出発前は、もしかしたら俺がΩに覚醒して発情期に襲われ、朱理に迷惑をかけるかも、と怯えていたのに、覚醒しなくても、セックスをしたあと朱理はどんどん弱っていった。

 たまに朱理の双眸の奥が獣みたいに揺らぐ。ふぅ、ふぅ、と不自然に呼吸を乱して、必死に俺の首もとから距離をおき、背後からうなじを目の前にして抱くような体位は絶対にさける。

「……朱理、大丈夫?」

 何度身体を重ねても、欲望が満たされるどころか渇きが増すようで、でも止めることもできず、ひたすら俺に縋りついてくる。

「……うん、っ……」

 朱理が正気を取り戻すには、無理矢理にでもおたがいが身体を離すしかなかった。

 達して俺から性器を抜きだしたあと、ぐったりうな垂れた朱理がゆるゆるとベッドに腕をついて身体を起こし、床に足をつけて離れていく。

「朱理、」

 俺もすぐにカーディガンを羽織って肌を隠した。
 朱理が気の毒で見ていられない。

 目眩を起こしているのかよろめきながら歩いて、怠そうに洗面所へ行く朱理を追いかける。

「……大丈夫?」

 朱理は水道から水をだして力まかせに顔にかけ、ざぶざぶ洗った。

「うん……平気、大丈夫だよ」

 朱理の前髪と顔から、水がぼたぼたこぼれて滴っていく。顔も背中も、撫でて抱きしめたいのに触れていいのかわからない。

「……ごめんね、朱理だけ辛い思いさせてるね。懇意にしてるっていう病院、行こうか?」

「ううん……いいんだよ。ちょっとプール入って頭冷やしてくるよ。紺は先にシャワー浴びて、汗流して綺麗にして」

 朱理の額に水だけじゃなくて、汗も噴きだしていることに気がついた。

 俺が生々しい匂いを漂わせていたら辛いんだ、と察してはっとする。

「わかった、すぐシャワー浴びるね」

「ン……」

 急いでカーディガンを放って隣にある浴室へこもり、シャワーから湯をだして全身にかけた。

 朱理が残してくれた唾液も、汗も、自分から溢れた液も、ボディソープで擦って消して洗い流さなければいけないのが淋しい。

「いっ、……」

 セックスをしすぎたのか、窄まり部分にボディソープが染みて、がくっと膝が崩れそうになった。血がでているんだろうか。正面の鏡にうつる、強張った表情をした自分と目があう。……怖くて傷をたしかめられない。

 朱理と繋がりあうな、と神さまのような得体のしれない力にまで睨まれているみたいで辛い。

 朱理の気配も、洗面台のほうでもう一度顔を洗ってから消えていった。

 プールに着く前に倒れないか、意識を失って溺れていないか、心配で不安で気が気じゃない。

 数分で身体を清めて風呂をでると、服をきちんと身につけてバスタオル片手にプールへ急いだ。

 朱理はきらきら太陽光を弾くプールの水の真んなかで、仰向けに浮かんで、眠るようにして漂っていた。

 心臓の鼓動も鎮まって見える。呼吸もやっと整って、正常に戻り始めている。

 声をかけるのも、触れるのとおなじような危機感を覚えてできなかった。

 セミの声と絡まるように、ビーチベッドにあるスマホからミリコの歌声が流れて響いている。

 夏の真っ白い太陽と水の銀色の輝きのなかで揺れている朱理が、美しく霞んでいる。

 瞼を細めて目映い朱理を見つめ、俺も脱力して茫然とプールサイドにしゃがんだ。

 ふんわりと浮かぶ朱理の顔や胸やお腹の周囲だけ透明な水に浸って、小舟みたいに揺れている。黒い髪も後頭部のところが水のなかで踊っている。

 ひぐらしが高い声でちりり、りりり、と鳴いていた。

 朱理の鼻先についた水滴が、揺らぐたびに強く光を放って眩しい。

 いま、このまま、時間を止めてふたりでここにいたい――朱理が辛いのに、なぜかそう想った。

 朱理との幸せが、バース性のせいで壊れ始めているって感じるのは俺だけだろうか。〝いま〟のこの別荘での非現実的な時間が……まだ俺のバース性が確定していない〝いま〟が、いちばん幸福な時間に感じられる。

 気のせいかな、朱理。朱理……。



 日が暮れてプールからあがると、朱理もようやく落ちついたようすだった。

 ふたりでキッチンに立って夕飯を作る。けど俺は肌を晒さないように服を着込んで、朱理と距離をおいて過ごした。

 俺はキッチンのスペースで野菜を切る係で、朱理はコンロの前で炒める係。

 夜に庭で花火をするときも、朱理は別荘の近く、俺は庭の広場の真んなか。

 そんなふうに、一メートル以上は離れておく。

 朱理が俺の態度に違和感を覚えないはずもない。

 朱理の笑顔が曇って傷ついているのを察知すると、俺も哀しくなって笑顔が引きつった。

「――……紺、そんなに逃げないでよ」

 噴水花火に火をつけて俺の右隣に戻ってきた朱理が、寂しげな声音で言った。

 逃げる、という言葉が、胸に刺さって痛い。

「……うん、逃げてるわけじゃないよ」

 こたえたら、噴水花火の根もとまで火が到達して、ぼっ、と音をあげ、しゅしゅしゅ、と叫びながら黄色い光のシャワーを噴きだし始めた。

 綺麗、と感動しながらも、心は泣いている。

「……俺のせいで、検査する前からΩだって……思い知るの怖い?」

 朱理が俺のほうへ顔をむけたのがわかった。
 同時に、俺も朱理を見返していた。

「違うよ。そんなのはもういい。自分がΩなのは……もういい。ただ、俺がΩだったせいで、朱理に辛い思いをさせるのが嫌なんだよ」

 花火の光を受けて、朱理の左側の瞳と頬が、金色に輝いていた。その光がふわりと細くにじんで、幸せそうな笑顔に変わる。

「……よかった」

 よかった。

 なんで。……どうして?

「紺がまた自分のことを怖がったり嫌ったりしてるんじゃないならよかった」

 光のなかで朗らかに、嬉しそうに愛らしく微笑んでくれている。

「朱理、そんなの駄、」

「駄目じゃないよ。俺の本能が紺に反応するのは、紺と幸せになれる証拠なんだから」

 幸せに、なれる証拠……?

「おたがいだけに発情する……つがいになれるから、って意味?」

「そう、正解!」

 ひひ、といたずらっぽく照れて笑って可愛らしく小首を傾げた朱理が、左手を俺に伸ばして小指同士を搦めあわせた。

「……ごめんね紺。紺はいつだっていちばんに俺のことを想いやってくれるから、俺が辛い顔してると紺も辛くさせるよね。見せたくなかったんだよな……これだけは」

「朱理……」

 辛いことをからりと明るく、ずいぶんと遠い過去の出来事みたいに聞かせてくれる朱理の優しさが、俺は苦しい。

 この苦しみと痛みはたったいま起きていることなんだよ。

 これが始まりで、これからずっと続いていくことなんだよ朱理。

 なのにどうして笑ってくれるの。〝よかった〟って言って、Ωの俺を――すべての元凶の俺を、愛してくれるの。

「はやく結婚したいよねー……そうしたらもっと幸せになれるんだから」

 ……そうだね。
 朱理にいま感じさせている本能の渇きや飢えは、結婚をしてつがいになればいくらか満たしてあげられるのかもしれない。でも三ヶ月おきに、こんなふうに獣に変わって意識を飛ばして狂って、朝も昼も夜もなく本能だけに支配されるんだよ。

 それを抑えることは、αにはできないんだよ。
 αだけは……それができない。

「朱理は……発情期はどう乗り越えるつもりでいるの」

 俺も朱理を見つめて小指を強く搦ませ、意を決して訊ねてみた。

 噴水花火がふしゅしゅ……、と小さくなって消えてしまう。

 朱理は花火の光が消えた薄闇のなかで、瞳をくるりと輝かせてまるめた。

「え。発情期がきたら紺といまみたいに楽しい休暇を過ごすつもりでいるけど、紺は嫌なのかな」

 予想どおりのこたえが返ってきて、朱理をまっすぐ見あげた。

「いま、って、〝いま〟だよね。別荘にいる、この夏休みの一週間のこと」

「そうだよ。言ったでしょ、うちの会社は……っていうかストームiグループは、発情期休暇が悪、っていう遅れた意識を排除してる。だから紺に発情期がきたら俺も休んで、こうやって幸せな休暇をエンジョイしようって、わくわくしてるよ。……駄目だった?」

 朱理がするりと小指を離してまた噴水花火のところへ走って行き、ふたつ並べて着火すると笑顔で戻ってきた。

 今度は小指だけじゃなく、掌をしっかりと繋ぎあわせて、ぎゅと握ってくれる。

「……紺はいつもみたいに俺を心配して、休暇のこと悩んでくれてたの?」

 優しい声で、朱理がまた俺を幸せなところへ導こうとしてくれている。それはわかる。

 わかるけど。

「朱理のご両親やお兄さんたちは……Ωの人に休暇をとってもらったほうが、仕事に集中できる。だから発情期休暇を推奨してるんでしょう。でも朱理は俺といたら仕事に支障がでるんだよ」

「紺、」

「大学もそう。高校卒業して結婚するのは俺も嬉しいし、朱理のためになるだろうって思う。このままつきあっていくなら、苦しみしか生まないこんなセックスをし続けるわけにいかないのもわかる。でも一緒にいれば、朱理の勉強や仕事の足をひっぱるんだよ、俺。……そんなの駄目でしょ。発情期休暇も、トップに立つであろう朱理が休んでばかりいられるのかな。いくら推奨してたって朱理がいなくなるのは社員もさすがに腹を立てるでしょう。定期的に休んでセックスに明け暮れて、大事なときにいてくれないトップに誰がついていくの」

 朱理も俺に身体をむけて、真剣な表情になった。

「じゃあ俺は、在宅でできる仕事を、」

「ほら、そうなる。……朱理は頭の回転がはやいから一瞬でべつの道を探しあてて、おたがいを安心させようとしてくれるよね。そういうところも好きだし尊敬してるよ。でも朱理がストームiを離れたり、俺のためになにかを失ったり、犠牲にしたりするのは違う。俺の望むことじゃない」

 朱理からなにも奪いたくない。この笑顔を壊したくない。朱理が好きだから嫌だ。

 自分から言いだしたことだし、なにもかも自分がΩなせいなんだから泣くのも駄目だとわかっているのに、涙を我慢すると唇が震えた。

 朱理が俺の左手も繋ぎあわせて身体を寄せ、額をそっとくっつけて目をとじる。

「……わかるよ。俺は大好きな紺が尊敬してくれるぐらい、頭がよくて有能な恋人だからわかる。紺も俺を愛していて、別れたくないと想ってくれているから泣いてるんでしょう……?」

 まだ我慢できていたのに、朱理が、泣いている、と言ってくれたら目から一気に涙が溢れだして顔いっぱいにひろがってしまった。

 抱きしめたいのに、自分が抱きしめていいのかわからなくて、朱理を苦しめないか不安で怖くて、どうしようもないから朱理の両掌を俺も強くきつく握り返した。

「朱理っ、……」

 全部朱理の言うとおりだ。愛してる、別れたくない。でも神さまが、運命が別れろって言ってる気がする。見えない力で俺たちをそっちへひっぱっている気がする。だから怖い。すごく怖いよ。

「朱理と……いたい、朱理と、離れたくないっ……」

「……うん」

「Ωで……Ωで、ごめんね、……βなら、よかったのにっ……」

 本能なんてない場所で。
 おたがいの心だけで、愛しあえたらよかったのに。

 俺は生きているだけで愛しい人をこんなに苦しめて、大事な家族との絆や人生まで狂わせようとしている。

 しかも元凶の自分が罰を受けるならまだしも、こっちは薬で正常に生きられるのに、朱理だけを精神も人生も狂わせるんだから堪ったもんじゃない。……ああ、これが罰なのか。

 これがΩの受ける制裁なのか。

「紺」

 きっとまた俺が無意識に発するフェロモンにあてられて、繁殖本能が燃え始めて辛いだろうに、朱理は俺を両腕で抱きしめてくれた。

「俺も紺と離れたくない。紺と離れない人生を選択するのを、失うとか犠牲とか、そんなふうには思わないよ。俺は紺が大事なんだよ。俺の人生から紺がいなくなるほうが絶望する。俺は有能だって言ってるでしょ? 運だってある。だから勉強も仕事も、紺の傍で完璧にこなしてみせるから。紺が安心できる関係と環境をつくるから。一緒に見てて」

 αはΩを守るために有能に生まれて育つのよ――だとしたら俺は、Ωの俺は、αの朱理のためになにができるんだろう。なにをすればいいんだろう。

「……どんなときも、俺は、朱理が幸せになれる道を選ぶ」

 抱きしめてくれる朱理を、抱き返すことができなかった。目眩を起こしてふらついて、プールに逃げて小舟みたいに浮かぶ朱理を二度と見たくなかったから。

 かわりに、朱理の逞しくて長い腕に抱かれながら、自分の肌に浸透してくる朱理の優しい体温をしっかりと受けとめた。そうしながら泣いた。

 結婚するにも、子どもを産んで育てていくにも、俺たちはやっぱりまだ幼すぎる。こんなふうにバース性にふりまわされて、受け容れることもなじむことも、打ち勝つこともできないんだから。

 だけどこの一週間で愛しあうことは学んだ。

 朱理と自分が、強く想いあっていることも、朱理の愛しい人柄も、充分に知ることができた。

「……もう明日は東京だよ。あっという間だったね。でも最後も大事な話ができてよかった。またふたりで何度も来ようね。いずれ大人になったら、この別荘を買い取らせてもらおうかな。それで紺とふたりだけの大事な場所にするんだよ」

 目をひらくと、二日目に朱理と撮ったのに似た紺色の星空が、視界いっぱいにひろがっていた。涙の海に揺らいで、星々がじわりとにじんでいる。

「……知っておいて、紺。俺が幸せになれる道には、紺が絶対に必要なんだよ」

 また戻ってきたい。
 この幸せだった一週間に。

 恐れることはあってもそれらをすべて朱理と一緒に見つめあってなだめあって、愛しあいながら幸せを探りつつ過ごすことのできた夢のような日々だった。

 けれど来年おたがいがαとΩに覚醒していたら、この一週間とおなじ時間を過ごすのは不可能だ。本能のせいでどうしようもなくおたがいを求めあって、抱きあわずにはいられないのに、朱理だけうなじを噛むのを耐えて飢え続けるわけで、こんなににこにこ、無邪気に笑っていられるはずないから。

 俺の身体にも、哀しいけど限界がある。……お尻、薬塗っても痛いよ。

 あとね、さっきプールから寝室に戻ったとき見たよ。チャックのひらいた朱理の鞄のなかに市販のα用の抑制剤があって、百個入りの錠剤の、半分以上が減っていたの。

 ここに来る前から、俺と夏期講習に通ってくれていたころから、朱理はずっと辛かったんでしょう? でもあの薬も、いまはもう効いていないんだよね……?

 そもそもαの市販の抑制剤なんて、安い頭痛薬より効果がないって聞くよ朱理。

 俺も朱理ほど頭はよくないけど、知ってるんだよ、朱理……。

「朱理……愛してる」

 朱理が見せてくれた紺色の星空を、涙越しに眺めながら朱理の体温を受けとめ続けた。

 愛してるのにどうすればいいのかわからない。
 俺はどうすれば朱理を幸せにできるんだろう。

「……俺も愛してる紺。学校のカメたちにもはやく会いたいね。ふたり共元気かなあ……」




















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