終業式も終えて夏休みに入った。

「――紺」

 最初に裏庭で会うようになったころからだけど、朱理はいつも俺を先に見つけてくれる。

 待ちあわせの駅で右手をあげて、ひらひらふりながら満面の笑顔を咲かせてくれる朱理。

 大きな駅だから人も大勢いて、忙しなく往き来しているのに、俺も朱理の声と笑顔だけは、ほかの誰とも違う光を感じて惹き寄せられる。視界に朱理だけが溢れてピントが合い、まわりのすべてがぼやけてしまう。

 五年、十年経って大人になっても、絶対に忘れない光景なんだろうな、って毎日思う。

「朱理、こんにちは」

 俺たちが申し込んだ夏期講習は午後の一時から五時の四時間、二週間コースだ。

 学校のカメたちの世話は朱理が交渉してくれた結果、熱海旅行から帰ったあとの八月中旬から夏休み終わりまで担当することになった。

「ふふ、紺が毎日〝こんにちは〟って言ってくれるところ、好きだよ」

「嬉しいけど、ほかに挨拶がないだけだよ。〝お疲れ〟っていうもの変だし」

「そうだね、これから〝お疲れ〟に行くんだもんね」

 ふたりで他愛ない話をして笑って、塾があるこの駅にもおにぎり専門店があるから、買ってから移動する。

 夏期講習が始まってすでに三日経っていた。

 勉強するのを目的として通っているせいか、想像以上にふたりきりの落ちついた時間がとれなくて焦れる。休み時間に休憩スペースで話せても短時間だし、授業が終わればおたがいの家の事情もあってさっさと帰るし。

 夜に電話をしてもいいんだけと、この話は、きちんと目を見て交わしたいし……。

「……ねえ朱理、今夜は授業が終わったらちょっと時間もらえる?」

 朱理はあまり寄り道とかをしないほうがいいのかな、と危機感も覚えつつ反応をうかがったら、朱理はぱっと嬉しそうな表情になった。

「もちろんいいよ。真面目な話ならのんびり外食したあと公園、ふたりで一緒に遊びたいだけならカラオケ、ゲーセン、ショッピングかな。どうしたい?」

 ひとつの言葉で百通りぐらいの展開を考えられる朱理相手だと、毎度ながら話がはやい。

「じゃあ……夕飯は家で食べないと母さんが怒るから、高台の公園でふたりでしゃべりたい」

 朱理の目がほんのすこし細くなって、口角をあげるだけのしずかな笑みに変わる。

「……いいよ、そうしよう」

 俺が話せるようになるのを朱理は待っていてくれた。
 朱理が黙って待っていてくれたことを俺も知っていた。

 そのタイミングが、今日ようやくやってきた。



 ふたりで甘やかな時間を過ごせなくとも、並んで座って一緒に勉強をするのも好きだった。

 朱理は相変わらず疲れなど微塵も感じさせないぴしりとした姿勢で授業を受ける。そうして時々ジュースを飲んだり、ラムネを食べたりする。

 薄茶色の真剣な瞳、その横顔。

 本当は夏期講習なんて受けなくても、朱理の成績に問題がないのはわかっている。受けるにしても俺よりランクが上の授業のほうが朱理に合っていたはずだ。

 それでも遠い自宅から通って、受講料まで払っておなじ授業を選択して隣にいてくれている。

 朱理が寄せてくれている想いは、ちゃんと理解している。

 生まれたときからすべてに秀でている有能なαだからって、朱理に甘えるつもりはないよ。

 俺も朱理を支えられる人になりたいから、悩みながら、迷いながらでも、成長していくね。

 ……学校より席が近いな、と想って隣にいる朱理を見つめていたら、朱理の薄茶色の瞳がすうとこちらに流れてきて、にやけながら睨まれた。

 ノートの端になにか書いた朱理がこっちにずらしてくる。

【見すぎ】

 ふっ、とこっそり吹いて、返事を書いた。

【朱理が横にいてくれるのが嬉しくて】

 あれ、授業中なのにいちゃついてるな……? とおかしくなったら朱理がまた返事をくれた。

【いつもいるよ。必ず紺の隣にいる。愛してる】



 夏は夕方になってもまだ空が明るい。

「さっきのは、文字じゃなくて声で聞きたかったなあ~……」

 金色の夕日が満ちる階段を、ふたりで息を切らしながらのぼって高台にある公園へ向かう。

「また言いたくなったら言うからいいでしょ?」

「ん~……嬉しいけど、初めてだったし」

 当然ながら俺より朱理のほうが体力もあるので、三段ほど先を歩いている。

 追いつきたいのに、心臓がどくどく鼓動して苦しくて、休み休みのぼるので精いっぱいだ。

 一歩、一歩、懸命に足を踏みこんで階段をあがり、朱理の背中を追う。

 そうしながらいちゃいちゃぼやくのも楽しい。

「初めてだったっけ」

「初めてだったよ、憶えてないの?」

「心のなかで毎日言ってるから気づいてなかった」

 立ち止まってふりむいた朱理が、額にじんわり汗をにじませてにっこり笑っている。

「それより、紺のさっきのノートの手紙、俺にちょうだい」

「え、なんで?」

「欲しいからだよ」

「朱理ほど衝撃的な告白書いてないけど」

「嬉しかったよ。初めての手紙だしさ」

「あれ手紙って言わないよ。端っこ千切るのでよければあげるけど」

「うん」

「なら俺もちょうだい、朱理の初めての告白」

「わかった、交換ね」

 朱理のところにたどり着いて横に並んだら、左手を朱理の右手に掬われて、かたく繋がれた。

 ふふ、とふたりでにやけて笑いながら、残り五段の階段を一気にのぼりきる。

「あーっ、やっときた~っ……」

 駅から遠目に見える、とんでもなく長い階段の先にある公園だった。

 ふたりして毎日なんとなく気にしていた景色のよさそうなところでもあったんだけど、実際に来てみたら夕日色に染まった街を見おろせる、とても美しくて居心地のいい公園で胸も弾んだ。

 木々に囲まれている小さな公園には、ブランコと低いジャングルジムしかない。だけどそのもの寂しさと、夏の夕暮れの、呼吸の音すらうるさく感じられる静寂がいい。

「……思ってたより素敵なところだった」

 朱理とふたりで、公園の先端の、下界を一望できる柵の前まで来た。

 夏の香りの風がふわりと流れてきて、汗ばんだ顔や身体をなぞりながら冷やしていく。

 街にいたときよりセミの声も大きくて近い。なのに、やっぱりしずけさが生きている。

「明日から塾のあと毎日来よう。暗くなるまででいいから、ここで朱理と一緒にいたい」

「うん、いいね。俺も紺といたい」

 じっと観察していると、小さなミニチュアみたいな街の道路の信号が、順番に青から赤に変わっていく。人が歩いているようすも米粒より小さく、でもきちんと見える。

 遠くの山々と、眩しい夕空と、他人の生活や営みが、息吹きが、見渡せる場所。

「紺、ちゃんと水分とりな」

 朱理がリュックからペットボトルのお茶をだして、俺にくれた。

「うん、ありがとう」

 飲んでみると止まらなくて、結構喉が渇いていたんだ、と知る。

「……ごめん、いっぱい飲んじゃった」

 気づいたら半分以上減っていた。

「はは、いいよ。身体が欲してたんだね」

 笑った朱理も、おなじところに口をつけてお茶を飲む。

「間接キスだね」

 言ってみたら、きょとんとされた。

「いまさらなに?」

「いや、うん……間接キスより先に、大人のキスしちゃったなって思って」

「はははっ」と朱理が街中に響き渡りそうな綺麗な声で、歌をうたうみたいに笑った。

「そっか……キスにも段階があったんだね」

 くっくっ、と喉で笑いの余韻を噛みしめつつペットボトルの蓋をしめ、甘えるみたいに俺の額に額を寄せてきて、自然な素ぶりで唇にキスをしてくれる。

 おたがいの上唇と下唇をあわせて、軽く吸い寄せる優しいキス。

 ……朱理の唇が濡れて、お茶の味になっている。自分の唇も朱理にはお茶の味がしているのかな。

「朱理……」

 朱理の身体が目の前に来て、朱理自身の匂いも感じたら、しばらく朱理に触っていなかったな、と気づいて離れがたくなって、朱理の右肩に目を押しつけて俺も甘えた。

 こうしていると朱理の肩の骨が額に当たって、右側から朱理の息づかいも聞こえる。

「……好きだよ紺」

 おまけの告白までこぼれてきた。……自分はなんて幸せ者なんだろう、と胸が熱くなる。

「……俺も好きだよ朱理」

 背中に朱理の右手が触れて、ゆっくり上下しながら撫で始める。

 いいんだよ、話したいことがあるなら聞くよ、言えるタイミングで言ってごらん――と、その手まで、愛情を俺の身体に撫で重ねてくれているのを感じる。

「……あのね、朱理」

「うん」

「熱海、一週間泊まろうっていうのって……いやらしいこともしようって意味でしょう?」

 朱理が俺の耳もとのほうへ顔をうつむけた気配があった。

「……うん。そうだね」

 どんな返答がくるんだろうと緊張していたら、朱理は低い声で、真面目にひとことだけくれた。

 心臓がどきどき鼓動し始めて、羞恥心と恐怖心が胸の奥で渦巻いて身体が熱くなる。

「……ちゃんと考えてるよ。恋人同士で、一週間もふたりでいて……そういうことしないなんて、天然ばかな気持ちでいるわけじゃない。俺も朱理と、したいって……想ってる」

 背中をぐっと引き寄せられて、強く抱きしめられた。

「……うん」

 短い返事をくり返している朱理なのに、すごく喜んでくれているのが腕の力強さと、小さな震えで伝わってくる。

 まだ裸になっていなくても、この抱擁だけで、朱理とセックスしているみたいな錯覚をした。

 刺激とか快感がなくても、いま心が、どうしようもなくかたく搦みあっていて、だから。

「だけどね、でも……俺、……Ωかもしれないんだ」

「え」

 朱理の驚いたような、小さな呟きが右耳の傍で洩れた。

「……いままでの検査で、二回だけΩっていう結果がでて……それで、夏休み前に薬ももらった。朱理と熱海に行って、昂奮したら……朱理に、迷惑かけるかもしれない」

 上半身を軽く離して、朱理が俺の顔を覗きこんでくる。朱理の表情を知るのが怖かったけれど、俺も視線をあげて見返すと、朱理は変わらずに、真剣な顔をしてくれていた。

「……わかった。紺が悩んでくれていたのはそこだったんだね」

「そこ……?」

 もう一度、背中を引いてきつく抱き竦められる。そして背骨の上を大きくさすられた。

「……大丈夫だよ。別荘の近くには懇意にしてるお医者さんもいるから、なにかあっても紺のこと守るよ」

「え、お医者……?」

「言いづらいけど、まあ……別荘って場所で開放的な気持ちになるのは俺たちだけじゃなくてね。それ目的に利用する身内もいて、いつの間にか親しいお医者さんができちゃったんだよ」

 朱理が苦笑いして、その響きが喉もとから俺の胸まで伝わってくる。

「そう、なんだね……」

「うん。だから平気。なにも心配いらない」

 俺も朱理のリュックをよけて背中に両腕をまわした。

「俺がΩだとしても大丈夫……? 朱理の恋人でいて、いいのかな」

 返事を聞く心の準備をするより先に、「ふっ」と朱理の笑い声がこぼれた。

「あたりまえでしょ。……この前も言ったよね。俺にはなんの縛りもない。それどころか俺、紺とつきあってることとっくに言ってるから」

「えっ、言ってるって、ご家族にっ?」

「夏期講習も別荘も、親の協力なしに行くのは不可能だしね。熱海も上の兄貴が車で連れて行ってくれるっていうから、紺との関係を親よりさらに詳しく教えてるよ」

 今度は俺が身体を離して、朱理の顔をまじまじ見あげた。

「詳しくって……どんなふうに?」

「大人のキスして、すごく幸せだった、とか」

 後頭部がぶわっと熱して痺れた。

「そ、それ、Ωでいいの? ご両親もお兄さんも、俺がΩになったらがっかりしない?」

「しない」

 間髪入れずに二度目の断言が返ってくる。
 朱理の表情にも曇りや嘘は見えない。

「もしかしてうちがαばかりだから気にしてる……?」

 言い当てられて、息を詰めながらこくりとうなずいた。

「ああ……それも紺の耳に入ってたのか」と朱理はため息をこぼす。

「変な勘ぐりしなくて平気だよ。たしかに父さんと下の兄貴は仕事人間だからΩのことをすこし苦手に思ってる。自分の会社でもΩの発情期休暇を徹底してたりね」

「発情期休暇……って、利用する人、少ないんでしょ?」

 産休などとおなじで、会社が許可していても社員同士はよく思わないし、仕事にも支障がでて誰も得しないから結局みんなあまり利用しない、って聞く。

「うん。だから父さんたちはΩが気持ちよく休めるように社員同士協力するよう力を入れてるわけ。結果的に社員みんなが得して、会社の評判もよくなるっていうシステム」

「そう、なんだ……」

「でもΩを嫌ってるわけじゃないよ。うちの家族はバース性で人を判断したりしない。そんなことしてたら会社経営なんてできないからね」

 ……言われてみればたしかにそうだ。
 何千っていう社員やバイトやパートさんたちに支えられてグループ会社を経営している人たちがバース性で他人を嫌っていたら仕事にならない。

 排除するんじゃなくて、向きあって共に生きやすい環境をつくることに尽力する。それができるから、上に立っていられるんだ。

「発情期のあいだは家でふたりで大人しくしてろ、とは言われるだろうけど、俺と紺がつきあうのを反対したりはしない。紺が責められたりいびられたりすることもないよ。そんなこと、俺がさせないしさ」

 朱理が朱色の夕日に頬を溶かせて、優しさをひろげて微笑んでいる。

 朱理は優しい。
 いつも絶対に優しくて、俺の不安を、必ずひとつずつ消していってくれる。

「俺……、」と最後の恐怖を口にしようとしたら、朱理の優しさが苦しくて、目の奥が痛んで涙が溢れそうになった。

 朱理の薄茶色の瞳が朱い夕日に透けて、さらに透明に光りながら、なに、なんでも言って、と、俺の弱い心を包んでくれている。

「俺、Ωになったとしても……子ども、産むの、怖くて。まだ、その覚悟は……できてなくて、」

 ――わたしも怯えながらお母さんに訊いたの。『なんでそこまでして子どもを産めたの』って。そうしたら、『好きな人とのあいだに生まれる命なんだから幸せしかなかったのよ』って言ってくれたよ。

 ごめんなさい。朱理はこんなに優しいのに、俺はまだ朱理のことを好きでも、生まれる命が幸せって……わからない。怯えてばかりで、ごめんなさい。

「……ごめんね朱理、」

 溢れた涙を見せたくなくてぐっと目をとじたら、朱理が両腕で俺の腰をやんわり抱き包んでくれながら、小さな笑い声をこぼした。

「謝ることじゃないよ。……それより、紺がもう俺と子どもつくることまで考えてくれていたなんてびっくりだな。間接キスを飛ばして大人のキスするよりおっきなジャンプじゃない?」

「……そんなこと、ないよ」

 生まれたときからバース性と対峙しているからαとΩならとくに結婚や出産を高校生のうちから考える。結婚してうなじを噛み、つがいになるほうが生きやすい、と考えるαとΩも大勢いるし、はやければ高校を卒業してすぐ結婚する人たちもいる。そしてなにより繁殖本能が目覚めるせいで、子どもだって二十歳のころにはひとり、ふたりいたりする。そんなのあたりまえだ。

「俺たちには俺たちのタイミングと心があるでしょう。紺が嫌なら俺だって嫌だよ。紺が怖いと思うことを俺はしたくないし、させるつもりもない。俺、子どもが欲しくて紺を好きになったなんて言ったことあった?」

 朱理の想いやりが胸を突き刺してきて、縋りつきながら「ないっ……」と涙声でこたえた。

「そうでしょ。まずは恋人の時間を大事に過ごそうよ。熱海でいっぱい、いやらしいことしよう。大人のキス以上のこと、いっぱい」

「でも、」

「でもってゆーな」

 朱理が俺の額に額をこすりつけて、くすくす笑いながらじゃれてくれる。

 朱理に甘えすぎじゃないかと戸惑いつつも、朱理があまりに楽しげに笑ってれるから、俺もつられてほっとして笑うと、朱理にも安心感が伝染したみたいに、くすくす笑いが大きく絡みあった。

「……いまはそうやって楽しい想い出をつくって、いつか俺たちが、ふたりで産む命を育てていきたいって想えたら、家族を増やすことを考え始めようよ。……ね?」

 ふたりで産む命、家族を増やす――朱理の優しい愛情が、自分の目から涙になって溢れているんじゃないかと思った。

 この涙は、朱理の愛情と優しさの結晶だ。

「――愛してる、紺」




















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