【「運命のつがい・魂のつがい」は端的に言うと、本能の相性がもっともいいαとΩです。 運命のつがいのふたりが出会うと、αは常にΩが発するフェロモンを察知します。 普段Ωが発しているフェロモンに発情成分は薄く、Ωの発情期とその前後に発情成分が濃く現れ、おたがいを本能的に強く求めるようになります。 運命のつがいのαとΩには一ヶ月に一度、一週間から十日間の発情期が訪れます。 運命のつがいであるふたりがほかのαないしはΩとつがうことも可能です。 Ωには後頸部に繁殖腺があり、αがそこを噛んで唾液に含まれるα性液をΩの体内に取り込ませることでつがいになります。つがいになるとΩは半日から一日かけてつがい相手のαだけにフェロモンを発し、本能をなだめあえる体質に変化します。 Ωは運命のつがい以外のαとつがうと、運命のつがいであるαを求める本能も失います。 しかしαはいかなる場合でも、運命のつがいであるΩのフェロモンを感じ続けます。 運命のつがい間で反応するのは繁殖本能のみで、個人の感情に影響はありません。 運命のつがいが複数人存在するαとΩもいます。 一方で、運命のつがいの存在が不明のまま生涯を終えるαとΩも大勢います。】 ――……。広瀬。 裏庭で、いつも真っ先に俺を見つけてくれた朱理を憶えている。 駅で待ちあわせるときも、先に名前を呼んで手を振ってくれるのは朱理だ。 ――知ってるよ〝紺〟。 ――あー……広瀬って偉いよな。そういう輪にちゃんと参加できる。 ――広瀬の身長って可愛いよな。 二年生になってからおなじクラスの隣の席になって急に距離が近くなったものの会話らしい会話などしたこともなかったし、朱理は教室に来なかったのに、なぜか俺のことを知っていてくれた。 ――紺は駄目だよ、カップ麺はあまり栄養ないから。とろろ昆布と鮭いくらじゃ許可できない。 それに俺の身体のことも気にかけて、いつも心配してくれている。 ――だけどね、でも……俺、……Ωかもしれないんだ。 ――え。 バース性をうち明けたときは驚いたようすだった。あれってどういう驚きだったんだ……? ――俺もまだ話せてないことはたくさんあるよ。けどすこしずつ伝えていくし紺に嘘をついたりはしないから信じてて。 話せていないたくさんのこと――それは朱理の生い立ちや家族や会社のことだと思っていた。 もしかしたらそこにおたがいの……バース性の、もっとも厄介な真実も含まれていたんじゃ。 【運命のつがいのふたりが出会うと、αは常にΩが発するフェロモンを察知します。】 【運命のつがいのαとΩには一ヶ月に一度、一週間から十日間の発情期が訪れます。】 【Ωは運命のつがい以外のαとつがうと、運命のつがいであるαを求める本能も失います。 しかしαはいかなる場合でも、運命のつがいであるΩのフェロモンを感じ続けます。】 パソコンに表示しているブログの運命のつがいの項目を再び読んで、背筋にぞっと悪寒が走ったときだった。右側のスマホスタンドに置いていたスマホが鳴ってメッセージが表示された。 『いま帰ったよ、ただいま。紺、パソコンたちあげてる? ビデオ通話してもいい?』 朱理だ。手に取って二度読んで、麦茶を飲んでからゆっくり呼吸する。 大丈夫だ。 狼狽えるな。 ――ねえ紺。生きていれば、俺たちにも何度も、困難とか問題が降りかかってくると思う。けどそれは〝ふたりで絆を深めるためのありがたい壁〟って考えない? 朱理と決めたことだ。 どんな困難も自分たちのために必要なものだ、と感謝して乗り越える。 ――あとね、いまからわざと紺に酷いことを言うよ、聞いててね。――なにかが起きるたびに、紺が自分のせい、自分が嫌い、自分が悪い、って哀しむのが、俺は苛々する。 朱理が心を痛めながら俺に厳しい言葉を告げて、鼓舞してくれたのも忘れない。 ここでまた右往左往したり、立ち止まったり、逃げだしたりは、もうしない。 『おかえり朱理。いまビデオ通話もオンラインにしてるよ。体調は大丈夫? 心配だから顔を見せてほしいよ』 メッセージの返事をするとすぐにビデオ通話アプリのリストのなかで朱理もオンラインになった。そしてコール音が鳴り始めて、俺が応答したのと同時に繋がった。 『ただいま紺』 ビデオ通話の窓がひらいて、数時間前まで見せてくれていた、いつもの朗らかで幸せそうな朱理の笑顔がうつしだされる。 「おかえり朱理。元気そうでほっとした。画面越しだと微妙だけど……顔色も悪くないよね?」 『うん、ないよ。紺がくれた水も飲んで水分切らさなかったし、帰りは運転手呼んでさくっと家に送り届けてもらったから』 街を歩くだけでΩのフェロモンにあてられてしまうαで、いまちょうど俺のせいで体調も悪くて……こういうとき、呼べば迎えに来てくれる運転手がいるっていうのは安心だ。 「身体はどうだった? 砂賀先生に検証結果伝えた?」 『伝えた。とりあえず紺といてもカメたちにご飯をあげて九十分話す程度なら平気だったことと、新しい薬が効いたことを報告したよ。それで夏休み後半、午前中だけ学校に通う許可はもらえた。もちろんなにかあればすぐに助けを求めろって言われたし、二学期の生活は、俺と紺のバース性が確定して身体が落ちつくまで慎重にしろってまた厳しく指導されたけど』 「うん……わかるよ。朱理か俺が保健室で過ごすっていう生活だよね」 『そう。でも、』 「けどさ、」 急いてしまっておたがいの発言がぶつかり、ふたりして画面の前で目をまるめて顔を見あわせ、苦笑いになってしまった。 「……ごめん、朱理が先に話していいよ」 『いや、紺の言いたいこと聞くよ、どうぞ』 いやいや、どうぞどうぞ、とやりあっても仕方ないので、ふたりでくすくす苦笑いしたあと「じゃあ言うね」と軽く頭をさげて俺から発言させてもらう。 「たいしたことじゃないんだよ。短時間でも一緒にいられるんなら朝と昼のご飯はこれまでどおりふたりで食べようって誘いたかっただけ。裏庭は風も吹いててフェロモンもちょこっと薄れるよね。二学期になっても暑すぎて裏庭が厳しかったら俺が保健室に行くし」 『ははは』と朱理が右手で額を押さえて下唇を噛みながら笑いだした。 『……それ、いままるっきりおんなじこと言おうとしたんだよ俺。ふくくっ……嬉しいし、なんか照れる』 そんなこと言われたら、こっちまで照れてしまう。 「考えることおなじだったか」 『ン……でもわかるよ、一日中傍にいるのが無理でも食事の時間ぐらい一緒にいたいよね』 「うん、いたい。とくに朱理と朝おにぎり食べる時間は、俺にとって特別だから」 母さんに遠慮して、友だちにも周囲にも言いたいことを我慢して、どこにいても波風立てず平凡で平和な真んなかに佇んでいられればいいや、と無難に生きていた。それが幸せだと自分に言い聞かせながら、息苦しさにもがいていた。 あの幼く流されるだけの自分の手を朱理が引っ張りあげて、自分らしく生きる幸せを教えてくれるようになった、始まりのひととき。 朝はやく登校して、裏庭で花壇の花々とカメたちに囲まれながら朱理とおにぎりを食べる時間は、一生大事にしていくであろう宝物の時間でもある。忘れられるはずもないし、消してしまいたくもない。できれば重ね続けていきたい。 『紺にとって特別な時間は、俺にとっても特別でかけがえのないものなんだよ。……好きな人を朝ご飯に誘ったのなんて初めてだったしね。大人の一歩でもあったなあ……』 ……好きな人。 「あのときはまだ恋愛感情までなかったでしょ?」 『ん~……? そんなことないよ』 朱理は右手で頬杖をついていたずらっぽく含み笑いをしている。薄く細めた綺麗な薄茶色の瞳が、愛しさを揺らめかせてにじんでいる。 ふたりで朝ご飯を食べるようになったのは画像系SNSに登録したあとで、たしかに夜空の星々と共に〝紺、紺〟と、すでに呼びかけてくれていた。でもじゃあ、朱理って本当のところいつから、どれぐらい本気で、俺との恋に落ちてくれていたんだろう。 『ところで紺は?』 「え」 『俺の心配ばっかりしてくれてるけど、紺もフェロモンを嗅ぎつけたαに襲われそうになったりしてない? 大丈夫?』 はたと我に返った。 「そういえばそうだ、自分のことすっかり忘れてた。一応危険な目には遭ってないよ」 『よかった。ちょっと近づけば紺の匂いには気づくはずだから、αのほうが機転を利かせて逃げてる可能性も高いね。大丈夫そうなら安心した』 右手で後頭部を掻いて、ああ、どうして忘れていたんだろうっ、と自分に憤りつつ反省する。 朱理のことで頭がいっぱいだった、っていうのは言い訳だ。 朱理以外のαにも迷惑をかける不安定な状態だ、ってちゃんと自覚しておかなくちゃいけないのに、危機意識がすっぽ抜けてフェロモンを垂れ流しながら街を闊歩していた、最低だ。 「俺甘えてた。αは紳士であれ、って責める人たちを酷いって思ってるくせに、その価値観に甘えて生活してたよ。自分がαの人たち全員に迷惑な奴だ、って自覚して行動するね」 朱理が頬杖を解いて机の上に両腕を組み、小さく首を傾げて微笑んでくれている。 『……紺、マーキングって知ってる?』 「え……? なに?」 『ふふ』と朱理は喉で苦笑する。 『紺は俺と抱きあって、俺の痕を身体中に染みこませているから、ほかのαにはあまりいい匂いに感じられないんだよ』 「え、痕って……?」 『唾液とか精液だね。中出しをしていなくても、紺が口から俺の体液を吸収した時点でほかのαには紺のフェロモンが異臭に変わってるの』 驚愕して、一瞬頭が真っ白になった。 「い……異臭ってことは……俺、柑橘系じゃなくて、ワキガみたいになってるってことっ?」 悩んでいる人にはもちろんとても申しわけないけど、その場合って、俺は手術でも治せない異臭人間ってことじゃないのか……? だとしたら結構ショックだよ。 『うーん……たとえば担々麺ってあるでしょ?』 「担々麺っ?」 『あれってベースのスープはごまと鶏ガラとしょうゆとかで作るいい匂いなのに、豆板醤のところはツンってするじゃん。あんな感じって言えばいいのかな』 「担々麺……」 『紺の柑橘系の匂いは残ってるんだよ。でも俺以外のαには刺激臭も混ざって香っているから尻尾巻いて逃げたくなるわけ。じつはそうやって、俺も紺を守ってるんだ』 担々麺だったら文句なくいい匂いじゃないか……。朱理が言葉を選んでくれる優しい人なばかりに、どれほどの異臭なのか判然としないものの、〝俺も紺を守ってる〟という想いは胸に響いた。 「……ありがとう朱理。子どものころから学校でもバース性教育は受けてきて、ちゃんと学んでるつもりでいたのに、実際こうして身近になって初めて知ることもたくさんあって恥ずかしいよ」 『そんなの当然のことでしょ。自分で体感して、自分だけのバース性の症状も知って向きあって、受けとめていくんだから。恥ずかしがることじゃないよ』 「……うん」 『さて、じゃあおたがいの無事も確認したことだし次は受験勉強しようか。二時間ぐらい勉強して、夕飯食べて、落ちついたら紺のご両親と話させて』 朱理が机の横に置いていたのであろうリュックからテキストをだして、丁寧に机にひろげていく。腕を伸ばして机の上のペン立てからシャープペンも取り、かちかちと芯を出す音も続いた。 「――朱理」 自分の声が深刻に響いた。 朱理も動物が反応するみたいにぴくと敏感に異変を察知し、手を止めて視線をむけてくれる。 『……なに? ほかにもなにか不安なことあった?』 俺は自分の不安定なバース性を……この身体を、朱理の聡明さや有能さに救われているんだ、とまた噛みしめた。 愛した相手が朱理でなければ、自分自身をこんなふうに好きになったりしなかった。 Ωであることもコンプレックスのあった胸なんかも、許すことも受け容れることも、きっと一生できなかったと思う。 短期間で自分自身を見つめ、受けとめ、バース性や宿命と向きあっていく意志を持てるほど成長できたのは、朱理が俺を想いながら守り続けて、俺にも人を愛することや、守りたいと想う感情を教えてくれたからに違いない。 この出会いは運命だ、と確信した。その想いも決して嘘じゃない。 「……俺は本当に無知で、いつも朱理に導いてもらっているよね。Ωだ、ってことも夏休み前まで怖くてしかたなかったのに、朱理が温かい言葉で愛情をこめて支えてくれたおかげで、いまはどうやってΩとして、αの朱理と幸せに生きていくかってことで頭も心もいっぱいだよ」 パソコン画面の向こうで朱理が真剣な表情になり、無言でこくりと相づちをくれる。 「だけどまだわかっていなかったのかもしれない。だからひとつだけ訊かせて。――俺たちって、運命のつがいなのかな」 液晶画面越しでも、朱理の薄茶色の瞳の奥に一瞬動揺が走ったのが見てとれた。でもすぐに目尻が下がってやわらかく緊張がほどけてゆき、観念したような、それでもどこか幸せそうな微苦笑に変わった。 『……そうか。紺もそこにたどり着いたんだね』 ふう、と息を吐きつつ右手からシャープペンを放し、しずかに目をとじる。 気持ちを整えるように深呼吸をくり返したあと、再び目をひらいた朱理が綺麗な瞳で微笑んで俺を見つめた。 『このことは会えたときに話したかったな。……でもしかたないね。面と向かって話したらもっと気持ちが昂ぶりそうだし、ちょっと残念な状況だけど聞いてくれる』 俺も朱理の目を見つめ返して無言でうなずいた。朱理の優しい声音のおかげで、自分の心がもうすでに勇気づけられて、軽くなっている、と気づく。 『去年の春の入学式で体育館に集まったとき紺の匂いに気づいたよ。俺は一組、紺は三組で、一応ひとクラス分の距離があったし、座っていた場所もかなり遠かったのに、はっきり感じた。最初は紺だってわからなくて、発情しそうな子がいるのかなってそれとなく捜してたんだよね。でも結構な広範囲に匂いを放っていることと、匂いのなかに発情成分が薄いってことしか察知できなくて……式が終わって退場するとき、紺の傍を通りすぎた瞬間に気がついた。あ、この子だ、って』 そういえば入学式は名字の順番で並んで椅子に座ったから〝広瀬〟の俺は真ん中よりややうしろのほうにいた。〝五十嵐〟の朱理は前方から俺のいる後方へ向かって退場していって、それでフェロモンの中心にいる俺に気づいた……ってことか。 『あの入学式の一瞬の接触で、自分と紺は運命のつがいなのかもしれない、って予感したんだよ。すぐ砂賀先生にも報告した。そうしたら先生も「運命の相手である可能性は高いね」って驚いてた。……人間って世界中に何十億っているでしょう。当然運命の相手もおなじ国の、おなじ地域に住んでいることって奇跡に近い偶然で、実際は出会うことすら難しいらしいんだよね。だから縁矢兄ちゃんに続いて俺もなのかって自分でも驚いた。正直な気持ちを言うと嫌悪感と恐怖心もあったよ。縁矢兄ちゃんみたいに自分の感情や人生を狂わされて苦しむのが嫌だった』 相づちを打ちつつ朱理の視線から逃げたくなって、眼球にぐっと力を入れ、思いとどまった。 逃げなかった朱理の前で、俺が逃げるのは違う。 『幸い、運命のつがいだったとしても感情は関係ないから。紺には紺の人生と恋愛があるだろうし、俺もいままでどおり自分の人生を生きようと思ったよ。俺が近づかなければ紺まで運命の相手だって気づくこともないしね。けど俺はちょっとでも傍にいれば紺がいるってわかるから、つい意識がひっぱられちゃって。結局、目で追ってたんだ』 朱理が右手の人さし指で鼻の下をこすり、視線を横に流して懐かしむように苦笑する。 『……校庭で体育の授業をしていれば〝広瀬だ〟って眺めていて、学食でも〝あ、またいる。へえ、昼は友だちと食堂で食べてるんだ〟ってなるし、下校中の駅でも〝家、こっち方面なのか〟ってなって……ストーカーみたいで嫌だったから葛藤もしたんだよ? ふふ。……でもそれで、友だちとしゃべっているときの表情も、他人と接するときの態度とか距離感もわかるようになっていった。俺、たまに図書室で勉強してたんだけど、紺もいたでしょ?』 「あ……うん。一年のころは図書委員をやってたから、当番がくると受けつけにいたよ」 内申書のためになにかやっておけ、と担任にうながされて、渋々引き受けたんだ。 『だよね。紺がいるときは避けるようにしてたのに、時々図書委員の仕事をしてる姿も見てたよ。先輩の教えを素直に聞いて、笑顔で受けつけ対応をこなして、当たり障りない穏やかさで溶けこみながらも自己主張がない。善くも悪くも穏和で目立たない紺のこと』 う、と詰まってしまった。 「……印象、悪いじゃないですか」 朱理が『はは』と眉をゆがめて笑ってくれる。 『そうなのかな。俺はそういう紺だから余計気になったんだよ。心の奥で本当はなにを考えているんだろう、なにを思っているんだろう、って。まわりにあわせて巧みに輪の一員になって、歩調をあわせて……そうやって器用に生きられる紺が、どういう人間なのか奥深くまで知りたくなった。でもいつの間にか、博愛主義の優しい子でも、本当は他人嫌いだって悩んでいる子でも、どっちも魅力的だって考えてたんだよね。それってもう好意を持ち始めてる証拠でしょ』 ……体育の授業のとき、お昼休憩のとき、下校するとき、図書委員の仕事をしているとき、あと廊下ですれ違うだけの他愛ない瞬間だってきっと……朱理は、俺を気にかけてくれていたんだ。 好きでも嫌いでもないまま学生生活の日々を漂って、平凡な真ん中でいいと諦めてぼんやり命をすり減らすだけだった俺を、朱理は見守って、心を寄せ続けてくれていた。 『でも恋愛を始めたいとか、一歩進むような気持ちは無い、あやふやな状態で二年生に進級して、おなじクラスの隣の席になっちゃったんだよね。俺が傍にいたら、バース性が定まっていない紺の発情を誘発してしまう恐れがあった。だから俺は教室で授業を受けるのをやめたんだ』 俺も目をとじて呼吸を飲みこんでから、いま一度朱理を見つめ返した。 「……俺と、運命のつがいだったことが原因だったんだね」 朱理の学校生活を乱して、危機感を持って行動させていたのは俺自身だった。 すこし前だったら自分を責めて落ちこんで、Ωである自分もバース性があるこの世界も、運命も、すべてを憎んで恨んで鬱ぎこんでいっただろう。でもいまはもうそんな暗い感情に苛まれないし、己の殻にとじこもったりせず、朱理の薄茶色の瞳の奥にある愛情を見つめて、こう言える。 「ありがとう朱理。ずっと……俺が、自分自身のことすらなにも知らないでのうのうと生きていたころからずっと、守っていてくれて」 届かない左手を伸ばしてパソコンの画面に近づけた。 「いま、すごく……どうしようもなく朱理に触りたいよ」 抱きしめて抱きしめてもらって、朱理の肩に顔を埋めて朱理の背中を力をこめて引き寄せて抱き潰して体温を感じあって、おたがいの腕でおたがいを縛りあげて想いを叩きつけあいたい。 『……俺もおなじだよ紺』 朱理も右手を伸ばして、画面のほうへやんわりあわせてくれる。 こんなやわい抱擁じゃ……届かない無力な抱擁じゃ全然まったく足りない。満たされない。 本能じゃなく、心の欲望が求めあうままにいますぐ朱理とかたく強く結ばれあいたかった。 「朱理っ……」 ←BACK//TOP//NEXT→ |