志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』を「学び、語り合う大運動」を共産党が「絶賛展開中!」なので、ぼくも参加させてもらおうと思って書いている。5回シリーズの、今日はその3回目。
今回の記事の要旨
今回も要旨を先に書いておく。
- 志位は原始共同体の時代が長かったことが、生産手段の共有が人類にとって当たり前の社会の証明だとしているが、志位が消化したイロクォイ族(アメリカ先住民)の社会や三内丸山遺跡の例を見たところで、原始共同体の時代に「自由」があったとは言えないのではないか。
- 本書は「Q&A」って書いてあるけど、実際にQ&Aをしているのって、ほとんどなくない?
- 本書が「たちまち7刷決定」とかうたってるけど、かなり強引に買わせてない?
- 『資本論草稿集』を読んで初めて豊かな全体が語れるというなら、『資本論草稿集』をちゃんと普及する形で発行すべきじゃないのか?
今回もまず要約を載せる。その上で、体力や時間がない人はそこまで。詳しく知りたい人はそのあとの本文を読んでほしい。
今回はちょっと箸休め的な内容だが。
1. 原始共同体(原始共産制)の期間が長かったことが「自由」の証明?
「生産手段の社会化」と「自由」は深く結びついているということですね?
との問いに答えるために、「いろいろと考えてみた」(p.67)あげく、人類史のあけぼのである原始共同体(原始共産制)の時代が長く続き、人類の歴史の圧倒的期間を占めることをもって
生産力が低い水準ながらも、自由で平等な人間関係の社会(p.70)
が長く続いたという例証とし、
人類の長い歴史でみたら、生産手段を共有する自由な社会こそが、当たり前の社会だ(p.71)
と述べている。
いやあ、この論建てはかなり無理がある。
まず、原始共産制の時代は志位自身が
この社会では、個人は共同体と“へその緒”でつながっており、共同体の一部であり、共同体の規則に無条件で従わねばならず、本当の意味で独立した個性とはなりえなかった(p.70)
と述べているように、きわめて制約の大きい社会であり、それが長い期間続いたからと言って、「自由で平等な人間関係の社会」が「当たり前の社会」だなどと結論づけることは到底できないことである。
別の言い方をすれば、「生産手段を私有ではなく社会全体がもつような社会が自由で平等で当たり前だということは、縄文時代をみてください、旧石器時代をみてください」と主張しているわけで、これで「はあそうですか」と言う人はなかなかいないのではなかろうか。
志位が原始共同体の社会が「自由で平等」であったという例示として、アメリカの先住民であるイロクォイ族をみよ、そして日本の縄文時代の三内丸山遺跡をみよ、と述べている。
19世紀のイロクォイ族は原始共産制の段階にあり、自由で平等な社会である、という志位和夫の観察は、何を根拠にしているかといえば、モーガン『古代社会』をマルクスがノートに取ったもの(マルクス「モーガン『古代社会』摘要」)からである。
モーガン=マルクスによれば、そこには「人格的に自由」「相互に自由を守りあう義務」「自由、平等、友愛」「独立精神と個人的威厳」などが観察できるのだという。
うん。
だけど、19世紀に現存する部族は原始共産制の段階にあるとみなしてそこから古代社会を類推するというやり方は、19世紀には一定の意義があったが、21世紀の今日、そのまま無批判に採用するわけにはいかない。
実際、北米東部の「インディアン」はモーガンが観察していた19世紀の時点で、すでに原始共産制段階を過ぎて、国家を持つ階級社会に到達していたとする研究*1が出されている。
モーガンの観察したイロクォイ族社会にたとえ「自由」の気風があっても、それはもはや原始共同体が示す自由とは言えない、ということとなる。
要するに、19世紀のイロクォイ族の観察を根拠に、原始共同体は自由で平等だったと結論づけることはできないのだ。
志位の記述は、不破哲三『講座『家族、私有財産および国家の起源』入門』(新日本出版社、1983年)によるところが大きいのだが、不破はあくまでモーガンやマルクスがどのようにイロクォイ族の社会をとらえていたかを文献的に明らかにすることに重点があり、歴史事実としてイロクォイ族がどういう社会だったのかに踏み込むことには相当に慎重である。それは今日までの研究をきちんと追わなければ到底言及できないもので、“マルクスのノートに書いてあるから正しい”というわけにはいかない、ということをよくわきまえていたのであろう。(実際、『入門』ではモーガンが「歴史的事実」としてとらえていた「プナルア婚」=兄弟姉妹同世代婚を不破は明確に否定しているし、不破は、不破の時代の研究の最新到達点としてセミョーノフ『人類社会の形成』を紹介する努力をちゃんとやっている。)
また、志位は三内丸山遺跡で共同生活が営まれ、そこでは老人・子ども・障害者に食料が平等に分けられていた、経済は民主的に管理されていた、という話を書いている。これは残っていた骨などからの類推ではあるのだが、仮にそれが正しいとしても、その話はあくまで「平等」の話であって、「自由」の話ではないはずである。
三内丸山遺跡の例についていえば、少なくとも志位が書いていることは、「生産手段の社会化と自由が深く結びついているのか」というQ16の問いの答えにはなっていない。
このQ16は個々の知識はともかく、全体として問いに答える企ては失敗している。
2. 「Q&A」形式になってなくない?
そして、これはまあ趣味の問題なのかもしれないが、本書は率直に言って「Q&A」形式になっていない。少なくともその形式を採用した良さが何も生きていない。
「Q&A」形式に対比されるのは、叙述風、もしくは教科書風であろう。自分が述べたいことを誰かにジャマされずに整然と体系的に述べたい場合はこちらの方が向いている。
叙述風形式がふさわしいのは、例えばもともと聞き手(読み手)の側にほとんど知識がないような場合である。「高校で学ぶ物理学についてあなたの疑問に答えます!」と打ち出して「Q&A」形式をやろうとしても、そもそも多くの人は高校で学ぶ物理学のイメージすらあるまい。質問や疑問など出て来ようがない。
これに対して、「Q&A」形式は、すでに相手(聞き手・読み手)の側に一定の知識はあるけども、実はよくわからないとか、ホンネのところを聞きたいとか、細かいところを聞く機会がないとか、そういう場合にうってつけなのである。
「共産主義と自由」の場合はどうだろうか。
実はちょっと判断に迷う。
多くの人、少なくとも本を買って読もうかという程度の人にとっては、「共産主義と自由」についてはすでにイメージがある。ソ連や中国などだろう。ひょっとしたら日本共産党についてかもしれない。もともと本書の意図は、国民の中に沈殿している共産主義と自由についてのイメージの払拭を戦略的に担おうとするものなので、ある程度のイメージが相手(聞き手・読み手)の側にあることを想定していると言える。
ただ……。
他方で、その払拭したい共産主義のイメージが、日本共産党が伝えたい共産主義像と乖離しすぎているので、「Q&A」で誤解を解くやり方だと、部分的な像しか相手に伝わらないといううらみがある。全体像を伝えるために、イチから体系的に話したくなってしまうのである。
「共産主義と自由」というテーマは、このジレンマに晒されている。
そして、志位和夫は、まさに一番良くない形でこのジレンマに引き裂かれてしまっているのだ。
まあ、本書のQ&Aの構成を見てくれたまえ、諸君。
Q1「社会主義・共産主義」のイメージが変わるお話になるということですが?
Q2「資本主義」や「社会主義・共産主義」とは経済の話なのですか?
Q3そもそも資本主義はほんとうに自由が保障された社会なのでしょうか?
Q4貧富の格差の拡大はどこまできているのでしょうか?
Q5気候危機がとても不安です。危機はどこまできているのでしょうか?
Q6社会主義への新しい注目と期待を感じます。世界ではどうでしょうか?
Q7「『資本論』を導きに」が副題ですが、どういうことでしょうか?
Q8「人間の自由」と未来社会について、日本共産党大会で解明がされました
Q9そもそも「利潤第一主義」とはどういうことでしょうか?
Q10「利潤第一主義」は資本主義だけの現象なのですか?
Q11「利潤第一主義」はどんな害悪をもたらすのですか?
Q12資本主義のもとでなぜ貧困と格差が拡大していくのでしょうか?
Q13「あとの祭り」の経済とはどういうことですか?
Q14どうすれば「利潤第一主義」をとりのぞくことができるのですか?
Q15「利潤第一主義」から自由になると、人間と社会はどう変わるのですか?
Q16「生産手段の社会化」と「自由」は深く結びついているということですね?
Q17「生産手段の社会化」と「自由」を論じたマルクスの文献を紹介してください。
Q18ここでの「自由」の意味は、第一の角度の「自由」とは違った意味ですね?
Q19「人間の自由で全面的な発展」とはどういう意味かについて、お話しください。
Q20「人間の自由」についてのマルクスの探求の過程をお話しください。
Q21搾取によって奪われているのは「カネ」だけでなく「自由な時間」ということですね?
Q22今の日本で、働く人は「自由に処分できる時間」をどのくらい奪われているのですか?
Q23『資本論』では、「人間の自由」と未来社会について、どういうまとめ方をしているのですか?
Q24第一の角度の自由と、第二の角度の自由の関係について、踏み込んでお話しください。
Q25「自由に処分できる時間」を広げることは、今の運動の力にもなるのではないですか?
Q26「利潤第一主義」がもたらすのは害悪だけなのでしょうか?
Q27資本主義の発展のもとでつくられ、未来社会に引き継がれるものをお話しください。
Q28「高度な生産力」の大切さはわかりますが、生産力って害悪をもたらす面もあるのでは?
Q29「経済を社会的に規制・管理する仕組み」とはどういうことですか?
Q30「国民の生活と権利を守るルール」も未来社会に引き継がれていくのですか?
Q31「自由と民主主義」についてのマルクスの立場、未来社会になったらどうなるのかについてお話しください。
Q32人間の豊かな個性と資本主義、社会主義の関係についてお話しください。
Q33今のたたかいが未来社会につながっていると言えますね?
Q34旧ソ連、中国のような社会にならない保障はどこにあるのでしょうか?
Q35発達した資本主義国から社会主義に進んだ例はあるのですか?
まず目につくのは、「〜についてお話しください」「〜を紹介してください」という「ください」形式。7つもある。
そもそもこれ質問じゃねーだろ。
指示もしくは命令である。テストの出題っぽくさえある。
「Q8『人間の自由』と未来社会について、日本共産党大会で解明がされました」に至っては、何かを求めてすらいない。司会者のつぶやきだ。「え? だからどうしたの?」と言いたくなる。
そして「Q16『生産手段の社会化』と『自由』は深く結びついているということですね?」や「Q18ここでの『自由』の意味は、第一の角度の『自由』とは違った意味ですね?」「Q21搾取によって奪われているのは「カネ」だけでなく『自由な時間』ということですね?」「Q33今のたたかいが未来社会につながっていると言えますね?」あたりになると、もう質問者が質問で答えを言っちゃってる。
「徹子の部屋」の徹子かよ。
「なんでもあなたは小学生のころ八百屋さんにお買い物に行くにもスーツとネクタイをしていたんですって?」「はい」「それでお店の人がいつも笑って10円おまけしてくれたっていうんですってね」「はい」。
質問形式になっているものも、若い人の素朴な疑問に答えるというより、「Q23『資本論』では、『人間の自由』と未来社会について、どういうまとめ方をしているのですか?」とか志位和夫が今から自分の体系的な議論を導き出すための単なる呼び水であったり、「Q6社会主義への新しい注目と期待を感じます。世界ではどうでしょうか?」など共産主義に疑問を抱いている人の質問ではなくむしろバリバリに反資本主義の人の気持ちを代弁しているような質問が目立つ。
本書の「はじめに」によれば
「学生オンラインゼミ」は、民青同盟のみなさんが、社会主義・共産主義についての学生からの疑問や、同盟内での学びのなかで出された疑問を35の質問にまとめ(p.5)
たものだという。
しかし、その中には「共産主義では給料はみんな同じなんですか?」とか「共産主義では起業して大もうけすることはイケないことになるんですか?」とか「共産主義では競争はなくなるんですか?」「共産党政権ではポルノや差別的な表現は禁止されるんですか?」「松竹伸幸さんの除名とキャンペーンを見ると日本共産党もやっぱり自由を抑圧するんじゃないですか?」をみたいな質問は一つもない。
まあ、こうやって学生や民青内部から出てくる疑問をまとめたというのは本当なのかもしれないけど、どうしてそれとは別に「素朴な質問」を入れないのだろうか。自分と立場が全く異なる相手からのアプローチには臨機応変に答えることができず、答えやすいものや自分の話の流れに合うだけをあらかじめ厳格にセレクトしてもらい、それに答えることしかできない——そういう体質を嗅ぎ取ってしまうのは、ぼくの考えすぎというものなのだろうか。
本来「Q&A」、とりわけ、今回のように若い人向けに、若い人の素朴な疑問に答えるというところに「Q&A」形式の醍醐味というのはあるのではなかろうか。その当意即妙のうちに、生き生きとした思想の真髄が現れる——バフチン的なダイアローグの発想がここにはないように思われる。
もちろん、それはあくまで「趣味」の問題なのかもしれない。
こんなふうにQ&Aで本を組み立ててもそれ自体は「間違い」なわけではない。本人(著者)の好みでやればいいことだ。でも、だったら、教科書風・叙述風にしても全然問題はないんじゃないかなと思うんだけど。
3.「たちまち7刷決定」というけど…
新日本出版社からはぼくのタイムラインに本書の増刷を告げる投稿が流れてくる。「たちまち7刷決定」。
しかし、共産党の都道府県委員長会議で、小池晃書記局長は、本書の普及に消極的な地区委員会に対して次のような厳しい批判をしている。
第五に、「『共産主義と自由』を学び、語りあう大運動」をどうすすめるか。県委員長のアンケートでは、「ここから突破していける希望が見えた」との報告も寄せられている一方で、ほとんどこの問題に触れていない県もありました。
まず党機関が、この「大運動」の「戦略的課題」の位置づけを深くつかむことが必要ではないでしょうか。
『Q&A』の注文は、地区で300部、500部というところもあれば、10部、20部のところもあります。率直に言って10部、20部では「大運動」になりません。書籍の抜本的な普及をよびかけます。
全国にある300の地区委員会が500部購入したら15万部。そりゃ「たちまち7刷」も行きますわ…。(ぼくの書いた新書なんか10年経ってようやく8刷だもんね。)
本書は党の決定ではない。
党の代表者の一人が書いた著作、「研究書」である。
普及を都道府県委員長会議では決定したが、大会や中央委員会では決定していない。
決定ではないから著作そのものに「集団的な英知」が反映されているのかどうか、反映されていたとしてもどのように反映されているのか、ぼくにはよくわからない。*2むしろこれまで見てきたように、いろんな批判点がぼくには目についてしまう。しかもかなり根本的な。このような個人のマルクス研究について、党員が外で批判を述べることは「党の見解と異なる意見を勝手に発表すること」や「内部問題を外部に持ち出すこと」になるのだろうか?
不破哲三は、委員長をおりてから、さまざまな研究を発表した。講演の形をとったこともある。だが、彼は自著を300部、500部買えと地区に“圧”をかけたであろうか?*3
ぼくはどうも違和感を覚えてしまうのだ。
共産党として、志位和夫個人の研究(著作)の扱いが、不釣り合いなほどに大きくなっているのではないか、ということに。
4. 『資本論草稿集』を普及しないの?
さらに、本書の「理論的な背景」を話したとされる、志位和夫「『自由な時間』と未来社会論」という講演は、全国都道府県学習・教育部長会議の「第1部」として、つまり党において指導部が身につけ、徹底すべき中身として扱われた。*4
志位によればこの講演は、『資本論』だけでなく、『資本論』を書く上でマルクスが長年書いてきた草稿を集めた『資本論草稿集』を研究したものなのだという。『資本論草稿集』は本に生かされた部分だけでなく、マルクスのたくさんの没稿などが含まれていて、全集版と同じ分厚い本にして9冊にもなるという膨大な量になる。
ところが志位は、この講演で、
『資本論』と『草稿集』をセットでつかむということが必要になるだろうと思います。(志位「『自由な時間』と未来社会論」/「前衛」2024年9月号p.50-51)
未来社会論については、『草稿集』の解明と『資本論』での解明をセットでつかんでこそ、はじめてその豊かな全体像をつかめるのではないかというのが、マルクスの足跡を探求してみての私の結論であり、今日、分量をいとわず、『資本論草稿集』の該当箇所を紹介したのも、そのためです。(同前p.51)
として「セットで理解する重要性」を強調した。
「セットでつかんでこそ、はじめてその豊かな全体像をつかめる」ということは、セットでつかまないと豊かな全体像はつかめない、ということだ。『資本論』だけ読んでいてもダメだというわけである。
ぼくは志位の「『自由な時間』と未来社会論」を聞いても、そういう気持ちはあまり起きなかったが、それでも党首である志位が党の全国的な正規の会議=全国都道府県学習・教育部長会議でわざわざそんな強調をするのであれば、党として、『草稿集』全体を手に入れられるように普及版を用意すべきではないのか?
志位はさすがに党の正規の会議で『草稿集』を読まないとダメだという結論になってはマズイと思ったのかもしれないが、
もちろん、一般的に言って、『資本論草稿集』の勉強をするということは、なかなか難しいと思います。だいたい『草稿集』は手に入れること自体が困難でしょう。(p.51)
という言い訳はしている。しかし、「難しい」「困難」だと言ってもそれを読まないと「豊かな全体像」はわからないというのが、党としての正式な結論なんじゃないんですか?
そうである場合に、志位が今回抜粋したところだけ読めば未来社会論の「豊かな全体像」はわかるというのだろうか? そんなことは、実際に草稿の全体にあたってみなければわからないではないか。そうしたら、思わぬ発見や気づきがあるかもしれないではないか。
普及版を用意できないのであれば、「セットでつかんでこそ、はじめてその豊かな全体像をつかめる」というのは余計な判断だ。志位が紹介した草稿の部分だけを読者が読んで、「『資本論』ではわからなかったほど豊かだなあ」と実感してもらえればそれでいいではないか。実感してもらえないのだとすれば、志位の紹介が悪いか、実際にはセットでつかまないとわからないなどということはないか、どちらかなのだ。
個人の研究としてそういう感慨を述べるのは全く自由だが、党の正式の会議でこういう位置付けを迂闊に与えることに、志位はもっと慎重になるべきだろう。