志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』を「学び、語り合う大運動」を共産党が「絶賛展開中!」なので、ぼくも参加させてもらおうと思って書いている。5回シリーズの、今日はその2回目。
今回の記事の要旨
今回も要旨を先に書いておく。
- 国有化や協同組合など「生産手段の社会化」のイメージが非常に狭い(本書Q24など)。資本主義の下で資本家の所有に干渉し、社会が剰余労働の処分決定にかかわることの一つひとつが、生産手段の社会化のパーツを今ここで構成していると見るべきだ。
- 本書の「『利潤第一主義』からの自由」(「〜からの自由」)という表現は消極的自由を意味してしまう。しかし、剰余労働の処分を資本家が独占せず社会が決定できるようになることは、経済に対して人間が主人公となり、自由になることであり「〜に対する自由」「〜への自由」を構成するもっと積極的なものだ。そのような自由観こそヘーゲル以来の自由観を受け継ぐ、マルクス主義の自由観の本領だ。
体力や時間がない人は以上の要旨だけ読んでくれればいい。時間がある人はその後も。また、「要旨のこの部分はどういう理屈だろう?」と興味を持った人は下記でその部分だけでも読んでほしい。
1. 「生産手段の社会化」のイメージが全くないか、狭すぎないか?
本書は、“「資本主義は自由」と言われるが、資本主義の基本原理である利潤第一主義によって貧富の格差の拡大や、気候危機が生じ深刻に人間の自由が脅かされているではないか”という導入になっている。
これに対してQ12で「どうすれば『利潤第一主義』をとりのぞくことができるのですか?」との問いを立て、志位は、マルクスの答えとして「生産手段の社会化」だとのべる。
マルクスが出した答えは、「生産手段の社会化」——生産手段を個々の資本家の手から社会全体の手に移すということでした。(p.62)
つまりここの資本家がもうけを果てしなく追求する「利潤第一主義」にかわって、生産の目的と動機が「人間と社会の発展」のためということになるじゃないですか。(p.63)
ここで多くの人が「『社会全体の手に移す』とは具体的にどういうこと?」と疑問に思うのではないだろうか。
志位はそのイメージについて国有化を
唯一の方法とは考えていません(p.63)
とのみ答えている。えっ? 「唯一の方法」ではないのであって、国有化ということが基本なのかな? とも受け取れる答えである。
他方で本書の終わりでは質問に答え、
協同組合は「社会化」の一つの形態になりうる(p.137)
と答えている。
“国有化もそうかもしれないが、それだけではなく、協同組合はその一つのカタチだ”…。うーん。これでわかるだろうか?
その形態を具体的にしばらない、つまり青写真を描かない、というのが日本共産党の伝統的な答えなのでこういうふうになってしまうのだ。
だが、多くの国民はそこを聞きたがっている。また、そのイメージなしに利潤第一主義が具体的にどう克服されていくのかわからないではないか。
生産手段を社会に手に移すことによって利潤第一主義を抑え、どのように貧富の格差や気候危機が克服されていくのだろうか、と疑問に感じるわけである。
そこで国有化や協同組合を仮にイメージしてその克服を考えてみる。
例えば貧富の格差。国有化した場合を考えてみよう。
国有化によってもし企業体が1つしかない場合、なるほど剰余価値(もうけ)をどう処分するかは労働者や社会が関与して決められるに違いない。誰かが独り占めすることなく、もうけを社会保障、拡大再生産、労働者の生活向上、そして時短に公正に振り向けられるだろう。
しかし、ではそうだとしたら、企業体は1産業に1つしかないのだろうか? それとも複数存在し、競争しているのだろうか? 国民は企業を起業することはできないのだろうか? 没落を含めた競争によって技術の発展が起きるという可能性を否定するのだろうか? 国有化はむしろこれらの問題にほとんど答えることができない。
協同組合なら、複数の主体が自由に設立することが可能だろう。しかし、協同組合はその事業体の中では民主的な分配や参加が可能だとしても、ある協同組合が社会全体に対してエゴイスティックな振る舞い——例えば利潤追求一辺倒で環境を破壊することを防げるわけではない。また、過剰な生産を防げるわけでもない。
結論を言えば、このように狭い意味での企業の「所有」形態をいじることで、問題が解決するかのように考えるのは、論理的に物事を考え抜いていないのだと思う。また、資本主義の下で発達してきた、経済に対する社会の関与の仕組みを生かし、発展させることに無頓着すぎると思う。
別の言い方をしよう。「生産手段の社会化」のイメージが貧困なのだ。古い社会主義のイメージに自らとらわれてしまい、狭い意味の所有をいじること(個別企業や株主から取り上げること)しか考えていないのである。
例えば貧富の格差を是正するという問題の解決を考えてみよう。
現代の資本主義の下で、貧富の格差を是正するために発達しているものは何かと言えば、一つは課税であろう。企業のあげる莫大な利潤を、法人税課税などによって社会(政府)が吸い上げ、それを社会保障拡充・社会資本建設などに回すという制度設計である。
利潤第一主義に囚われた社会(資本主義)では、政権はその利潤第一主義を擁護する形で政治を行う。だから、法人課税は「ほどほど」にしか行われない。これに対して、社会主義政権では、この法人課税、あるいは所得への累進課税を徹底する。そのことによって、資本家が搾取した剰余価値を、再び社会が取り戻し、社会のために使わせることができるのである。
別の言い方をしてみよう。社会主義政権が50%の課税を提案する。「いや、法人課税の税率を50%まで引き上げたら企業活動や経済は活力を失ってしまう。30%で止めるべきだ」という資本家寄りの反対意見が野党から出されるとする。世論などの力関係で結果的に40%ということで落ち着いた。後から考えてみれば50%に引き上げて社会保障や社会資本の拡充に回すことが、企業の活動も活性化させ、国民の生活向上も実現させる、最適な結論だったとする。しかし、その時には40%で妥協するしかなかったのである。このようにして、社会的な理性は一歩一歩実現していき、50%になったときに初めて、貧富の格差を大幅に是正するポイントに達し、その分野で「利潤第一主義は克服された」ということができるはずだ。
生産手段に対する「所有権」とは何かを改めて考えてみると、民法206条にあるように
所有者は、法令の制限内において、自由にその所有物の使用、収益及び処分をする権利を有する。
ということだ。社会(政府)は、生産手段によって生み出される収益に対して、積極的に関与し、その所有権を「侵害」し、収益の処分の権利を法律(法人税や所得税)によって一部奪っている。これは「生産手段の社会化」の、(この分野における)部分的な実現ではないだろうか。
このような道筋で貧富の格差の是正を考えてみると、今ある企業を否定したり、競争や市場の存在を否定したりする必要がないことがわかる。そして、今の資本主義から、この分野での利潤第一主義の克服までが「税率」というシンプルなもので地続きであることが理解できるはずだ。
古い社会主義者たちがやりがちなことは、本書Q12で「資本主義のもとでなぜ貧困と格差が拡大していくのでしょうか?」という問いの答えでマルクスが『資本論』で明らかにした富と貧困の蓄積の法則にその原因があるのだから、その原因そのものを除去すること、原因を廃絶することに熱中してしまうようなやり方だ。そのために資本=企業体を否定してしまおうとする。いくら口で「いや、資本の否定ではなく止揚だ」と言ってみても、やっていることは狭い意味での所有をいじり、資本を資本家・株主から取り上げてしまおうとする。そうしないと社会主義ではない、修正資本主義になってしまう、改良主義になってしまうという思い込みがあるのである。
そうではなく、資本のもとで問題を引き起こしている原因があったとしても、原因を直接廃絶するのではなく、その原因によって引き起こされてくる結果を緩和したり、コントロールしたりする制度や仕掛けをどんどん大きくし、繁茂させることで、害悪を大幅に弱めたり、無効化させるというイメージを持つことが大切なのだ。
問題の解決は、今なされている努力の先にしかない。狭義の所有いじりで解決する魔法など存在しない。
貧富の格差の是正という問題に、「利潤への課税の拡大」を解答にすることを「修正資本主義」「生産を変革せず分配だけを問題にしている改良主義」だとする「呪い」=思い込みから解放されることが必要だろう。
気候危機への対策も同じである。
すでに資本主義下で脱炭素の方策は様々に出揃っている。再エネ、化石燃料の規制、省エネなどである。日本共産党自身が示している提言は、いずれも資本主義下での対策である。
問題は、それを完全に実行できるかどうかにかかっているのであって、利潤第一主義からの妨害に負けて妥協してしまうか、それともそれと徹底してたたかうか、である。
この気候危機の問題でも、社会主義——生産手段の社会化の具体的な姿は、現状の資本主義下での努力を拡大するのかどうかが問題であって、社会全体の企業の所有形態を大幅に変更することなどほとんど問題になっていない(地域の再エネを扱う際に、住民による協同組合形式が奨励されるということはあるだろうが、例えば自動車メーカーの企業形態をいじったり、鉄鋼産業をどうしても国有化しなければならなかったりする必要はまるでない)。
競争を否定したり、企業形態を社会で丸ごと変えたりする必要などどこにもないのだ。
法律や、税制や、自治体の計画・指導などによって、生産手段の使い方(「所有物の使用」)に対して社会は関与できるのである。これがこの分野での生産手段の社会化の実現なのである。
かつてぼくは古い左翼の中にある「生産手段の社会化」のイメージの貧困さについて批判したことがあるので、詳しくはそちらをみてほしい。
本書Q13では恐慌を取り上げ、資本主義の下での「あとの祭り」、事後にしか社会的理性が発揮されない問題について論じている。また、p.139では資本主義の下で恐慌をなくす制度はつくられていないとも述べている。
完全になくすことはできないが、資本主義の下で、恐慌の影響を緩和し、景気の変動をある程度管理する仕組みは発達してきた。不況時には公共投資や減税を行い、過熱期には金融引き締めを行うことによって景気の谷を浅く、また山を低くするというのがオーソドックスな説明だ。
もし恐慌を完全になくそうとすれば、企業や市場を廃絶し、全生産物の需給を国家が一元的に計画して管理する以外になかろう。
どちらがいいかといえば、前者のような仕組みをもっと成熟させることを多くの国民は望むはずである。例えばリーマンショックの引き金になったサブプライムローンをめぐる加熱に対して、利潤第一主義にとらわれずに国際的な銀行規制の枠組みを強化するなどを対策をとるべきであろう。そうした仕組みづくり以外に、社会主義は一体どんな対案を示すというのであろうか。
2. 「『利潤第一主義』からの自由」?
本書は「共産主義と自由」を考えることをテーマにしている。
その場合「自由」という概念について、ある程度吟味しておく必要がある。
もっとも基本的な問題で言えば、ぼくたちがまず「自由」という言葉でイメージされるのは、束縛がない状態である。しばられたり、押さえつけられたりするものが何もないということだ。われわれをしばったり、押さえつけたりするものからの自由。
これが一番最初にイメージされる自由だろう。
例えば表現の自由は、表現を抑圧しようとする国家権力からの自由がイメージされている。営業の自由は、「こんなところで商売しちゃいかん!」という不当なしばりから自由であることがイメージされている。
しかし、この束縛からの自由という考えはただちに反省を迫られる。あらゆるものが野放しになれば、結局力の強いものが弱いものを支配することが自由のもたらす結果となってしまうからだ。そこで自然や社会をコントロールしながら使いこなしていくことで、自分たちにとっていちばん良い結果をもたらそうとすることを「自由」として発展させていこうとする。
自動車の仕組みや使い方を知らない人は、自動車に対して自由になれない。めちゃくちゃにいじっても、自動車は動かないし、動いても悲惨な事故をもたらす。自動車というものがどんな法則や必然性によって動くのかを十分理解し、それにそって自動車に働きかけることで、初めて人は自動車に対する自由を獲得する。自動車に対する自由、自動車への自由である。
志位は、本書で「共産主義と自由」を考える上で、貧富の格差や気候危機は利潤第一主義がそれをもたらしているとして、その解決策として生産手段の社会化を対置する。
それ自体はぼくも賛成なのだが、志位はそれを「『利潤第一主義』からの自由」としてまとめている。また、マルクスの「フランス労働者党の綱領前文」を使い、「搾取からの自由」「抑圧からの自由」(p.76)という言い方もしている。
これは表現として違和感を覚える。
「〜からの自由」という表現は、消極的な自由を意味してしまうからである。ここでいえば利潤第一主義のくびき(搾取・抑圧)から逃れるというニュアンスが出てしまうからである。
だが、生産手段を社会化するということは、もっと積極的な意味を持つ。
生産手段を社会化することによって、労働者や社会は、剰余価値の処分に積極的に関与でき、自己決定ができるようになる。それは利潤追求を最優先にする経済に振り回されていた存在から、社会に対する自分の運命を自己決定できるようになったことを意味するはずだ。
社会の法則(必然性)に振り回されていた人間は、法則を知り、それに正しく働きかけることによって社会に対する主人公となり、自由を獲得する。
マルクスの盟友だったエンゲルスは「科学的社会主義の入門書」として位置付けた『空想から科学へ』というパンフレットの中で次のように述べている。
人間自身の社会化は、これまでは自然と歴史によっておしつけられたものとして人間に対立してきたが、いまや人間の自由な行為になる。これまで歴史を支配してきた客観的な、外的な力は、人間自身の統御のもとにはいる。そのときからはじめて、人間は人間の歴史を十分に意識して自分でつくるし、そのときからはじめて、人間によって作用させられてきた社会的諸原因は、ますます大きな度合いで人間の欲したとおりの結果をもたらす。それは必然の国から自由の国への人間の飛躍である。(エンゲルス『空想から科学へ』新日本出版社、p.92)
こうした社会と自然の法則を知り、働きかけ、社会と自然への自由を獲得するというのは、「自由とは必然性の洞察である」とするヘーゲルの影響を受けたものである。
実は、この文章の背景には、ヘーゲルの自由論、必然論がありました。(不破哲三『古典教室 第2巻』新日本出版社、p.192)
生産手段の社会化はまさに労働者階級と社会がこうした社会と自然に対する自己決定=自由を獲得するポイントになるものである。そのことを「利潤第一主義からの自由」という消極的自由として表現するのは、その画期性を過小評価するものではなかろうか。
むしろ共産主義・社会主義における自由の最大のポイントとして、この社会の主人公になるという意味での自由がある。人類は初めて自己決定・自己支配としての自由の道に踏み出せるようになる。
このような過小評価に志位が陥ってしまう理由は二つある。
- 「生産手段の社会化」についてのイメージが貧困で、具体的に経済をどうやってコントロールしていくのかを語れないからである。国有化や協同組合のようなイメージしかないために、国民の前でそれを語ることが躊躇されてしまうのだ。現代の資本主義の中に「地続き」になって社会主義に引き継がれていく萌芽がどのように生まれて育っているのかを十分に観察できていないのだとも言える。
- もう一つは、先輩の不破哲三が「必然性の国から自由の国への飛躍」というエンゲルスが定式化した概念の意義を弱めて、労働時間の抜本短縮による自由時間の獲得と人間の全面発達というマルクスが定式化した「必然性の国と自由の国」の方の強調に置き換えてしまったためであろう。あたかもエンゲルスのこうした定式の意義が失われてしまったかのように一面的に受け取っているのではないか。
というように推測する。