自分の人生を肯定しよう。
風邪で身動きが取れないと、何かをしたいのに、何もできない。何もできない自分が情けなく、不甲斐なくて、叫び出したり、当たり散らしたくなる。曲を作ったり、詩を書いたりしたくても、体が言うことを聞かず、布団の中であえいでいる。痛みや、苦しみや、無力感にあえぐ自分を見て、痛みが、苦しみが、無力感が、私を奏でていると思った。私が歌えない時も、体は、歌い続けていた。いかなる時も、私の体は、奏でられていた。
何かが違う、何かが違う、ダメだ、ダメだ、ダメだと感じている時は、自分の人生を否定している時のように思う。他にも生き方があったのではないかと、いま以外に視点が移り、ここではない、いまではない何かと比較をして、自分や、自分の人生を責め続けている。あるのかないのかわからない「普通」と自分を比較して、普通ではない自分を責める。普通になれなかった自分を責める。平和な場面が、日常的な光景が、お前は出来損ないなのだと突きつける。普通の刃が突き刺さる。
京都在住の男性H様が、見舞いに来てくれた。人といる時は元気なのに、一人になった途端にガクッと落ちる。その落差に自分でも戸惑っている。いいことをやろうとすると、また次のいいことを探してしまって、いい人になる時間がない。言っちゃいけないとされていることを、思ってしまう自分がいる。思うことさえ禁じてしまうと、元気がなくなる。誰かを悪く言うことと、誰かの嘘を暴くことは、同じことなのだろうか。優しくされるよりも、嘘を暴かれたほうが、その人は元気になるように思う。自分から見ると弱っているように見える人も、本当は、それほど弱くはないのかもしれない。H様は、そのようなことを言った。
いまの私は、新年の抱負から遠いところにいる。生産性や、合理性、計画性と呼ばれるものから、距離が離れた日々を過ごしている。どう生きるべきかと言う問いに、答える資格も、能力もない。それでも、H様は、しばらく話したあとに「ありがとうございました」と言って、京都に帰った。いろいろな気持ちになりながら、私は、一つの決意をした。何週間でも、何ヶ月でも、何年でも、好きなだけ、倒れていればいい。食べるものがなければ、水を飲めばいい。水を飲むことさえできなくなったら、死ねばいい。この苦しみの意味を理解して、より深い境地に至るのか。それとも、この苦しみに押し潰されて、終焉を迎えるのか。
自分の道を否定する時に、悩みや、苦しみや、迷いが生まれるのだと思う。こんなはずではないと抵抗をするのではなく、これが私の道だと、自分の人生を肯定する。終わるなら、終わるがいい。情けないなら、情けないまま、これが私の道だ。無様なら、無様なまま、これが私の道だ。自分の道を否定するのではなく「これが私の道だ」と思う時、体が、時のエネルギーが、逆流する。肯定しなさい。受け入れなさい。抵抗をやめなさい。自分の道を否定するのではなく、これが私の道だと思う時、体が、時のエネルギーが、逆流する。肯定しなさい。受け入れなさい。抵抗をやめなさい。心の奥に、詩がある。歌うのは私ではなかった。いかなる時も、私の体は、奏でられていた。
おおまかな予定
1月4日(土)静岡県熱海市界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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