俺たちの世界には〝恋人〟っていう言葉より先に〝つがい〟という言葉を学ぶ人間がいる。 〝番〟と書いて〝つがい〟――普通の家庭で育てばピンとこない言葉だ。 たとえば両親がαとΩなら。 あるいは、両親のどちらかがβ以外の性だったなら、だいたい〝つがい〟や〝運命のつがい〟って言葉を生まれてすぐ聞かされることになる。 下手をしたら〝恋〟や〝愛〟より先に。 「――紺、起きなさーい。学校遅刻だよー」 「うん、もう起きてる~」 母さんが階下から呼ぶ声にこたえつつ、制服のネクタイを結んだあと急いで一階のダイニングへ移動した。 父さんはすでに出勤したようすで、席に食パンとコーンスープの食べ残しが放置されている。 「紺もすぐ食べちゃって」 母さんがそれをひきあげながら若干苛々うながしてきて、俺も「うん」とこたえて椅子を引いて座る。 食パンにハムサラダをのせてサンドイッチにしてから、半分に折ってかぶりついた。 『――のΩ殺人事件で、新たに三人の男が逮捕されました。三人はいずれも不動産会社などを経営する会社社長で、αの闇パーティ会員だったと見られています』 隣のリビングに設置されている液晶テレビから、いま世間を騒がせている闇パーティΩ殺人事件の情報が聞こえてくる。 金も地位もある偉いαたちがΩをレイプして楽しむ闇パーティっていうのがあったらしくて、死者が複数人いたことも発覚し、マスコミは連日報道を続けている。 「いやあねえ……普段お世話になってる会社の社長までこんな殺人鬼αだったらどうしよう。スーパーとかコンビニが潰れたら困るじゃない?」 母さんもキッチンで食器を洗いながら、鼻にしわを寄せて煙たげな顔をする。 「そうだね」 朝から人が殺されただの誰かが逮捕されただの、そんな暗い話を聞いていると気が滅入る。 適当な返事をして受け流したのに、母さんは止まらない。 「普通の人間より秀でていて、鼻ほじりながら生きててもなんでもできちゃうのに、どうしてΩのフェロモンには屈しちゃうんだろうね。結局無能なんだよ、そういうαは。ちゃんと自分を律して社会貢献しろっての。Ωを性暴力でねじ伏せて殺人までするって、狂ってるよ」 ため息をつく母さんにつられて、こっちもため息をこぼしそうになる。 正面の父さんの席が空っぽな理由に、ようやく気がついた。 「そろそろ行くね」 「え、もう朝ご飯いいの?」 「うん、いいや」 とりあえずパンを口のなかに押しこんでスープも一口だけ飲み、椅子から立った。 階段に置いておいたリュックを背負って、逃げるように玄関へ向かう。 通学の電車に揺られながらスマホを眺めていると、SNSも闇パーティ事件やαとΩの人権問題で盛りあがっていた。 『αはその才能で社会を支えろ』 『Ωに性的暴行をするαは死刑でいい』 『Ωは男でも子どもを産める世界の宝だぞ』 『αは隔離するべき』 『αも馬車馬のように働くためだけに生まれてきたわけじゃない、人権がある』 『性犯罪者に人権なんかあるか』 『Ωを守れ』――SNSを消して耳にイヤホンをはめ、音楽アプリを再生して目をとじる。 最近紅茶のCMソングがきっかけで好きになったアーティストのミリコは女性っぽい名前の男性だ。 男性なんだけど、泣いているみたいな高い声で失恋の歌をうたう。 それがすごく好きだった。 ――好きだったなあ……。 あなたが飲んでいたから好きになった紅茶。 ひとりで飲んでいてもあなたを想い出してしまうの。 この味を、嫌う方法を教えてよ。 音楽はいい。 文字みたいに汚くて騒がしくないから。 「――広瀬、悪い。五十嵐見なかったか?」 なんとかまた一日を乗り切って帰り支度をしていたら、担任の和田先生に声をかけられた。 無意識に左隣の、窓際の席に視線を向ける。 「……今日も一日見てませんけど。五十嵐って来てたんですか?」 五十嵐朱理は俺の隣の席のクラスメイトだ。でも不登校なのかなんなのか、二年生でおなじクラスになってからほとんど姿を見ない。 「来てたよ。たぶん裏庭にいるから呼んできてくれないか。先生、職員室にいるから」 「え」 「頼んだぞ」 和田先生がそそくさ教室をでていってしまう。 ちょっと嫌だな……いや、だいぶ嫌だな……、とげんなりしつつ、仕方なくリュックを机の上に置いてのろのろ裏庭へ向かう。 そもそも五十嵐がどんな奴か知らない。 隣の席でも全然しゃべったことがないし、姿もちらっと見た記憶しかない。 めざとい女子が『五十嵐君めっちゃイケメンだから絶対αだよね』と噂しているのを知っている程度だ。 不登校でも、授業嫌いでも、集団生活嫌いでも、なんでもいいんだけど、厄介なことに巻きこまれるのは嫌だな。ささっと見つけて、伝言だけ伝えておさらばしよう。 うちの高校の裏庭は結構ひろくて、園芸部が管理している綺麗な花壇や古びた噴水もある。 ここで昼休憩をしたり、放課後いつまでもおしゃべりしていたりする女子もいるから、そんなに隠れ家に適した場所だとは思わないんだけどな……、と見まわしながら裏庭を歩き始めたら、噴水の傍らにあるベンチに、五十嵐らしき人物を見つけた。 耳にでかいヘッドホンをつけて、噴水になにか投げこんでいる……と、思って近づいたら、違った。 噴水横にラティスで囲われたおしゃれなカメ用水槽があって、餌をあげている。 「え、すごい」 こんなのがあるって知らなかった。 ひろい水槽のなかには立派な人工芝の陸地と水場があって、二匹のカメはご機嫌そうだ。 五十嵐があげている粒状の餌を、嬉しそうに受けとってもしゃもしゃ可愛らしく食べている。 「……広瀬?」 五十嵐がヘッドホンを首にずらして、眩しげに目を細めながら俺を見あげてきた。 「ああ、……うん。和田が呼んでたよ。職員室に来てって」 五十嵐は目の色が薄茶色で、外国人っぽい。 そういえばこれってこいつの特徴だったな、と思い出した。 女子が噂するだけあって本当に顔のパーツも全部ぱきぱき整っていて怖いぐらいだよ。っていうか、俺の名前を知っていたこともびっくりした。 「行きたくないって伝えておいて」 五十嵐は気怠げにそう言って、カメたちに視線を戻す。 「知らないよ。自分で言いなよ」 「じゃあ放っておく。広瀬の伝言はちゃんと受けとったから帰っていいよ」 「……。そう。わかった」 ベンチに座って、カメを見おろしている五十嵐の黒い前髪が、長い睫毛を邪魔している。 透きとおる茶色い目は、夕日に当たるとさらに薄く綺麗なガラス玉みたいに光っていた。 身を翻して裏庭を進み、教室へ戻る。 ヘッドホンから洩れ聞こえたのがミリコの声に似ていた。 クラスにも誰にもなじもうとしないひとりが好きな奴っぽいけど、カメにはすごく好かれていた。 あとたぶん……たしかに、五十嵐はαかもしれない。 //TOP//NEXT→ |