『……紺? 俺、なにか聞いておいたほうがいい話ある?』 帰宅して夕飯と風呂も済ませて部屋にいると、朱理がノートパソコンの画面越しに訊ねてきた。 「ううん。――……あ、ゃ……本当はあるよ。けど……まだ、もうすこし時間ちょうだい。話せるときがきたら朱理に聞いてほしい」 『そっか。……ン、わかった。ごめんね、不躾に』 「朱理が謝ることじゃないよ」 家に着いてからビデオ通話を繋げっぱなしにして、おたがいの存在を感じながら過ごしていた。 面とむかって真剣に会話をするのではなく、ふたりして日常生活を送りながら、時折〝そこ〟にいる恋人に同居している感覚で声をかける。頑張って感情を整えても一時間半程度しかこの身体で会うことのできない俺たちの、安心で幸せな生活スタイルだ。 ――おまえのレモンの匂い、きつすぎる。 千堂にぶつけられた言葉が頭のなかでずっとまわっていて、朱理と下校しているときから動揺を隠せていなかった……というか朱理には全部バレてしまうから、案の定気をつかわせてしまった。 明日ちゃんと、改めて千堂と話してから、必要そうなら千堂の許しを得て朱理にも伝えたい。 ……千堂がαに覚醒しようとしているかもしれない、ってこと。 翌日、山田と華ちゃんも千堂に声をかけて、なんとか話しあいの場をつくろうとしていたけれど、結局避けられて終わってしまった。 その次の日は千堂が学校を休んでしまい、心配して見かねた佐野も含めて『あいつ、いまひとりになりたいのかもな』と、みんなでやるせない思いを抱え、落ちこんで反省した。 『追い詰めてしまうのだけは避けよう、謝罪のメッセージだけ送って千堂の気持ちが落ちつくのを待とう』と四人で相談して決めた休み明けだった。 千堂がやっと、俺たちのところへ戻ってきてくれたのは。 「……みんな、ごめん。俺、ちょっと……正気じゃいられなかった」 食堂で買ったジュースを片手に、普段立ち入り禁止の屋上へ四人で忍びこんで、うな垂れて訥々と話す千堂の話を聞いた。 「夏休みの後半……美羽と別れたんだよ。もうみんな、わかってただろうけど」 近くにいると、千堂のやつれた頬と目の下のクマも鮮明になった。 「その、理由がさ……俺が、……おれが、ある、……α、に……なった、からで、」 声を詰まらせて嗚咽しながら話す千堂の背中を、華ちゃんが横からそっと撫でる。 「αは……Ωを、かならず、欲するようになる。だから、……つきあうことはできない、って……親に、反対されたから、って……」 千堂が涙をこぼすのを初めて見た。 話としては恋人と別れたことと、バース性がわかったことのふたつの事実しかまだ語れていないのに、千堂の大粒の涙は左右の下瞼からいくつもふくれあがって、ばらばらと地面へ落ちていく。 「俺は、浮気も不倫もっ……してないし、したいとも思わないっ。αだったせいで〝いまの俺〟じゃない、俺自身が知りもしない〝いつかの俺〟の……浮気や不倫を突きつけられて、一方的に捨てられてさ……ふざけんなよっ……ふざけんなよ……」 うぅ、ふうぅっ、と呻きながら号泣する千堂が、どれだけ石山さんを想っていたのか、どれほど別れが辛いのか……胸が抉れるほどに響いてくる。 「美羽ちゃんちの両親って逆にばかじゃない?」 ずっ、と音を鳴らしていちごシュースを飲んだ佐野も涙目になっている。 「だってαだぜ? なんだってできて金持ちになれる素質まであんのに、捨てるってどんだけだよ。いいじゃん、そのまま玉の輿にのっておけば、なあ?」 「……そんな単純でもないよ」 そっとたしなめたのは華ちゃんだった。 「αが生きづらい世界なのは佐野君だってよくわかってるでしょ。繁殖本能を我慢するのだって、想像を絶する苦しさだと思うよ。それはわたしも実際に体感することができない。できないから、石山さんのご両親も〝娘を傷つけたくない〟って恐れるんだよ」 「下倉は美羽ちゃん側の味方なんだな」 「ばか、味方なんて簡単に言うな。そもそも石山さんだって千堂君みたいに毎日大泣きしてるかもしれないんだよ? 自分たちの感情の問題じゃなくて、バース性が原因で引き裂かれてるんだから。もっと察してあげなよ」 「βの俺にとっちゃ千堂を捨てた奴がみんな敵だ、悪ぃか」 「もう……ガキなんだから佐野は」 千堂は震える右手で涙を拭って、「……ありがとな、佐野」と洟をすする。 相手のご両親を攻撃して傲慢にでも自分を想いやってくれる誰かを、千堂は求めていたのかもしれない、と予感させる複雑で苦々しい笑みが一瞬覗いた。 「……俺もすごく悩んだから……〝じゃあ千堂がΩと新しい恋愛をすれば幸せなのか〟って考えてもわからないよ。定期的に発情期がきて生活になんらかの支障をきたす人生って、受け容れるには覚悟が必要だから。Ωから身を守りつつβと生きたほうが幸せだ、って価値観のαもたくさんいると思う。でもどっちの道だろうと、それは千堂と石山さんのふたりに決めさせてほしかったよね。……ご両親の判断っていうのが、辛くて悔しい」 朱理と自分の現在も、山田と華ちゃんの関係も、それに父さんと母さんの決断も……また反芻しながら千堂の哀しみを思った。 俺たちはいつだって、バース性なんかがあるばかりに心だけでまっすぐ人を愛せない。 よろめきながら、躓きながら、懸命に本能をコントロールして愛情を貫いていくしかないんだ。 「――……つうかさ、まだ泣くのははやくね?」 黙ってコーヒー牛乳を飲んでいた山田が口をひらいた。 「だって美羽ちゃんのバース性ってまだ決まってないだろ。βだって信じこんでるみたいだけど、Ωになる可能性だって秘めてるじゃないか」 全員が山田を視線で捉えて、あ、と我に返る。 「そうだ……そうだよ千堂、βだって信じてたのにΩだった俺がここにいるよっ」 自分を指さして、どんどんと胸を叩いた。 千堂も涙をいっぱいに溜めた瞳を稚くきらめかせて目を瞠る。 「うん、だから千堂は美羽ちゃんのご両親に頭さげて交渉してみろよ。一年間αとして誰にも手をださずに美羽ちゃんだけ想って生きるから、美羽ちゃんのバース性が確定するまで自分を監視しててくれ、って。それでもし美羽ちゃんがβだったとしてもちゃんと愛して生きられることも証明できるから、そのときはつきあいを認めてほしい、ってさ」 しれっと、なんてことのない口調で提案した山田に、みんなが尊敬の眼差しを送った。 「山田……おまえ立派なαになっちゃって……」 俺が大げさに両掌をあわせて握りしめ、神さまを崇めるみたいに演技したら、佐野も真似た。 「ほんとだよっ……エロいことで頭がいっぱいだったばかな山田が懐かしいぜ……」 千堂がやっと顔をあげて、華ちゃんが苦笑いしながらだしてくれたティッシュで鼻と目を拭く。 「美羽もだいぶご両親の影響を受けてて、αとつきあうのが怖いって言ってたから、うまくいくかわからないけど……美羽にも信じてもらういい期間になりそうだよな。ありがとう山田」 「そうだよ、踏ん張ってみろよ」 背中を押す山田も拳に親指を立ててにっこり微笑む。 「諦めない方法が見つかってよかったね。千堂君も、一年あったらかなり魅力的なαに成長するよ。石山さんもいまは怖くても、千堂君を手放したくないって想いがふくらんじゃうんじゃない?」 佐野が「下倉みたいに?」とおどけて割りこんだら、華ちゃんが赤くなって怒った。 「うるさいな佐野。わたしは手放したくなかったんじゃなくてちゃんと惚れたんですー」 「はあ? マジかのろけかよっ」 「あーっ」とパックジュースを持ったまま両腕を伸ばした佐野が、放課後のまだ青々と光っている空にむかって声を発散する。 「あんだよ、夏休みひとりではしゃいでたのは俺だけか~っ、俺も恋愛してーっ」 千堂もようやく笑いだし、みんなで「ははは」と笑い声を絡めあって安堵の空気に包まれる。 「……怒鳴ったりしないで、山田に素直に相談しておけばよかったな。ほんとごめん。体育館には美羽もいて、ひさびさに遠目に顔見たから情緒不安定だったんだよ。……情けねー」 「気にしてねえよ。俺も話しかけるテンション間違えてたわ。デリカシー身につけます」 華ちゃんが「ふっ」と顔を背けてこっそり笑った。 「それに俺の提案も最善かどうかわかんねえしな。あれじゃん? 五十嵐にも相談してみたらいいんじゃん? たぶん何億倍もいい策、さらっと考えてくれんだろ」 山田の発言を受けて、今度はみんなの視線が俺のところへむいた。 「……え、どうだろう。千堂が朱理に話していいって許可くれるなら、意見聞いてみるけど」 「全然いいよ。頼む、五十嵐にも聞いてみてくれる? αの頭のよさに頼りたいな」 佐野が「おまえもαなんだろ」とつっこんで笑っている。 千堂の目は純粋に輝いていて、予想外の反応に面食らった。 「わかった。なら、今夜話してみるね。いま朱理、保健室で過ごしてくれてるから」 「保健室? 登校はしてるんだ?」 朱理がまた授業に参加しなくなった理由を、千堂にも説明した。 神妙な面持ちで聞いてくれていた千堂は、「そうか……」と深く受けとめて相づちをくれる。 「やっぱ五十嵐はすごいな……ビデオ通話までして広瀬との関係を維持してるのか。未来を先読みして危機回避して愛情貫いて……敵わないよ。五十嵐が相手なら、広瀬も永遠に幸せだよな」 帰り道、朱理に「今夜相談したいことがあるから聞いてくれる?」と頼むと、朱理は口角をあげて頬をふくらませ、驚くほど嬉しそうな笑顔で「もちろんだよ」と応えてくれた。 あ……、と察知する。朱理は、朱理と俺のふたりの心の相談話ができる、と勘違いしている。 俺が〝Ωかもしれない、子どもを産むのも怖い〟と披瀝したときと同様に、恋人同士の問題に、一緒にむきあえるんだ、と喜んでくれているんだ。 「ごめん……たぶん、朱理が想像してくれてるような話ではないや」 「そうなの?」 「うん。俺はいま朱理とのつきあいになんの不満もないし、朱理の恋人になれて幸せだから」 「ふふふ」と朱理の笑顔が蕩ける。 「わかった、なら心配しないで待ってるよ」 「うん」とうなずいて駅までの短い逢瀬を終え、名残惜しみながら手を振って別れた。 そして帰宅するとまた部屋のパソコンを起動してビデオ通話を繋ぎ、朱理がまだオフラインなのを確認してから夕飯と風呂を済ませた。 髪を乾かして部屋に戻ると、ビデオ通話の画面越しに朱理が勉強をしている。 『……あ、紺戻ってきたね』 「うん、ただいま。俺はもう風呂も入ったよ。朱理は? 夕飯食べた?」 『食べた。ちょうど休憩しようと思ってたところだから、さっき言ってた話、聞かせてほしいな』 「ン……わかった」 俺も椅子に座ってパソコン越しに朱理とむかいあい、いま持ってきた麦茶を飲んだ。口のなかと心を整えて「友だちの話なんだよ、」と切りだし、千堂から聞いた石山さんとの別れ話を伝える。 許可をもらったとはいえ、やっぱり他人の恋愛話を本人がいないところで話題にするのは嫌だなと思った。千堂の痛みを代弁などできないし、千堂の涙の震えや数まで、伝えきれはしないから。 「ふうん……」 話し終えて、千堂のお願いも朱理に頼むと、朱理は冷たく瞼を細めた。 「紺の匂いがここ数日濁ってたのは千堂のせいだったのか」 え……いまの朱理の声? と驚愕する冷淡さだった。 「紺は先週の始業式の日からようすがおかしかったよね。千堂の話って〝今日聞いた〟んじゃなくて〝今日解決した〟だけで、数日ずっと抱えていたんじゃないの?」 「あ……うん、そう、だよ。山田たちと四人で悩んでた。千堂にどう接したらいいだろう、って」 「それって始業式の途中で体育館から千堂と山田が引っ張り出されてたのと関係ある?」 驚きすぎて一瞬、息が止まった。 「朱理、知ってたの……?」 「知ってたよ。体育館って保健室から見えるからね。外で体育の教師がふたりを大声で叱ってたのも見てた。また山田がなにかやらかしたのかと思ってたけど、千堂だったんだね」 朱理の薄茶色の瞳がきらめいて、鋭く尖っている。怒りが、燃えている。 「……紺は俺がなにに腹を立ててるかわかる?」 「なに、って……」 「千堂がαだったならすぐに教えてほしかった。それは重要な情報なんだから共有するべきだろ」 「情報、としては……重要かも、しれないけど、でも、心の問題でもあるんだよ。俺だって自分が〝Ωかもしれない〟って怯えてたころ、保健室に薬をもらいに行くのもうしろめたくて、こそこそ隠れて行ってた。αは妬みや攻撃の的にもなるって、朱理が誰よりいちばんわかってるじゃないか。千堂が隠したがるかもしれないのに、べらべら言いふらすなんてできない。だから、」 「俺が千堂を妬むと思ってるの? この俺が、千堂なんかを……?」 朱理の瞳がさらに細く鈍く光って、口もとに嘲りが浮かんだ。 ぞく、と背筋に悪寒が走るのに、この瞳に――この力に、なぜか支配されたい。服従したい、と形容し難い激情も同時に迫りあがってくる。 「紺は俺のことを愛して、信じてくれているんだよね」 「……う、ン」 「理解しやすく説明するけど、俺はなにもα性が確定したクラスメイト全員を報告しろって要求しているわけじゃないんだよ。紺がお友だちごっこしながら毎日一緒にいる仲間のなかにαがいたら危険だから、それは俺にも教えてほしいって頼んでる。わかるよね」 ばかにもわかるように、と蔑みながら躾けられているのもわかる。わかるのに、この残酷な言葉のひとことひとことが朱理の嫉妬心であることが堪らない。 どく、と心臓が大きく跳ねて胸を押さえた。鼓動がどんどんはやくなって顔も熱くなり、背中が……全身が、痺れて震えだす。 「……ごめん、なさい」 「今度からくだらない我慢はしないで。紺のためでもあるんだよ、いいね」 ぞくぞく、と寒気が増していく。恐怖じゃない……これは、たぶん、本能だ。 「俺たちは〝欲しい〟と思った人間や物に強く執着する。これもαの本能なんだよ。相手から別れを切りだされたからって尻尾巻いて逃げてぐずぐす泣くのはαじゃない。千堂は本当にαなのかな。βの血が濃いαもいるって聞くから、半端なハーフなのかもしれないね」 朱理が朱理らしくない差別的な言葉を吐いて微笑んだ瞬間、限界がきた。 「朱理っ……やめて、わか、……った、から、……これ以上、朱理がなにか言ったら……狂う、」 自分の身体が、いま、自分の意思ではなくパソコン画面越しの朱理の意思に支配され、操られている、と感じた。心臓を朱理に握られているみたいに息苦しい、下半身が……腹の奥が疼く。 「狂うってどんなふうに」 「ふ……服、脱ぎたい。熱くて、つらぃ、……朱理と……したい、」 「無理だよ、いまは家にいるから」 あっさり突き放されて絶望した。 「紺がひとりでできるなら見ていてあげるよ。俺のために乱れて、俺のためだけに欲情してよ紺。欲しいのは俺だけだって証明してみせて」 腹の奥底で光が灯るように、なにかが兆したのをはっきりと自覚した。 自分は朱理の――このαの所有物だ、とわかった。 離れた場所にいようとも、この心と身体は朱理の言葉と意思、愛情、本能と力に、すべてに支配されている。知らないあいだにもう噛みつかれて、食べ尽くされて、朱理の一部になっていた。 「しゅ、り……」 自分の口から洩れる呼吸も酷く熱かった。パンツと下着をずらして触れたそこもすでに火照っている。掌に包んで、「紺」と朱理に呼ばれた瞬間、一度達した。それから耐えきれず、朱理の名前をくり返しながら朱理と過ごした夏の別荘での行為を想い出し、必死に慰めて再び達した。 「……可愛すぎるよ紺。ありがとう。ごめんね」 ぐったり机に突っ伏したまま重たい顔をあげると、甘く微笑んで見守ってくれている朱理がいた。表情とは裏腹に、ごめんね、の言葉が淡泊なのも、胸を震わせて堪らなかった。 「ずっと保健室にいて、紺が千堂たちと楽しそうに校庭で体育の授業をしてるのも眺めているだけだったから。紺の傍で、紺に縋っている奴らに敏感になってるのかもしれない」 まだ腹の奥で燻り続けている劣情が、本能が、思考を邪魔している。ただ朱理の綺麗な声だけが心地いい。 「そう。千堂の件で俺が疑問だったのは、彼女がΩやβでもなくαだったらご両親はどうするのかっていうことだよ。〝αはΩを欲する〟と思うなら、当然娘がαになったらΩと結婚させたがるんじゃないかな。その詰めの甘さだけ千堂に伝えてやって。あとはαらしく自分で考えて自分の力で好きな相手のひとりぐらい掴まえておけよ」 朱理の薄茶色の美しい瞳が揺らいで、ハンサムに微笑んでいる。ああ……好きだ。 この聡明で強靱で誇り高く残酷な、朱理が欲しい――。 「……朱理に、噛まれたい」 あの日プールの水のなかで漂っていた朱理が脳裏を過る。 俺もいま、愛しさと本能の狭間で、揺らいで漂っているみたいだ。 「すぐに食べてあげる。――紺は俺のもので、俺は紺のものだよ」 光と揺らぎの果てに、意識が消えていく……。 「……うん、そうなんだよな。俺も昨日の夜改めて考えてて、ちょっと待てよ? って気づいた」 翌日、体育のサッカーの授業で試合待ちをしているあいだ、校庭の片隅で千堂と話した。 「美羽がαだったらまた厄介だよな……その場合はどうやって口説いたらいいんだろう」 「厄介でもないと思うよ。α同士なら本能に左右されずに生きられるんだから。朱理の家族がそうだもん。Ωの発情期と運命のつかいだけ警戒して過ごせば平和でいられる」 「そうだけど……美羽の両親の価値観が変わらないとな。いや、俺が〝絶対Ωに浮気しない〟って信じさせればいいのか」 目の前でクラスメイトの男子がサッカーボールを追って駆けまわっている。山田にボールが渡って、以前とは全然違う俊敏な動きでゴールまで一直線に向かって行くのを、隣でバドミントンをしている華ちゃんたちも興奮して盗み見ていた。 「広瀬にいろいろ言っちゃったけど、ほんと恋愛するのって大変だよなー……」 俺は昨日朱理と話してから体調が悪い。 身体の奥の疼きが炎みたいに灯ったまま消えずに、蠢き続けている。残り火ならそのうち消えるだろうと思っていたのに、朝、駅で朱理に会った瞬間、炎の大きさが明らかに変わった。 ――ごめん朱理、身体が変かもしれない。 朱理に伝えると、『そうだね』とすべてわかっているようなうなずきが返ってきた。 ――感じるよ。どうする、保健室に行く? 今日は交代しようか。 朱理が傍にいるからかもしれない、という言葉を飲みこんだ。 ――……とりあえず、午前中だけ頑張ってみていいかな。発情期がくるまでこの調子が続くなら慣れておきたいし。俺も、検証したい。 こんな日に限って晴天で、頭上には雲ひとつない抜けるような青空がひろがっている。ボールが転がるスピードと、絡まりあうクラスメイトの足の動きに目がついていかなくなって目眩がする。 朱理の怒りの影響もあるのかな。千堂がいつまでもうじうじ言っているのも苛々してきた。 こんなところで俺と話していないで、とっとと石山さんとご両親のところへ行ってきなよ。朱理ならそうするよ。好きな人を待たせるようなこともしない。哀しませて不安にさせるようなことも絶対にしない。 「あー……美羽に会いてえな。広瀬、今日すごい匂うからおまえのせいかもな。美羽が恋しいよ」 千堂が右隣で情けなげに眉をさげ、苦笑いしている。千堂はいったいなんなんだろう。たしかに朱理の言うとおりだ……αならぐずぐす泣いたりしない。αなら……――。 「広瀬……⁉」 立っていられなくなってしゃがんだら誤って膝をつき、よろけて地面に両手をついてしまった。 あ……これ、駄目かもしれない。今日、俺、駄目だったのかもしれない。 今日が、俺の初めての発情期で……Ωに、覚醒する日だったのかもしれない。……嫌だ。嘘だ。 「――紺‼」 朱理の声が聞こえる。保健室から校庭で授業している俺の姿が見える、って朱理、言ってたね。ああ、だから見守ってくれていたのかな。そう理解して見あげたら、校庭側にある保健室の扉から飛びだして、内履きのまま走って来る朱理がいた。 「朱理……っ、」 応えた瞬間、昨夜みたいに背中から虫が這いあがってくるようなぞくぞくした寒気と違和感が走り抜け、全身を覆っていった。同時に腹の底から巨大な塊に似た欲望が湧きあがってきて破裂寸前までふくれあがり、あまりの痛みに自分の身体が真っ二つに裂けるんじゃないかと危ぶんだ。 「い、っ……いた、ぃ……」 本能がふくらむ痛みに混ざって、もうひとつの強烈な刺激が首もとから発生し、その箇所から、体内にあった炎が噴射したような錯覚をした。ああぁっ、……熱いっ、……痛いっ……。 「紺――‼」 薄く瞼をひらくとうな垂れる自分の首筋を生温いものが伝って左側から地面に落ちた。……血? 「ひ、ろせ……俺、こんなことっ……」 ふりむくと、真っ白く眩しい太陽の光越しに千堂がいた。口に、真っ赤な血が――。 「あぁぁっぁああぁああああっっ――……‼」 泣き声に似た痛烈な叫び声が、まだ蒸し暑い青空と光に満ちた校庭に響き渡った。 自分の声だと思った。でも違った。 それは朱理の嘆き声だった――。 ←BACK//TOP// |