界以外の交友関係も広く、いつまでも西鉄の、福岡のスターだった。
◆池永 正明(いけなが・まさあき)1946年8月18日、山口県生まれ。下関商の2年生エースとして63年春のセンバツで優勝し、同年夏の甲子園も準優勝。65年西鉄に入団し、1年目に20勝を挙げ新人王。67年には23勝で最多勝のタイトルを獲得したが「黒い霧事件」で70年5月に永久失格処分を受けた。05年4月に処分解除。プロ実質5年で通算103勝65敗、防御率2・36。右投右打。