最後の夜は朱理とべつの部屋で眠ることにした。

「……意識がぼやけてたけど、紺のことを抱きすぎて傷つけたことも知ってるよ。……ごめんね。最終日に一緒に寝られないって本当に淋しい。でもおたがいのために離れておこう」

「うん……わかった」

 朱理がゆずってくれて俺は寝室で、朱理は隣の客室で、と納得してふたりでうなずきあう。

 部屋を隔てる一枚の壁が、自分たちにとってとても重たい、人生に立ちはだかる壁に思えた。

「……あとね紺。俺は明日青渡兄ちゃんが迎えに来てくれて、紺を家に送ったあと病院に行く」

 朱理がまた俺の右手を握りしめて、微笑みかけてくれる。

「子どものころからお世話になってる主治医がいて、ここに来る前から、東京に帰る日は行くって決めてたんだよ」

 朱理の手を、俺も握り返して目を見つめた。

 ――……大丈夫だよ。別荘の近くには懇意にしているお医者さんもいるから、なにかあっても紺のこと守るよ。

 俺が発症する可能性を秘めていることも、自分が別荘で俺と一週間恋人として過ごせば、体調をどう崩すかも……朱理は最初からすべて理解していて、覚悟したうえで俺を誘ってくれたんだ。

「……。わかった」

 そうだよね。朱理は俺よりもずっと先の未来を見据えて、心を決めて行動しているんだよね。

 繋ぎあった手を朱理が口もとに持ちあげて、俺の右手の甲に唇をつける。

「……自分を責めたり、罪悪感に襲われて俺から逃げたりしないでね。それを俺が望んでないって、紺はもう知ってるでしょ。……何度も話しあってきたけど、バース性って厄介だよね。厄介だから、俺は紺と一緒にいたい。辛いのも苦しいのも半分こにして、ふたりで乗り越えていきたい。だから病院に行くことも伝えてるんだよ。わかってね」

 俺も朱理がくちづけてくれた自分の右手で朱理の左手をひいて、手の甲を甘噛みした。

「……わかった。それが朱理の幸せになれる道なんだよね」

 涙を堪えて奥歯を噛みつつ、朱理の手を舐める。

「そうだよ。……でも紺にも、ちゃんと幸せって想ってほしいんだけど、大丈夫?」

 胸が詰まって心臓が痛くとも、息を止めて必死に堪えて、うんうん、と二度うなずいた。

「……俺のために、……ふたりのために、辛いのを我慢してくれてる朱理の気持ちを無下にしたりしない。いま朱理の苦しみ、俺のなかにもある。半分こになってるよ」

 朱理がまたほっとしたように、ふわっと頬をほころばせて笑う。

「よかった……」

「でも朱理……薬飲んでくれてたこと、俺に黙ってたね」

 え、と目をまるめた朱理を見返しつつ、鞄のほうを指さして「さっき見ちゃったんだよ」と白状した。

「主治医がいるのに、どうして市販の薬なの……? 先生にはどこまで正確に伝えてるの?」

 朱理の身体をよく知る医者がいるのならきちんと支えてもらいたい。いくらαの本能への対処が世界的に適当だからって、市販の抑制剤よりは病院でもらえる抑制剤のほうが効力もあるだろう。違うのかな。

「……ごめん、病院でもらったのは飲んじゃったんだよ」

「え。一週間分? いつ? それオーバードーズに、」

「大丈夫、本当にごめん、ごめんなさいっ」

 朱理が深々と頭をさげて、うぅっ、と唸る。

「……紺と一緒に笑っていたくて無理しましたごめんなさい。明日ちゃんと診てもらってきます」

 長身の朱理が俺の胸の下あたりまで頭をさげて、じっとかたまって肩を強張らせている。

 ……バース性とかおたがいの将来とか、毎日のように真剣に語りあっていたし、結構俺からそういう話を持ちかけていた。朱理がうち明けられなかったのはきっと俺が言いづらい空気をつくっていたせいだ。楽しく幸せな時間を与え続けてくれた朱理を、俺が責めるのも違う。

「わかった。……俺も、朱理に言わせてあげられなくてごめんね。こうなると俺も明日の病院につきそいたくて仕方ないんだけど……それも、やめたほうがいいのかな」

 朱理ひとりに苦しい思いをさせて、黙って背負わせた責任は俺にもある。

 先生にも〝俺が相手です、悪いんです〟と頭をさげに行きたいけど、Ωの俺が傍にいること自体、いまはよくないんじゃないか。

「ン……そうだね。先生にはいずれ紹介するよ。帰ったら紺にも連絡するから、家で荷解しながらゆっくり待ってて」

「……わかった。ちゃんと診てもらってきてね。夏休み後半も、また学校で会えるように」

「うん、もちろんだよ」

 笑顔を見せてくれる朱理の、口角があがってふくらんだ頬を触りたい。でも手が動かない。

「……いまは本当に無理してない? なにか食べたいとか、怠いとか、そういうのない?」

「ン、平気。薬のおかげで落ちついてる。紺は? 身体に違和感ない?」

「うん、俺はないよ。朱理にも俺の変化って、わからないのかな……?」

 フェロモンを嗅ぎ分けられるαのほうがΩの発情期を敏感に感じとれるはずなのに、朱理でも、俺の変化って察知できないんだろうか。

「……ごめんね。紺の匂いはずっと香り続けていて、俺にはもう濃さも強さも判別できないんだ。抱きあったあとはとくに……激しくて」

「そっか……」

 だとしたらやっぱり、気軽に近づいたり触ったりするのも憚られる。

「俺こそごめんね朱理。今日はゆっくり休もう」

「……うん。でもなにかあったら呼んでね、飛んで行くから」

 顔を見あわせて苦笑いを交わし、名残惜しむように手を強く握りあって、一瞬だけのキスをしてから廊下へ出て隣の客室へ行く朱理を見送った。

 一室一室がひろいから、隣室と言えど数メートル距離がある。見送る俺を、朱理は照れた表情で楽しそうに笑って見返しつつ、何度も手をふって、のろのろ歩いて、ドアの前へ向かった。

「おやすみ紺。明日の朝そっちに行くから、朝焼けの写真一緒に撮ろうね」

 そしてそう言ってドアをひらき、もう一度手をふってから入っていった。

 ……一緒に別荘まで来たのに、最後の夜に別々の部屋で過ごさなければいけないなんて。

 うな垂れて沈んで、自分もドアをしめて戻ろうとしたときだった。奥でスマホが鳴っている。

 時刻はすでに夜の十一時過ぎだ。家への電話も済ませたから連絡してくる人など思いつかない。

 訝しみつつ、ベッド横のソファセットのテーブルに置いていたスマホをとったら……朱理だ。

『紺、でるの遅い』

 ビデオ通話で『ふふはは』とさっきまで目の前で見せてくれていた笑顔をひろげている。

『朝まで電話を繋ぎっぱなしにしておこう。眠っても繋いでおいて、先に起きたほうが声をかけて起こすの』

「え、繋ぎっぱなし?」

 一応ネットの無料通話アプリだから料金は気にせず話せるけど……。

『電話越しなら紺の匂いでくらくらすることもないよ、残念だけど』

 朱理はいたずらっぽく笑ってから、ベッドへ横になってタオルケットを身体にかける。ティッシュの箱かなにかでスマホを立てて、自分の顔をこちらに向けてくれた。

「わかった」

 俺もうなずいてベッドへ移動し、急いでタオルケットに包まってクッションにスマホを立てかけ、液晶画面越しに朱理とむかいあう。一緒に眠っているときとおなじ角度で朱理が目の前にいる。

 一緒に眠っているときとおなじ角度で、朱理が目の前にいる。

『ふたりで寝てるときの景色だね』

 朱理もおなじことを想ってくれていたみたいで、照れて『ふふふ』と可愛らしく笑った。

「……朱理と眠れて嬉しいよ」

 朱理のことが、やっぱりすごく好きだな……、と、何度となく、今日もまた想い知った。

 こんなに愛おしく想える人と出会えた人生を生きられて、俺は本当に幸せだ。

『俺も紺と眠れて嬉しい。……ずっと、いつだって傍にいるよ』

 左手の指を伸ばしてスマホ画面越しの朱理に近づける。触れたら消えてしまうから数ミリ手前で我慢する。でも、触れられなくても体温を届けあえなくても、朱理がいて自分がいて、おたがいに想いあっている心には触れられる。感じられる。

「……俺が将来のこととか、朱理にいろいろ相談しちゃったの、ごめんね。朱理は自分が辛かったこと、俺に言いづらかったよね」

 さっきごめんと想ったことを、きちんと言葉にして伝えた。

 朱理がスマホ画面のなかでも綺麗な薄茶色の瞳を細くにじませて、はにかんでくれている。

『謝ることじゃないでしょ。紺が相談してくれたのは大事なことばかりだったよ。俺が言わなかったのは意気地なしだったからで、紺を信じなかったせいとも言える。そこは責めていいんだよ』

 ……意気地なし。

「責めるわけない。けど体調を崩したら、黙って無理しないでほしい」

『うん。ふたりで長く生きていくなら身体のことも大事だよね。これからはちゃんと言うね』

 スピーカー経由ですこし音がこもっていても、朱理の声は変わらず綺麗で、胸に温かく響く。

「……最初からそう。俺、両親にも友だちにも言えないこと、朱理には言えるよ。朱理には秘密も我慢もない。だから結婚も、朱理とならしたいと思えるんだよ。でも甘えすぎてたらごめんね」

『やめてよ、紺も変わらないでね。俺は甘えてもらうの大歓迎だから。いまみたいになんでも話しあえるの、俺も嬉しいって想ってる。紺としか結婚できないって、俺も想ってるんだよ』

 朱理が照れつつも焦っているから、「ふはは」と俺も照れ笑いになってしまった。

「うん……変わらない。内緒事もつくらないよ。朱理にだけは」

 朱理も幸せそうに微笑んで『……うん』とうなずいてくれる。

『俺もまだ話せてないことはたくさんあるよ。けどすこしずつ伝えていくし、紺に嘘をついたりはしないから信じてて』

 それから朱理が仰向けの体勢になって、こちらに横顔をむけた。

『これはまだ紺に話してなかったけどね……Ωの人の香りってそれぞれ違うんだよ。柔軟剤みたいに花っぽかったり石けんっぽかったりもすれば、ファストフード店の揚げたてフライドポテトとか、カツ丼屋のとんかつとか、そっち系のいい匂いもある』

「えぇ、料理系っ? お腹減ってるときにそんな匂い漂わせられたら堪ったもんじゃないねっ」

『はははははっ、そうなの、ほんとたまんないっ……ふふはははっ』

 たまに電車やバスやエレベーター内でファストフード店の袋を持って匂いを放ってる人がいて、自分も含めて周囲が悶絶しているときがある。

 あんな地獄をαは日々耐えているっていうの⁉

「いま初めて、本当にαの生々しい辛さを知ったよ……」

 朱理が『ひはははっ、』とお腹を抱えて笑って、スマホが倒れた。

 笑いごとじゃないよ。朱理の過酷な毎日が胸に迫ってこっちまで辛くなるじゃないか……。

『はあ、はあ~、おかしい……――でもね、紺の匂いは、柑橘系のレモンとかオレンジとかグレープフルーツの匂いなんだよ。俺が世界でいちばん好きな匂い』

 柑橘系……。

「そうなの? ポテトとかとんかつとか、A5ランクのステーキとかじゃない……?」

 スマホをもとに戻した朱理が、また『ぶふふっ』と吹いてから画面の向こうで頭をふる。

『ない。料理の匂いももちろん好きだけど、柑橘系って安心するんだよね。すうって身体のなかにすんなり入ってきて浸透して、心まで落ちつかせてくれる。だから紺の匂いは、本当はいくらでも嗅いでいたいんだよ』

 あ。……そうか。朱理が言いたかったのは、伝えようとしてくれていたのは、この告白だったのか。

 紺の匂いは厄介じゃないよ、どれだけ強く漂っていても不愉快じゃないから心配しないで、と。

 そう教えて、俺を安心させようとしてくれていたんだね。

「……ありがとう朱理。俺も朱理が好きな匂いのΩに生まれてこられて嬉しいよ」

『ううん……たぶん相性も関係してるのかもしれないよね、この匂いの違いって』

 相性か……。

「たとえば、下倉さんってどんな匂いだったのか訊いてもいい……?」

『うん、全然いいよ。下倉さんもとくに怒らないと思うし』

 朱理が顔だけこちらにむけてにっこり笑う。

『下倉さんはお花だったね。さっき言ってたみたいな柔軟剤っぽいやわらかい匂い』

「そうなんだ、イメージにぴったりあう」

『そうそう、人柄にあってると思うよ』

 下倉さんは清潔感があるんだよね。清潔で、正義感も強くて、綺麗で格好いい。

「人柄とあうなら、ポテトとかとんかつの人って食べることが好きな人だったりするのかな」

『はは』と朱理がまた笑う。

『あたり。そうなんだよ、美味しそうな匂いの人と直接会話すると、食べものブログを毎日うきうき更新してるような人だったりね。そんなこともあったな』

「そっか……食べるの好きって健康的でいいよね。でも本人がポテトとかとんかつの匂いをさせて、周囲のみんなにも食べられそうになってるって、厄介だね……。俺ですらポテトの匂いでくらくらすることあるよ? 学校帰りの電車内でポテト持ってる人の傍にいたせいで、帰りに自分もファストフード店で買い食いして欲望をなだめたことなんて何回もある」

『ポテトのΩの人が自分の匂いを知ったら、〝自分も嗅ぎたいっ〟ってなるかもしれないよね』

「え、なるかな……? 三ヶ月おきとはいえ四六時中ポテトの匂いを嗅いでたら、俺、毎食ファストフードになりそうだよ、やっぱり厄介だよ」

『ははははっ』

 俺もαだったらポテトの人に噛みつきたくなるかもしれないな……、と戦々恐々としながら想像した。

『……紺のこと噛みたくて仕方なくなったときはレモンを囓ればいいかもしれないな。酸っぱさで目も覚めるだろうし』

 スマホから、耳もとで囁くような朱理の優しい声がこぼれてくる。

「もし本当に必要ならグレープフルーツにしてよ、酸っぱいけど甘みもあるから」

『でもレモンを囓って食べる人っているよ。がぶっといっても美味しいんだって』

「朱理が好きならいいけど、気絶するほど酸っぱかったらどうするの。無茶はやめてね?」

 俺は心配しているのに、朱理は嬉しそうに『ふふ~……』と笑ってばかりいる。

『じゃあいつか一緒に食べてみよう』

「レモン?」

『うん。どれだけ酸っぱいか、本当に食べるのが難しいか、実験してみよう。ふたりで』

 今度は俺も朱理につられて「ふふふ」と笑っていた。

「わかった。自分が体験して知るっていうのも大事だよね。朱理とする実験なら俺も楽しみ」

 どんな困難も痛みも、半分こ。朱理と歩む道なら楽しい、朱理とこうやって生きていきたい、と強く感じ入った。

 スマホ越しの、こんな幸せまで朱理は教えてくれた。

 寂しくなるはずだった夜が、哀しくも孤独でもない。

 一週間毎日ふたりきりでいたのに、朱理といると話したいことが絶えず浮かんでくるのも不思議だった。朱理の傍にいたいと、この人と生きていきたいと想うと、聞いてほしいことも教えてほしいことも次から次へと溢れていく。

 眠ろう、って切りだすのは朱理だろうか。俺だろうか。

 小さな画面のなかで笑っている薄茶色の瞳をした恋人を、消してしまわないようにそっとすこしだけ触れてみる――。



 翌朝、『おはよう紺』と声をかけて起こしてくれたのは朱理だった。
 ふたりでプールへ移動して、屋上から朝焼けの写真を撮り、にやけながら一緒に綺麗に加工してSNSに投稿した。

 それから朝食を食べて、朱理には薬も飲んでもらい、お腹が落ちつくと部屋の掃除をした。

 管理を委託している業者さんがまた掃除に来てくれる、とのことだったけど、一昨日から朱理とちょっとずつ掃除を始めて、最終日はベッドとキッチンと冷蔵庫の整理だけにしておいたんだ。

 かなり頑張って食べたにもかかわらずいくらか残ってしまった食材は分けっこして、A5ランクの冷凍牛肉ももらってしまった。

 そして午後に来てくれた青渡さんの車に荷物を積んで、寂しさを残しつつ別荘をあとにした。

 さすがに夏休みだけあって渋滞に巻きこまれてしまい、頻繁にサービスエリアに寄り道して休憩しながらおみやげも買っていたせいで、東京へ帰るまで四時間近くかかった。

 だけどそんな帰り道もとても楽しかったし、朱理も、俺が傍にいても狂うほど体調を崩したりせずほっとした。

「大丈夫?」と訊いても「うん、平気だよ」と健やかな笑顔でこたえてくれる。

 もう嘘はつかない、体調の変化も正直に言う、と約束を結んでいたから、俺も朱理の言葉と笑顔をそのまま信じて、一緒に笑いあうことができた。

「……青渡さん、このあと朱理が病院に行くことも聞いています。すみません。どうぞ朱理のことよろしくお願いいたします」

 家に着いて車をおり、荷物も全部運び終えると、そう言って青渡さんに頭をさげた。

 青渡さんは一瞬瞠目したあと「ふっ」と小さく笑って、うなずいてくれた。

「……わかりました。朱理にも連絡させるから安心して待っててね」

「はい、待ちます」

 朱理もずっと、隣で幸せそうに笑ってくれている。

「大丈夫だよ、すぐ連絡するからね。ご家族でお肉食べて、一週間の報告しながら待ってて」

「うん、A5ランクのね。母さんも父さんもものすごく感動すると思うよ」

 ははは、と笑いあって、昨日みたいに両手を繋ぎあい、おたがいの顔を愛おしく見つめた。

「……連絡待ってるね。辛くても、どんなことも、ちゃんと教えてね」

「うん、わかってる」

 そうして再び車に乗って助手席の窓から顔をだし、手をふってくれながら青渡さんと病院へ向かって行く笑顔の朱理を、俺も大きく手をふって見送ったのだった。






















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