その日の夜、五十嵐はまた無言でSNSに夜空の写真を投稿した。 翌朝、夜明けと共に起きて、俺も朝焼けの写真を撮って投稿し、家をでた。 電車に揺られて学校の最寄り駅に着くと、おにぎり屋さんの傍らに立って待っていてくれる五十嵐がいる。 手をふって近づいて、「おはよう」と挨拶をしあう。 「紺は今日、なにおにぎりにするの」 呼びかた、下の名前に変わった。 「んー……とろろ昆布と、鮭いくら! 朱理は?」 俺も呼んで見返したら、五十嵐は目をまるめて二度まばたいてから、薄茶色の瞳を輝かせて口角をあげ、驚くほど幸せそうな、太陽みたいな笑顔になった。 「俺は豚の角煮と大葉塩サバかな」 迷いのない即答をする頬が、溶けて崩れているからこっちが照れて呼吸を忘れる。 「なんか……すごい、高級なの選ぶじゃん」 「肉と魚で栄養バランスいいかと思って」 「そういう考えかた? じゃあ俺もひとつ肉系に変えようかな……」 「好きなの食べなよ、分けてあげるから」 笑いあって相談しながら、ふたりで列に並んでそれぞれ選んだおにぎりを注文した。 五十嵐は……朱理は、さりげなく俺のうしろに並んでいつも会計を先にゆずってくれる。 朝は会社員がたくさんいてどんどん売り切れになるから、たぶん俺が好きなものをちゃんと買えるように、って配慮してくれているんだと思う。 「紺はなんの味噌汁が好き?」 俺が会計を終えると、朱理が訊いてきた。 カウンター横にはインスタントのお味噌汁も〝ご一緒にどうぞ〟と並んでいて、朱理はそれを目で示す。 買ってくれようとしている? 「え、いいよ」 裏庭にはお湯もないから作れないし。 「いいからはやく言って」 店員さんが朱理のおにぎりを袋に入れ終えて、金額を計算しようとしている。 「じゃ、じゃあ……ネギ」 「わかった」 朱理はささっとネギとほうれん草のカップ味噌汁を取り、一緒に買った。 それで、どうするつもりなのかなと考えながら登校して、ふたりで裏庭に入ってベンチに座ったら、朱理は自分のリュックから大きな水筒をだした。 「まさか、そこにお湯だけ入れてきたの?」 「べつに驚くことじゃないでしょ」 朱理が笑っている。 「驚くよ。残りのお湯、どうするの? お湯だけ飲むの?」 「はは」 おかしげに笑う朱理が、リュックからわざとゆっくり、もうひとつの宝物をだしてくる。 「カップラーメンっ?」 しかも行列ができる有名ラーメン店の、豪華なカップラーメンだ。 「え、いいな~……学校でカップラーメンって幸せ増す……」 「紺は駄目だよ、カップ麺はあまり栄養ないから。とろろ昆布と鮭いくらじゃ許可できない」 ……つまり肉と魚のおにぎりを選んだ朱理より、俺は朝ご飯の栄養が少なめだから昼もカップラーメンなんか食べてないでしっかり栄養をとれ、ってこと? 「大丈夫だよ、これぐらい」 「だめ」 テキパキお味噌汁の用意をしてお湯を注いでくれながら、ぴしゃっと叱ってくる。 お湯を注ぐ順番も俺の味噌汁が先だ。 「それに紺は千堂たちと昼ご飯食べるだろ」 自分のカップにもお湯を注ぐ朱理の表情は穏やかで、とくに幼稚な嫉妬や厭味は感じない。 「女子みたいにグループ作ってべったりしてるわけじゃないし、昼も朱理といるよ」 「俺とはべったりしていいの?」 視線だけちらと俺に向けて、からかうように格好よく笑んでくる。 「……いいよ」 「へえ……じゃあ食堂で唐揚げ弁当とか、がっつりしたもの買ってきて食べるんなら、カップ麺もすこし分けてあげるよ」 「……。わかった」 そういえば一緒におにぎりを食べるようになってから、選ぶときも『ひとつは魚にしたら』とか助言をくれていた。 朱理って健康に気をつかうタイプなのかな? お味噌汁も完成すると、朱理は「いただきます」と両手をあわせてからおにぎりの包みをひらいて食事を始めた。 ふふ、と笑って俺も「いただきます」と手をあわせ、一緒に食べ始める。 「なに笑ってるの」 「ううん」 夏が近づいて木の葉も青々と色づき、花壇の花もきらきら咲いて甘い香りを放ち始めている。 だけど俺と朱理は、初夏の香りの真んなかで味噌汁の匂いを漂わせておにぎりを頬張っている。 「紺と食べるとなんでも美味しいな……」 朱理が、俺とおなじことを想っている。 びっくりしたことに、そのあと朱理は俺と一緒に教室へ移動して授業を受けた。 「……もういいの?」 「うん。今日からは紺の傍にいる」 左隣の席で、朱理は大人びた笑顔をひろげる。 朱理が授業に来なかったのは一ヶ月程度だったけど、それでもクラス内はすこしざわめいて、女子はかなりはしゃいでいた。〝せっかく二年になってから五十嵐君とおなじクラスになれたのに会えない〟と、みんながっかりしていたから当然と言えば当然だ。 でも全員遠巻きに眺めるだけで、誰も朱理に近づこうとしない。 なにか悩んでいるのかも、っていう危うさを察知して、様子見しているのもあるんだろうけど、千堂が言っていた〝次元の違い〟みたいなものもある気がする。 それが、朱理の所作だけでわかるから閉口してしまう。 朱理はぴしと背筋を伸ばして、一瞬もだらけたりせずノートをとって授業を受ける。 あくびもしない。 よそ見もしない。 ノートの切れ端でつくった手紙をまわしたり、スマホをこっそり眺めたりもしない。 休み時間は音楽を聴いたり飲みものを飲んだりするものの、机の上にだらっと寝そべったりもしない。 「朱理って疲れないの……?」 俺はぐったりして机にうつ伏せながら訊ねるのに、朱理は左手で頬杖をついて涼しげにスマホを眺めているだけだ。 「疲れるってなにが?」 「背中、ずっとぴんとしてるじゃん」 「ああ。……いや、べつに」 肩をちょっと上下して、確認してからしれっとこたえる。 「……肉と魚のおかげなのかな」 「は?」 ふふふ、と笑う顔は幼げでハンサムで、どうしたって格好いいけど、否応なしに格の違いを思い知らされる。 体力も集中力も、頭の回転のよさも並外れている。 α……ってことなんだろうな、やっぱり。 昼休み、食堂で無事に唐揚げ弁当ゲット戦争に勝利して、裏庭で朱理とカップラーメンを食べた。 初夏の花々とカメに囲まれて、唐揚げとカップラーメンの匂いを漂わせて楽しく食事した。 そしてそれだけ食べたのに、午後はいきなり体育の授業でげんなりした。 でももちろん、朱理は軽やかに全身を動かして、ハードル走でいちばんの記録をだした。 「五十嵐君すごい~っ」 「格好いい~っ!」 校庭の隣で眺めていた女子も目をハートにさせてきゅんきゅん騒いでいる。 綺麗に伸びた手足、ブレない軸と歩幅、走る速度……うん、本当に格好いい。ラーメン食べたあととは思えない。 「あーっ、五十嵐に記録抜かれたっ」 はあはあ、と息を乱して、体操着の上着で口もとの汗を拭いながら千堂が隣に来た。 「だね。このあいだまで千堂がいちばんじゃなかったっけ」 「そーだよ、あー悔しいっ。でも仕方ないなー、あいつでかいもんな」 千堂の身長は百七十五センチだったかな。たしかに目で確認するだけでも朱理のほうがちょっと高いのがわかる。 「ハードルって身長の高さ関係あるのかな? いちばんは走るスピードと歩幅の感覚のとりかたじゃない?」 「なんだよ、広瀬も五十嵐の味方かよ」 「負けた奴に優しくしろ」と肘で突かれて、笑ってしまった。 とはいえ、そもそも俺は五レーンある高さ違いのラインの、三番目までしか行けない。千堂と朱理はいちばん高い五つ目のラインで一位を競っているんだから、充分じゃないかな。 「ふたり共、めちゃくちゃ格好よくてすごいよ」 ふふふ、と笑っていたら、遠くにいる朱理がこっちを見て手をふってきたからふり返した。 過去最高記録がでるんじゃないか、と驚く体育の先生に捕まって、朱理はまだ走らされるっぽい。ちょっと気の毒だ。 「……五十嵐、来るようになったな。広瀬すごいじゃん、あいつの悩み聞いてやれたの?」 千堂の呼吸が整ってきた。 「違うよ。なにに悩んでたのかはいまも知らない」 「そうなの? それにしては、あいつ異常に広瀬に懐いてね?」 「懐いてるのは俺もだから」 千堂が止まった。 「――あ。……あ~……えっ? マジで?」 「まじで」 千堂は個人的なことをべらべら触れまわるタイプでもないし、石山さんとの関係も教えてくれているから、とりあえずこれぐらいはって、隠さずに言ってみた。 「え、でもあいつとつきあうのってキツくない? あいつの家、面倒じゃん」 千堂が眉をゆがめて引きつった笑顔を浮かべる。 「まだそこまで話してないよ」 「いや、でも考えなきゃだろ、あいつ相手なら」 千堂が鼻息荒くこちらへ身体を向けた。 「あいつんち、αしか入れないんだよ。上の兄貴ふたりもαと結婚させられてる。そうやってαの家系を守ってきたんだ。でもだから家族全員我が強くて揉め事も絶えないってよく聞、」 「もういい」 千堂の顔の前に左手を立てて止めた。 「ごめん。そういうのは、本人から聞きたいからいいや」 千堂が瞠目して停止した。 いままで俺はあまり自己主張してこなかったから驚かせたんだな、とその表情から伝わってくる。 傷つけないように黙って、正しく平和に、輪に溶けこんで生きてきた。 だけど朱理のことは嫌だ。 朱理がいてくれるから、嫌だって、もう言える。 「……。そっか」 「――ねえ、このカメたちって名前はないの?」 一日を終えて、放課後またふたりで裏庭に来た。 「どうなんだろうね。この子たち、園芸部が飼ってるんだよ。だから部員のあいだでは、決まった名前とか愛称があるのかもしれない」 「そうなんだ。世話をまかされてる朱理は、あだ名もつけてないの?」 「ない」 小さな緑のボトルからラムネの粒をだして、朱理が口に放る。 カメたちの家の前にしゃがんでいる俺は、横のベンチに座っている朱理が首を仰け反らせた瞬間、喉仏をこくんと綺麗なかたちに上下させたのを見あげていた。 ……ずいぶん潔い即答だったな。 「名前をつけると、愛着が湧いちゃうから嫌だ……ってやつ?」 追及してみたら、朱理が口端をひいて笑顔で俺を見返してきた。 「そうだよ」 ……あ、と心臓が動く。 朱理はこういうとき照れて〝違えよ〟と否定したりしない。臆病な自分を肯定できる大人だ。 すこしからかったこっちのほうがダサい子どもに思えてくる。 また小さな〝好き〟が積み重なったな、と考えつつ俺もベンチに腰かけて朱理に寄り添ったら、朱理は正面の花壇の花を眺めながら、自然な素ぶりで俺の左手を握りしめてきた。 四本の指を包んで引いて、おたがいの身体のあいだにおいてから、そっと指の隙間をひらいて、さらに深く、恋人繋ぎにしていく。 朱理を盗み見ても、花のほうを見て、唇で楽しげに微笑んでいるだけだ。薄茶色の瞳で。 「……朱理って、こういうの慣れてるんだね」 「え?」 こんな指が絡みあう手の繋ぎかたを好きな人としたのは、俺は初めてだ。 「慣れてないよ」 「嘘だ」 「嘘じゃないよ」 朱理もこっちをむいた。 身体を傾けてきて肩同士がくっつき、顔も、近くなる。 しずかに微笑んでいる、大人っぽい彫刻みたいな顔が。 「……俺、恋人ができたの初めてだよ。人を好きになったのも紺が初めて」 どきどき緊張しながらも、驚愕した。 「う、嘘だ」 「なんで嘘だと思うの」 「そ、れは、」 目を泳がせて必死に返事を考えるのに、うまい言葉がでてこない。 「だからその……ほ、包容力とか言動とか、そういうのが、全部……ど、童貞っぽくない」 「ぶはっ、」と朱理が初めて大きく吹きだして、大笑いし始めた。 花が揺れているのも、微風じゃなくて朱理の笑い声のせいな気がしてくるぐらいでかく。 「ははははは、はー……ウケる。腹痛い」と、繋いでいないほうの左手で涙まで拭う。 「ちゃんと童貞だよ」 そ……そんな肯定までしてのける大人なのに童貞。 「……朱理ほど格好よければまわりが放っておかないと思ったし、いろいろ大人だから、全然初めてって気がしなかった」 「ふうん」 「てか初めてで俺を選ぶって……それもなんか、変な気がする」 「どうして」 「俺は、なんていうか……梅干しみたいなものでしょ」 「は?」 「豚の角煮とか、大葉塩サバとか、そういう高級味に飽きたら選ばれるって感じ」 「はあ、なるほどね」 肉でも魚でもない、添えものレベルだ。 朱理はこんなばかげたたとえ話も、ちゃんと理解して咀嚼してくれる有能な男でもある。 「梅干しっていちばんすごいと思うけどな。おにぎり専門店以外のコンビニにもスーパーにも必ずいて、いつでも戻っていける。安心の家みたいな存在じゃない?」 う、ぅ。 「……ごめん、おにぎりの話じゃなくていいんだけど」 「わかってるよ。俺にとっては紺がいちばん食べたい人って意味で言ってるんだよ」 た。……たべ。 「ど、童貞はさ、もっと、あわあわするよっ」 「童貞にもよるんじゃないの」 朱理がぐぐと指を強く絡みあわせて口を寄せてくるから、耳の裏から後頭部までぞわっと熱くなって、心臓がどくどく走りだした。 「……本当はすごくキスしたい」 息が、かかるんですけど……っ。 「俺、こ、ここまで、朱理が……おかしくなるほど、なんで、好いてもらったか、謎すぎ、」 まだ数回しかしゃべっていなかったし、おたがいのことなにも知らない。 なのにSNSで繋がったとたん紺紺呼んでくれて、おまけに初恋まで俺って信じられない。 授業にでるようになってくれたのも、触りたがるのも、嬉しいけど急すぎてちょっと、頭が追いつかないよ。 「おかしいかな」 「ふわっとぼんやり、〝一緒にいていいな~〟って感じじゃないんだもん、手も、こんな、エロい繋ぎかたしたり、き、キスとか、言ったりするしさ、」 「紺は俺をぼんやり好きなの? 手もキスもいや?」 す、す、と視線をおずおずあげて朱理を見返すと、変わらず幸せそうに微笑んでいる。 こういう質問も、不安げに訊いたりしないのなんなの。 絶対、俺が〝嫌じゃない〟ってこたえるのを確信している、大人みたいな余裕の、愛しさいっぱいの表情してさ……。 「わかったよ。俺が紺のどこを好きか聞きたいんでしょ?」 頭の回転のよすぎる朱理が、すぅと息を吸う。 「俺の傍に必ず来てくれちゃうところ。〝五十嵐は目がいいんだね〟って想いやってくれたこと。たくさんあるけど大きいのはそこらへんかな」 ……大きいの。 朱理の言葉と瞳に意識を奪われていた一瞬に、口先を吸われた。 え。 「紺は?」 え。 「紺も聞かせて」 意識が飛んでいる間に、また朱理の唇がくっついてきて、今度は長めに吸われた。口先を唇で覆われて、なかで、上唇と下唇を交互に何度も舐めて、吸われる。 ラムネの味。 「……聞かせて紺」 甘い味がするのに、唇と舌の動きはやっぱり大人びていて、優しくて熱かった。 「……。顔と性格と……パックのジュース、分別して捨てるとこ。〝いただきます〟って手、あわせるところ」 動転して、照れくさくて、俺は小さいのしか言えなかった。 「ふうん……そうだったんだ」 朱理はそれでもばかにしたり嗤ったりせずに、納得してくれた。 幸せそうに笑って受けとめてくれる朱理を見ていたら、大きい〝好き〟ももっと言い募りたくなったけど、唇の先に残るラムネと朱理の余韻が強すぎて、喉に声が詰まって無理だった。 〝好き〟の大きいのも小さいのも迫りあがってきて詰まって痛すぎて、苦しくて無理だった。 ←BACK//TOP//NEXT→ |