右手で胸を押さえて息を長く吐きながら心を整え、すうと吸いながら呼吸を整える。 空気を飲みこんで乾いた喉に麦茶も流し入れて潤したら、パソコン画面の向こうで朱理もペットボトルの水を飲んで「はあ」と息をついた。 ふたりして画面越しのこの遠さに焦れつつ、胸が破裂するほど痛む激情を持て余している。 「……発情を誘発するっていうのもわかる。でも朱理は俺の心も守ってくれていたんだよね」 声が引きつらないように注意しながら、冷静さを保って訊ねた。 『本能と感情は、べつだから……本能に支配されて、紺の恋愛を邪魔したくないって思ってたよ。紺には紺が選んだ人を好きになる権利があるから』 また心臓がぎりっと絞られるように痛んで、朱理に対する愛おしさで息苦しくなった。 恋しい、愛しい、嬉しい、壊れるまで抱きしめあいたい――この激しい愛情の衝動で、胸がはち切れそうになる。 愛するっていうのは痛みだ。……堪らないよ。出会った瞬間から朱理が自分を気にかけてくれていたことも、一年間ずっと俺の身体と、心まで大事に守り続けてくれていたことも。 だってそんなのもう充分すぎるほど強い愛情じゃないか。 いま朱理を抱きしめに行きたい。ありがとう、俺は朱理にこれからも愛されていたいしこれまでの感謝も愛情も返していきたいよ、と大空を満たすほど大声で叫んで号泣したい。 「すごく……すごく、朱理に会いたい。抱きしめたい」 足りなすぎる無力な言葉で、恋しさを吐きだした。 『うん……俺も紺を抱きたい。会ってなくてよかったよね。我慢してきたことが台無しになるぐらい紺のこと強引に襲っちゃいそうだから』 朱理も喉の奥で力無く笑っている。 パソコン画面に阻まれながら……あるいは守られながら、ふたりで愛しさの欲望を抑えて平静を保とうとしているのが嫌というほどわかる。 我慢しすぎて、拳を握った掌と腕の表面が震えてびりびり痺れてきた。 『紺はいま俺の匂いってわからないでしょ?』 朱理が目もとを拭って、もう一度水を飲んでから問うてくる。 「うん……わからない。朱理自身のいい匂いならわかるけどαの匂いってことだよね」 『そう。つがいになると、Ωもつがい相手のαの匂いだけ感じられるようになるらしいよ。だから、結婚したら俺がどんな匂いなのか紺も教えてね』 ――でもね、紺の匂いは、柑橘系のレモンとかオレンジとかグレープフルーツの匂いなんだよ。俺が世界でいちばん好きな匂い。 記憶に刻まれた朱理の声が聞こえる。 「……わかった。運命の相手なんだから、朱理の匂いもきっと俺が世界でいちばん好きな匂いだよね」 俺の世界にだけ咲く朱理っていう一輪の花の、俺しか知り得ない特別な香り――。 『だといいな。ちなみに紺ってどんな匂いが好きなの?』 「朱理の匂いならどんなでも好き」 頭のなかに草花や、太陽を浴びた白いシャツや、夏の陽炎や、秋の紅葉や、森林がひろがって、さまざまな香りの記憶が通り過ぎたのに、一秒にも満たない一瞬で返答していた。 朱理が目をまるめてぱちぱちまたたき、頬を赤く染めていく。 『嬉しいんだけど……ちょっと、刺激強すぎかも』 視線を横に流して困ったように唇を噛みしめる朱理をパソコン画面越しに見つめた。噛みしめて口の内側にひっぱられている下唇と、かすかに覗く白い前歯……『紺、』と俺を抱きながら呼んでくれた熱っぽい声、細く見えるのに逞しい両腕、自分の奥を満たしてくれた朱理の――。 あのとき自分たちを包んでいたおたがいの汗と、情欲の匂い。たぶんふたりして想い出している〝匂い〟が、裸で絡みあって愛欲の海を泳ぎ続けていた時間のあの匂いだ。 「……ごめんね、俺、いまものすごく朱理とセックスしたい」 『紺、はっきり言わないで。俺も我慢してるんだから』 「わかってるんだけど……堪らないんだよ。運命のつがいって絶望でしかなくて、自分がΩなのは認められても、運命のつがいのことは考えないようにしてたんだ。自分が朱理の運命でも運命じゃなくても、どっちも辛いから。一ヶ月に一度の発情期って……ふたりで乗り越えていく難題がまた増えたのもわかってる。だけど朱理が……裏庭にいる朱理のところに俺が会いに行くようになったとき、朱理が、もう俺を好きでいてくれたのかなって想像したら……無理だよ、こんなの、」 ――……本当はすごくキスしたい。 ――わかったよ。俺が紺のどこを好きか聞きたいんでしょ? 俺の傍に必ず来てくれちゃうところ。〝五十嵐は目がいいんだね〟って想いやってくれたこと。たくさんあるけど大きいのはそこらへんかな。 想い出すな、想い出すな、と焦っても数ヶ月前に心へ刻んだばかりの甘やかな記憶が次々と溢れて襲ってきてふり払えない。 心臓をふくらませてどくどく鼓動させるこの想いの熱を、塊を、沈静させるには、激しすぎる情動を朱理の身体にぶつけるほかに方法はないと思う。 「……嬉しいのと恋しいのと愛しいのとで……本当に辛くて死にそう。下半身がむずむずするような劣情とか肉欲とか……そういう性欲とは違うんだよ。射精で発散できるものでもない。とにかく朱理の背中を抱いて感触とか体温とか、朱理自身を感じて落ちつきたくてしかたないんだけど……この気持ち、伝わる?」 懸命に説明したら、朱理が両手をあわせて鼻と口を覆い、深呼吸した。 『……伝わってる。わかってるよ、俺もおなじだから』 朱理の顔の朱色が増している気がする。でもこれは照れているからじゃなくて、俺とおなじ焦燥に駆られてくれているからだと俺もわかった。 「……ありがとう朱理。一年以上も守ってくれて、本当にありがとうね。俺は運命のつがいだからじゃなくて、自分から朱理の傍へ行って、自分の心で朱理を好きになったよ。考えることはいっぱいあるけど、心も本能も、自分の全部が朱理と結ばれる生命だったことが、いまは素直に嬉しい」 Ωであることも、運命のつがいという宿命も、嫌で恐ろしくて仕方なかったすべてが、朱理を愛したことで嫌悪でも恐怖でもなくなっていった。 朱理の前向きな性格が、明るく俺を導いてくれる人柄が、どんなこともふたりで乗り越えよう、傍にいるよ、と言葉で知らしめて信頼させてくれる逞しさが、俺自身を変えてくれた。 この人との運命なら、この人との宿命なら、俺はなにもかも喜んで受けとめられる。 『……俺こそありがとう、紺。やっと言えるんだな』 朱理がうつむいてまた目もとを拭い、それから顔をあげて潤んだ瞳で微苦笑しながら続けた。 『初めて会ったときから……本当はずっと、紺のことが好きだったよ』 そのあと朱理は『昂ぶりを抑える方法を一緒に考えよう』と話題の角度をすこし変えた。 「表情と声は伝わるのに手が届かない……っていう、この状況で、昂奮をなだめる方法だね」 唾を飲みこんだら、ゴク、と音が鳴ってしまった。 『……そうだよ』 朱理も、こく、と喉を鳴らしてから再び水を飲む。 「……たぶん、ふたりで画面越しのエッチをすればいいってことでもないよね」 『ない』 ここできっぱり否定してくれる朱理だから好きだ。心の問題と本能の問題は別ものだ、とちゃんと線をひいて俺と愛を語ってくれている。ああ、もう……どうしても恋が震える。 「朱理の好きなところをいっぱい言う……のも、昂ぶる一方だね」 『うん、嬉しいけどつらい。紺の好きなところなんて言ってたら、俺はもっと興奮する』 「だよね……はあ、」 それで「身体を動かそう!」とふたりで椅子を立って、パソコン越しに向かいあった状態でラジオ体操を通しでやった。朱理が口で『ちゃんちゃちゃ』とリズムとナレーションをしてくれて、おかしくて笑っているうちに大笑い体操になり、楽しくなったうえ身体も気分もほぐれて紛れた。 「これはいいっ」 『ははは』 ふたりで部屋のなかでどすどすジャンプしたり両腕をまわしたりして全身を動かし、腹の底から笑った。 こういう提案をして、こういう幸せを時間をつくってくれる朱理だから堪らなく好きだ、と結局、恋しさが増す結論にたどり着くんだけど、でも悶々としていた愛しさの塊は心地よく霧散した。 『……わかる? 紺』 体操が終わってまた水分をとっていると、優しく意志的な声で朱理が話しかけてくれた。 『一ヶ月に一度の発情期はたしかに大変かもしれない。でも紺が抑制剤を飲めばフェロモンも抑えられるし、ふたりで本能をなだめるのが難しい時期は、俺が実家にでも一時帰宅して、こうやってパソコンとスマホで話しながら一緒にいられるよ。なんにも怖くない』 朱理の瞳も、強くきらめいて愛情を訴えてくれている。 『俺はたまに別荘かどこかで紺とふたりでこもって、抱きあってもいいと思ってる。夏のお盆休みとか正月休みとかさ。長期連休にあわせて半年に一度程度ならおたがい気兼ねなくセックスに溺れられるんじゃないかな。αとΩのつがい同士のセックスは本能が解放されて強烈な昂奮状態になるらしいけど、俺は紺と、本能と感情が絶頂まで達するようなセックスもしたいよ。……紺とだから、そこへいってみたい』 心が震えて、麦茶の入ったグラスを机に置く指先も不安定に揺らいだ。涙が、我慢しなくちゃ、と律した心とはうらはらに、左目からはらりと落ちていく。 「うん……ありがとう。俺も朱理とおなじ気持ちでいるよ。朱理となら……どんなところにも、どこまででもいきたい」 ――「運命のつがい・魂のつがい」は端的に言うと、本能の相性がもっともいいαとΩです。 ブログにあった冒頭の一文に、読んだ瞬間は憎しみと絶望を煽られた。 〝相性がいい〟……? ふざけるな、後に続く文章のどこにも幸せな真実などないじゃないか、と憤って嘆いた。綺麗な言葉をつかってごまかすなよ、と苛立ちも感じていたかもしれない。だけど朱理は『紺とだから、そこへいってみたい』と、幸福な、ふたりだけが行ける天国や楽園みたいな言いかたをして、微笑んでくれている。 でも本当にそうなんだろうね。 αとΩで、しかも運命のつがいだからこそ到達できる本能と愛情の最果て。出会うことすら稀だと言われている俺たちは奇跡的に巡り会って、いまここにいるから、そこを目指すことができる。 この人生で、この命で、最愛の人と、ほかの人たちが一生たどり着くことのできないような幸福の場所へ行けるんだ。 幸せだと思わないのはあまりにも傲慢で贅沢だ。 「本能も、愛情も……翻弄されてふりまわされる悪質なものじゃなくて、朱理となら巧くコントロールして打ち勝てるんだって、また思えた」 涙を拭って、俺も朱理に笑いかけた。この涙は幸せの涙だ。 『うん。……紺とはやく結婚して、つがいになりたいな』 朱理も目をとじて肩を強張らせながら力み、はあ、と激情を吐きだすみたいに息をつく。 『……駄目だね、完全に勉強の気分がすっ飛んだ。しばらく雑談して、夕飯食べに行こっか』 「ははは、うん、そうしよ」 そしてそこからふたり共バース性の話は深く掘り下げないように、『ラジオ体操って第二もあるよね』「え、どんなの?」と他愛ない会話をして心を落ちつかせつつ、幸せな時間を過ごして夜を迎えた。 パソコン画面越しだと、隣にいるとき以上に朱理を正面から凝視することになる。 水を飲む喉仏も、ラムネを口に何個放りこんだかも、困った顔も、子どもっぽく笑う顔も、全部の変化を照れることなく見つめられる。これは嬉しい。 「……朱理。運命のつがいってこともわかったし、俺もなるべくはやく朱理のご両親に挨拶したいんだけど、バース性検査より先に挨拶するのはやっぱり先走りすぎかな」 そろそろ夕飯に行く時間だな、と察して、切りだしてみた。 『とりあえず、紺がΩとして覚醒していないいまは、ビデオ通話がいちばん安全だとは思うけど、うちの両親にどんな話がしたいの?』 「俺が朱理とおつきあいしていて、おまけに運命のつがいで、結婚も考えている相手だってことと、あと高校生になったときから辛い思いをさせてきたのも謝りたい」 『そうか、うん、相談してみる。でも運命のつがいっていうのは俺、言ってるからね?』 「え」 『前に紺のこと両親にいろいろ教えてるって言ったでしょ? バース性って体調にも関わることだから、両親にも砂賀先生にも〝運命だと思う〟〝つきあい始めた〟〝結婚したい〟ってじつは高一のときから流れで全部伝えてるんだよね。言わざるを得なかった、というか』 そ……それもそうか。いま初めて伝える事実ってわけではなくて、朱理にとってはαとして親にも主治医にも相談してしかるべきことだったんだ。当然と言えば当然だ。 「うん、それなら俺は、ちゃんと朱理を自分の感情で好きになって、結婚を考えていますって伝えるよ。俺も朱理と生きる人生を考えているってご挨拶するのは大事だと思う」 朱理が頬を揺らして『ふふぅ……』と嬉しそうに笑ってくれた。 『わかった。学校生活にも将来にも影響があって……もう本当にただの恋愛ごっこじゃないもんね。おたがいの家族とも絆を深めて、支えあえる環境をつくっていこう』 「うん」 『じゃあ夕飯食べて準備しようか。俺ビデオ通話繋ぎっぱなしにしておくよ。夕飯済ませたら戻ってくるから声かけて』 「わかりました」 ふたりで顔を見あわせて、うん、とうなずきあう。 それからいったん離れて、おたがい夕飯を食べて再び落ちあったのが三十分後だった。 俺がノートパソコンを持って階段をおりながら移動しているときに、朱理が戻ってきた。 『あ、紺? いま夕飯食べてきたよ、動いてるの?』 「ふふ、そう。俺の部屋だと狭いからリビングにパソコン運んでるよ。両親も緊張して待ってる」 『緊張してくれてるんだ』 「だねー……うちの親はなんだかんだでαのこと〝上の人間〟って畏怖の念みたいなの持ってるし、母さんは近所にあるストームiのスーパーが大好きだからね。火曜と水曜の安売りは絶対行って、ポイントもめちゃくちゃ貯めてて」 『はは、お世話になっています』 「母さん、父さんの恋の敵だったからαの人を毛嫌いしてたみたいだけど、朱理のことは俺の恋人として大事に想ってくれてるんだよ」 『そうか……』 一階におりて、いよいよダイニングの横にあるリビングへ入る。ソファにはすでに父さんと母さんが並んで、姿勢よくぴしりと座って待っている。 「ふたり共、そんなにかたくならないで」 夕飯を食べていたときからこうだ。俺は苦笑いになりながら父さんが中心になるよう左横に座り、正面のテーブルにノートパソコンを置いて朱理とむかいあうかたちに調整した。 『こんばんは、改めまして五十嵐朱理です。今夜はパソコン画面越しのご挨拶になってしまって、大変申し訳ございません。お時間いただき心から感謝いたします』 朱理が先に頭をさげて、綺麗に渦を巻くつむじと、笑顔を見せてくれた。 「とんでもないです、こんばんは朱理君」 「紺の父親です。……初めまして」 そわそわしたようすの母さんに反して、父さんはどことなくかたく無口だった。 『お母さまとは先日、別荘へ行くときご挨拶させていただきましたよね。お父さまとは初めまして、ぼくが紺君とおつきあいをさせていただいている五十嵐朱理です。熱海では紺君とかけがえのない時間を分かちあうことができました。一週間も一緒に過ごすことを許してくださいまして、本当にありがとうございました』 ビデオ通話の場合、こっちに複数人いると朱理の視線が誰を捉えているのかすこしわかりづらい。けどいまのは完璧に父さんにむけて発言していたのに、父さんは押し黙ってしまった。 「……あ、うん、こちらこそありがとうね、朱理君。紺ったら高級なブランド牛をおみやげにもらったからって、わたしたちにもふるまってくれたの。前は料理なんてしない子だったのに、朱理君の影響なのかな? 作ってくれた牛肉のご飯もとっても美味しかったよ」 『食べきれなかった分を紺君が持ち帰ってくれたんです。むしろ助かりました。美味しく召しあがっていただけたならぼくも嬉しいです』 フォローしてくれたのは母さんだった。朱理は笑顔を絶やさず、きさくに会話を続けている。 俺の両親を前にしても物怖じしない。朱理が俺に抱いてくれている愛情の深さも感じるけれど、この度胸というか、肝の据わった態度は、ストームiを支える一族のひとりとして生まれて、大勢の大人たちと接してきた経験や慣れもあるんだろうと思わせた。 父さんの態度はなんだろう。……息子を婿にやる父親の複雑さ、なのかな。盗み見る横顔も緊張と嫌悪? のようなもので強張って、かたまっている。 『――今日お父さまとお母さまにお時間を頂戴したのは、紺君とのおつきあいについてお伝えしておきたいことがあったからです』 「はい……」と母さんが相づちを打つ。 『紺君からお話もあったかと思いますが、ぼくはαで、紺君はおそらくΩです。そして間違いなく運命のつがいでもあります。バース性の本能と感情は別もので、ぼくたちはおたがいの心で恋愛をして結ばれました。結婚の約束もしてふたりで将来のことを考えています。ですが、いまバース性が定まっていく時期でふたり共身体が不安定です。もちろん充分に注意してこうしてビデオ通話を利用したりしながら関係を深めてはいますが、紺君がΩとして発症して発情期を迎えたとき、もしかしたらぼくは、状況と症状の重さ次第で自制しきれずに紺君を無理矢理つがいにしてしまうかもしれません。その説明と謝罪を、先にしておきたかったんです』 朱理が、別荘で過ごしたあとの俺たちの身体の変化や、検証結果をもとにしたいま現在の状態を父さんと母さんに詳しく伝えてくれる。 そのうえで、どれだけ俺と朱理が距離をおいて慎重につきあったり、朱理が自制してくれたりしたとしても、不測の事態が起こりかねない、と真剣に話してくれた。 『バース性検査にブレがある人、とくにΩの場合は、初めて発情期を迎えて発症したとき広範囲に一瞬で強烈なフェロモンを発することもあるそうなんです。ぼくはすでに紺君の感情の変化にも影響を受けるほど、本能でも惹きつけられています。結婚をする前にうなじを噛むような、非常識なことはしたくないと思っていますが、ぼくも発情状態になったら自制心と理性をどこまで保てるか、お恥ずかしながらわかりません。もしつがいになってもその責任は果たします。生涯かけて紺君を愛して、守り抜くと誓いますので、どうかお許しください』 また頭をさげて誓いと謝罪を口にしてくれた朱理を見つめた。 ――ちょっとプール入って頭冷やしてくるよ。紺は先にシャワー浴びて、汗流して綺麗にして。 別荘で朱理が発情状態に陥りそうになって、必死に耐え抜いてくれた姿が脳裏を過った。 太陽の照るプールの真んなかで、仰向けに浮かんで小舟のように漂っていた儚くて尊い姿も。 「父さん、母さん。俺も朱理となら、いつつがいになってもかまわないと思ってるよ。朱理が俺に不本意なことをしようとしてるわけじゃない。バース性のせいで夫夫になるのがはやまってしまう可能性があるだけだから。こうやって挨拶してくれた朱理のこと、受け容れてほしい。お願いします」 俺も頭をさげて請うた。俺たちは恋に浮かれて戯れ言を吐いているわけではない。ふたりで愛しあって生きていく覚悟があることを、両親に真摯に伝えられたことも嬉しく思う。 「――うちの紺が、悪いっていうことですか」 なのに、頭の上に降ってきた父さんの厳しい声に耳を疑った。 え、と息を詰めて顔をあげると、父さんが右横でパソコンの向こうにいる朱理を睨んでいる。 『……。バース性は、善い悪いで語れることではないとぼくは思っています。この世界に生まれた自分たちが一生むきあっていかなければいけない心身の問題です。だからいま、ぼくたちはひとつの可能性についてふたりで導きだした道を、お父さまとお母さまにお伝えしているんです。それと信じてください。ぼくは紺君のバース性も、それに伴う症状も、なにも責めません。そんな無駄なことに感情と時間を浪費したりはしません。バース性もすべて含めて紺君を愛しています』 朱理の淀みない返答を聞いて、父さんの唇が震えだした。 「将来を誓うって立派なことを言っても、きみもまだご両親に頼って生きている十代の学生だろ。結婚、結婚とはしゃいでいるけど、その金は? きみの家柄的に、結婚式もしないわけにいかないんじゃないか。きみのご両親か、もしくは国からもらうΩ補助金でどうにかしようと考えているのかな。きみひとりの力でなにがどこまでできるって言うんだ。αだろうと、結局は無力な子どもに違いないだろう」 朱理は眉毛ひとつ動かさない。 『結婚をする時期は紺君と自分の身体の状態で判断したいと思っています。来年は受験生ですし、高校を卒業してもおたがい大学進学を希望しているので学生生活は続きます。でもバース性の本能を抑えるには限界があるからです。できれば高校を卒業と同時に籍を入れて、ふたりで暮らしていきたい。結婚式はおたがい社会人になってからでもかまわないと考えています。うちはα家系で、生まれたときからαとしての生きかたを教えられてきました。お正月に親族その他からいただいたお年玉や、教育も兼ねてまかせてもらったストームiグループの仕事の給与などを、両親の教えに従って全額貯金しています。おかげで、金銭面でも絶対紺君に不自由はさせないと断言できます。愛する人と歩んでいく新しい人生を、借金から始めるつもりは毛頭ありません』 「こちらにはなんの準備もない。紺がΩになったことも青天の霹靂なんだ。おまけに十代で御曹司のαと結婚するなんて想像もしていなかったんです。しかし現実となったら、一円も出さずに婿にやることはできません」 父さんの声音はやや攻撃的だった。 父さんの右横で母さんも口を結び、じっと父さんと、朱理を見守っている。 『〝αは他人を幸せにする使命を持って生まれたんだ〟と、ぼくは両親に教育されて育ちました。実際は社会でもバース性でも我慢を強いられることの多い立場です。でも、人を憎むより愛せ、というのが両親の教えです。ぼくは愛する相手がどんなバース性でも、支えあえる人間になるために成長してきたんです』 「……だから金銭面も気にするな、って言うのかい」 『愛情深い両親の価値観を受け継いでいるぼくにとって、紺君との結婚を望むのはαであるぼくの我が儘だと感じている――そう言いたいんです。すぐにでも紺君につがいになってもらったほうが、ぼくは心と身体の健康と安全を保てます。このときのために貯えてきたお金を、ぼく自身がつかうのは当然のことです。もしお父さまとお母さまや、紺君の矜恃を傷つけてしまうのでしたら、今後ぼくたちが困ったときの援助をお願いします。長い夫夫生活、なにが起きるかわかりません。今回のようにバース性に翻弄されて、自分たちでは乗り越えられず、ご両親に助けを求める事故や病気に襲われる可能性もあります。結婚は始まりにすぎませんから』 朱理がいま一度、深く頭をさげた。 『ぼくはストームiグループを支えていく人間でαです。その肩書きに恥じないよう育ててくれた両親を尊敬し、感謝しています。ですがまだ経験不足で未熟な学生でしかない、それが現実です。ぼくたちが懸命に愛しあって生きていく姿を見守りながら、力不足な部分は経験も知識もある皆さまに支えていただきたいんです。どうかよろしくお願いいたします』 知らないあいだに唾液が薄れて、喉が痛いぐらい乾いていたから麦茶を飲んで息をついた。 「……朱理。籍だけ入れるっていうのは想像してたけど、貯金のことは俺もいま初めて聞いたよ」 『うん、ごめんねいきなり言って』 「ううん。朱理のことだから考えがあるんだろうとは思ってた。でも俺もまだバース性と大学受験を乗り越えるので頭も心もいっぱいで追いついてなかったよ。お金のことも含めて結婚についてはまた話しながら詰めていこう。俺たちの将来をリアルに見据えてくれていて、ありがとう朱理」 朱理の表情が和らいで、笑顔をひろげてくれた。母さんも朱理の笑顔を見て、ほっと緊張をほどき、胸を撫でおろしたのが伝わってきた。 「――父さん。父さんの心配はお金のことだけで、朱理と俺が結婚をすることも、朱理が結婚前に俺を噛んでしまう可能性があることも、受け容れてくれたってことでいいんだよね?」 朱理と対峙したら、あからさまに嫌悪や拒絶を示すのは母さんじゃないかと予想していた。 父さんは穏和で争いを好まないタイプだし、俺が朱理と別荘に行きたいと告げたときもお小遣いを持たせて見送ってくれたから、てっきり応援してくれているものと信じていたんだ。 だけどいままた、口をひき結んでうつむき加減に朱理の視線から逃げ、沈黙してしまった。 ――Ω性の子って、高校二年生の夏休みが終わると急に大人びて、別人みたいになるんだよね。母さんの親友もそうだったよ。母さんの親友で、父さんが好きだった子。 ――さすがにいまは高校生のころの恋愛で云々言ったりしないよ。だけど想い出してはいるだろうね……。 父さんを挟んで母さんに視線をむけると、思考がぴったり一致したみたいに目があった。 母さんが鼻からため息を、ふう……、と抜かして、こくりとうなずく。 「……景君」 母さんは父さんの名前を叱りつけるような声で呼んだ。初めて聞く呼びかたで、それはたぶん、学生時代に口慣れたものなんだろうと察せられた。 十七歳の……父さんと母さんが高校生だったころの時間が、いまここにある。 「……。やっぱり敵わないな」 消え入りそうな小声だったけど、父さんの諦念がたしかに聞こえた。 朱理とうちの家族との話しあいは一時間ほど続いた。 父さんは一変して平素の穏和で温かな父親に戻り、朱理と俺がどんな人生を生きようと守るために尽力してくれること、結婚や夫夫生活についても支えてくれることを約束してくれたし、母さんも同意してくれた。 俺の将来を想って積み立ててくれていた貯えはあるそうだ。でも家柄が違いすぎるから結婚については朱理のご両親とも話したい、こちらも挨拶させてほしい、と申しでてくれた。 話しあいが終わると、朱理とも喜びあって、俺は『ありがとう朱理』とお礼も伝えた。 そして一夜明けて母さんと顔をあわせたら、母さんもいたたまれないようすで謝罪をくれた。 『たぶん〝Ωと結婚を決めた十七歳のα〟に個人的な私怨があるんだと思う。不快な思いをさせてごめんね』と謝罪もして、朱理は『全然いいよ』とまったく気にするようすもなく笑顔で納得してくれた。 「……ごめんね、昨日。父さんやっぱりちょっとひきずってたね。朱理君に謝っておいてね」 母さんの横顔が淋しげに見える。 「母さんは大丈夫……? ひきずってる、なんて見せつけられてショックだったよね」 顔を覗きこんで心配したら、苦笑いになって右手で口もとを押さえた。 「いいの。父さんを生涯傍で支え続けられるのが幸せ、って母さん、昔決めたから。それよりいま大事なのは紺と朱理君の人生でしょ。今日も身体に気をつけて、ふたり共幸せに過ごすんだよ」 ぱん、と軽く背中を叩いて活を入れられた。 「ン、わかった。気をつけて行ってくる」 ペットボトルの水をふたつリュックに詰めて、母さんに頭をさげて家を出た。 βの父さんと母さん。父さんが失恋したΩの子と、その子と早々に結婚したαの人。 朱理と自分。 ――バース性は、善い悪いで語れることではないとぼくは思っています。 この世界にはいろんな幸不幸を抱えた人たちが生きている。俺はαとΩじゃなくても朱理を好きになっただろう。でもバース性がある世界で朱理と出会えたから精神面が鍛えられて、急速に成長できたのも事実だ。善い悪いじゃない。むきあって、戦い続けていくしかない。 『朱理、いま電車に乗ったよ。二十分ぐらいで着く』 これまで朱理と過ごした時間や、昨日の話しあいのやりとりを反芻しながら電車に揺られて朱理のもとへ向かった。 『俺も十五分ぐらいで着く。またおにぎり屋さんのところで待ってるね』 メッセージで会話をしているだけでも朱理が恋しくてしかたなかった。 本能が朱理を求めて疼き始めたのか、それとも単なる感情の昂ぶりなのかわからない。 「――紺!」 電車を降りても今日は朱理と電話を繋がずに改札を通った。 心臓がどくどく鼓動して、心臓のまわりの胸もとも、両腕も、顔も、朱理への愛おしさで熱して、全身が興奮して朱理を欲しているのがわかる。だけどもうそれでいい。 朱理が人混みの向こうで、自分だけを視線の先に捉えて、両腕をひろげて佇んでいる。 左側から斜めにおりる太陽光が、朱理の右半身と、白い掌を輝かせているのも見える。 いつものように先に見つけてくれた。 自分が抑えようもなく朱理を想って、自分のすべてで愛おしんでいるのも自覚している。 ――……俺こそありがとう、紺。やっと言えるんだな。 「朱理、」 ――初めて会ったときから……本当はずっと、紺のことが好きだったよ。 自分も両腕をひろげて、正面にいる朱理を視線で捕まえたまままっすぐ駆け寄って抱きしめた。 「朱理っ……」 骨張っていて初々しいけど、しっかりと逞しい朱理の身体。羽のかたちの肩甲骨。綺麗に並んだ背骨。朱理の甘やかな匂いと、自分と触れあってどんどん熱くなっていく体温――。 昨日からずっとこうしたかった。 どれだけフェロモンを発してもいい、いま発情期がきてもいい、朱理が噛んでくれるなら、いまここでつがいになれるなら、それでもいい。 ふたりして激しくそう想っているのがわかる。朱理も俺を潰れるほど息苦しく両腕で縛りあげて、抱きしめておなじ想いを全身で叫んでくれているのがわかる。――わかる。 ←BACK//TOP//NEXT→ |