「失敗した!」と思っても引き返せない…「元NPBの名審判」が語る“古田・岡田元監督退場劇”の裏側

プロ野球の元審判が「退場処分」にした時の心情について解説した最新書籍が好評発売中

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メモリアル試合が「2000試合の中でワーストの試合」に!

中心打者に2者連続死球。グラウンドには両軍選手が飛び出し、騒然となりました。アグリーメント(同意事項)において、「スッポ抜けは頭に当たっても退場にはしない」という取り決めがありました。

思えば’94年5月、西村龍次投手(ヤクルト)が村田真一選手(巨人)の頭部に当てたことに端を発して死球合戦が勃発したことから、「頭部死球は一発退場」となりました。しかし’94年6月、佐々岡真司投手(広島)のスッポ抜けたカーブがヘンリー・コトー選手(巨人)の頭部に当たって退場。さすがにそれはないだろうということになったのです。

しかし、その状況判断は審判員にあります。スッポ抜けではありましたが、騒動の原因となったのは2者連続の与死球であり、球審は遠藤投手を「危険球」の理由で退場させました。今度は、この措置に古田捕手兼任監督(ヤクルト)が説明を求めてきたのです。

「なんで退場やねん。スッポ抜けやないけ。スピードガンを見てみい!」

「それは審判員の判断です。遠藤は退場です。もう少し冷静になって話しましょうよ」

「××××」

関西弁は時に厳しい印象も受けますが、古田プレーイングマネージャーに限らず、抗議がエキサイトして、思わず言葉が厳しくなるのは誰にでもあることです。その試合、三塁塁審であり、審判員クルーの「責任審判」であった私は、「審判員への暴言」を理由として、退場処分としました。

試合が成立した5回裏終了時、古田プレーイングマネージャーは花束を贈呈されていました。「大卒→社会人」経由の選手では史上初の通算2000試合出場という偉業達成の試合。

4月の屋外球場、まだ寒い中で一方的な内容。なんともあと味のよくない試合となってしまいました。あとで思えば、1度目の死球後、「次の死球で退場となる警告」を出しておけばよかったかもしれません。

当時、古田プレーイングマネージャーの出場試合は激減していました(’06年36試合、’07年10試合)。記念すべき試合だけに、実績ある石井一久投手の先発の日に合わせて捕手として出場したのだと思います。しかし、その日の石井投手はこともあろうに大乱調で、初回満塁本塁打を含む1回6安打4四死球8失点で降板。

石川選手にしても高卒プロ3年目で、1軍定着のアピールに必死だったのでしょう。代走に出て、この盗塁がプロ初盗塁でした。しかも翌日の練習中に打球を顔面に当て、唇を20針縫う大ケガを負い長期離脱。この年は1盗塁に終わっていたのです。

ちなみに翌’08年、「大差の試合での盗塁は記録として認めない」という旨のルール改正が行われました(公認野球規則9・07g【走者が盗塁を企てた場合、これに対して守備側チームがなんらの守備行為を示さず、無関心であるときは、その走者には盗塁を記録しないで、野手選択による進塁と記録する】)。

その後、古田プレーイングマネージャーに会ったときに伝えました。

「古田監督、通算2000試合出場だったのに、悪かったね」

「いいっすよ」

まだ少し怒っていました(苦笑)。

「2000試合も出ていますが、その中でワーストの試合になってしまいました」

古田プレーイングマネージャーは、苦笑しながらどこかのメディアにそんなコメントを出していました。