人生でこんなに幸福な日があっていいのかな……、と茫然としながら雪を眺めていた。 「……おはようなお」 背中から俺を抱いてくれている賢也さんが、左耳の傍で囁く。 夜通しセックスを続けて気絶するように三時間ほど眠ったけれど、朝がくるころにはふたりしてベッドの上に座り、ガラス戸越しに夜明けを見ていた。 疲労感もあれど、それは意識が半分夢を見ているような心地いい気怠さで、眠りたい気持ちにはならない。 ふわふわしつつ、でも至福感だけは妙に冴えていて、心のなかが熱く高揚したまま朝の静謐をただよっているような……嘘のような幸福なひとときだった。 「……おはようございます、賢也さん」 腰を抱いてくれている賢也さんの腕をさすって、自分も彼に頬を擦り寄せながらこたえたら、幸せそうに喉で笑ってさらに強く抱き竦めてくれた。 賢也さんの逞しい両腕に守られて、ふたりで温かい毛布に包まりつつ、白銀の世界に桃色の帯がひろがっていくのを眺める。 青く照る雪の大地に淡い桃色の朝焼けがひたひたのびて、徐々に金色の太陽光が輝き始めるのが美瑛の夜明けの景色だ。 「……綺麗だね。なおがここで生きているんだと思うと、しっくり納得がいくよ」 「俺が……? どうしてですか」 「なお自身が俺にとって美しい、神さまみたいな子だから」 俺の神さまがなにか言っている。 「賢也さんも一緒にいてくださいね。俺が神さまになれるのは賢也さんの目にうつっているときだけだし、俺には賢也さんが神さまで、人間国宝なんだから」 ふふふ、と笑いながら、賢也さんが俺の首筋をいたずらっぽく吸う。 「……やっぱり間違ってなかったな」 賢也さんの瞳が、昇り始めた太陽の光を吸ってきらめいている。 「なおも言ってたように俺たちはちょっと特殊な出会いかたをして、おたがいの心の傷以外は知らないまま短期間で恋に溺れて……深い部分で繋がっているから想いは強固だって信じていたけど、もっと他愛ない面でズレを感じて冷めることもあるのかなと懸念していたんだよ」 「ああ、うん……わかります」 「ね。でもなおは〝不倫しに来たんじゃないか、不誠実なら嫌いだ〟って冷たくしてくれたり、キスやセックスの話をして若干焦っても、俺の真面目な気持ちには真剣に応えてくれたり……一緒にいればいるほど好きになる一方で心臓が保たないよ」 抱いているあいだも可愛くてしんどかった、と小声で囁かれて、毛布ごとぎゅとまた抱き包まれた。 俺もお返しに賢也さんの腕を抱きしめて、ふたりで力んでくすくす笑う。 「……俺は賢也さんへの想いが冷めるっていう心配はあまりなかったんですけど、もし本当に恋人になれたとしても、自分が嫌われることはあるのかなって……思ってましたよ」 「どうして」 「賢也さんが結婚していた、異性愛者だからです。ふたりで空想の熱海旅行をして、夢のなかで恋人遊びをするのがきっとちょうどいいんだろうって諦めてました」 「……抱きあってるあいだも不安そうだったね」 「はい。けどその怯えも和らぎました。さすがにこれだけ愛してもらったら……怖がれない」 嬉しそうに笑う賢也さんが「……よかった」と俺の耳たぶを噛む。 「蒸し返したくないけど、俺はなおを抱きながら前の人に対する怒りが増したな」 「え……愛撫、しなかったからですか?」 「それ以外にもいろいろだよ。……俺にとってなおの身体は宝物だよ。細部まで愛おしくて、輝いて見える」 賢也さんのひろくて厚い胸にすっぽりと捕らわれながら、頬が熱くなるのを感じた。 ……あのあと賢也さんは本当に、俺の背中の肩甲骨にくちづけながら「綺麗な天使の羽だね」と褒めてくれたり、手足の指の一本ずつを丁寧にしゃぶって「爪のかたちまで可愛い」と愛してくれたりした。 たしかに昭之のぞんざいなセックスとはまったくの別物だった。 「……ありがとう賢也さん。俺もすごく幸せでした。でも賢也さんとセックスして……俺は、自分も昭之に〝愛するためだけの行為〟を感じさせてあげられなかったことに気づきましたよ。昭之だけが悪いんじゃないんです。恋人っていう関係もセックスも、全部ふたりで育んでいくものだから……俺が義務だって感じて、我慢してされるがままになっていた分、昭之も淋しかったんですよね……たぶん」 「いや。なおが許しても俺は暴力だっていう考えをまげる気はないし軽蔑し続ける」 怒気を含んだ声で断言されてしまった。 「……賢也さんが味方でいてくれるのは嬉しいです」 まっすぐに不平等に、こうして自分を愛して守ってくれる賢也さんが傍にいてくれるから、俺は昭之に対する後悔と反省の念を抱けるのだと思う。 被害者だなんて言う気はないよ。 俺も傷つけたよね。 ちゃんと愛せない不義理な恋人だった。 青色に染まっていた雪が、陽光を浴びて銀色に輝き始めている。 こんな美しい地元の朝焼けも、昭之と一緒に眺めたことはなかったな……。 「なお」 賢也さんが俺の左肩に音つきのキスをしながら呼んでくれる。 「……俺は電車でなおが俺を撫でてくれていたときから、自分の気持ちをわかってくれるのはこの子なんじゃないかって思っていたんだよ」 「え、なんで……?」 「あのころの俺には、性行為に抵抗感と恐怖心があった。子どもをつくるためのセックスに怯えきっていてね。けどなおの手は巧みで、下半身が変化しない程度に、でももどかしくもない手腕でなだめてくれて、」 「そ、そういう意味っ?」 赤くなって賢也さんを見返したら、賢也さんも小さく吹いておかしそうに笑った。 「ちゃんと会話を交わしたあとは〝そういう意味〟以外でも実感したんだよ。なおだけが俺を受け容れて許して味方になってくれた。だから俺はいま生きられてる。……何回も言うけど」 「愛してる」と賢也さんが告白と吐息を耳にかけてくれる。 「俺を見つけてくれてありがとう、なお」 金色の太陽と、銀色の雪の眩しいきらめきの向こうに、いつも心のなかにいる電車のホームに立つ無気力な賢也さんの姿が見えた。 目の奥が痛んで視界に涙がにじみ、光が、揺らいで増えていく。 「……いいえ。俺は賢也さんが懸命に生きていてくれたから生きられたんですよ。命を与えてもらったのは俺です。……ありがとう賢也さん。俺も何回も言います。これからずっと」 この感謝は、たぶんおたがいが最期までくり返し幾度も伝えあうものなのかもしれない、と温かな腕のなかで目をとじながら、確信に近い想いで感慨に耽った。 真っ白い地平線の先で太陽がすこしずつ顔をだし始めている。 一生忘れない、と想えるこんな幸福で美しい朝を、賢也さんとはあと何度眺めることができるんだろう。 観光にこだわらずのんびり過ごそう、と決めたものの、食事を抜いて部屋にこもっているとさすがに両親の目も気になるし、賢也さんの健康も心配なので、ふたりで朝風呂に入って身体を清めたあと朝食をとりにカフェへ向かった。 「わー……雪の匂いのする空気、すごく気持ちいいね……」 「ふふ、大自然めいっぱい堪能していってください。朝食もまた美味しい北海道野菜の料理、ご用意しますよ」 「楽しみすぎるな」 むぎ、むぎ、と雪を踏んで、透徹した空気を吸いこみながらふたりで笑いあい、店へ入る。 仕事のお休みはいただいていたけど賢也さんをおもてなししたかったので、彼を奥のテーブル席へ案内すると、諒さんを手伝って自分たちが食べる朝食を一緒に準備させてもらった。 今朝はラグビーボール型のコーンクリームオムライスと温野菜サラダ、それにじゃがいもスープだった。 「ああ……朝食も美味しそうで大変だ」 賢也さんが大げさに額を押さえて感嘆してくれるから、笑ってしまった。 「飲みものもお好きなの選んでください。コーヒー、紅茶、ジュース、なんでも」とメニューをさしだすと、「じゃがいもスープが美味しそうだからひとまず食後に考えていいかな」とのことで、「じゃあ俺もそうします」と席に着いた。 ふたりでむかいあって「いただきます」と微笑みあい、食事を始める。 「ああ、うん……毎日ここで食事したい。すごく美味しいよ……」 「ありがとうございます。全部諒さんのおかげだけど、俺も仕込みとか手伝ってるんですよ。たまに料理の仕方も教わってるから、手料理もほんのちょっと上達しました」 「本当に? なおの手料理も食べてみたいな」 「ふふ……いつかごちそうします。でも食材の力もあるかな。うちの野菜は父が畑で作っているものも結構あるんですけど、じゃがいももとうもろこしもすごく甘くて自慢です」 「そうなんだ、畑か……すごいな」 「曾おじいちゃんのころからずっと続けている畑で、こだわりの野菜たちなんですよ。諒さんもうちの野菜で作ると料理が何倍にも美味しくなるって、気に入ってくれていて」 「なるほど。なおのうちの民宿にカフェがあるのは必然だったんだね」 「そうですね……両親の夢でもあったし、お客さまも喜んでくださって、いまではなくてはならない大事な店ですね」 雪景色を傍らに、賢也さんがじゃがいもスープを飲んで微笑みながら瞳でうなずいてくれる。 あ……もう一度上京することも考えて悩んでいたのに、カフェが大事なんて言うべきじゃなかったかな。 でも民宿とカフェが大事なことと賢也さんと一生添い遂げたい想いは、ちょっと違うものだからな……。 「――素直」 店のドアベルが鳴って、一階の和室に宿泊しているカップルのお客さまかなと顔をあげたら、驚いたことに父さんと母さんだった。 俺たちの席に向かって歩いてくる。 「え、なに、どうしたのふたり揃って」 動揺しながらスプーンを置いて、口を押さえてオムライスを急いで咀嚼したら、テーブルの横に並んだふたりが賢也さんに「おはようございます」と頭をさげた。 「おはようございます、朝食も美味しくいただいています」 賢也さんも手を止めて気さくに挨拶をしてくれる。 ちょっと待ってよなにこの状況。 昨日父さんが言ってくれてた、挨拶したい云々ってやつ? 「昨夜よく眠れました? この子、うるさく騒いでなかったです?」 母さんが賢也さんによそいきの東京弁で、くねくね照れながら訊ねる。 「いいえ、騒ぐだなんて。ぼくのほうが夜遅くまでつきあっていただいて、楽しく過ごさせてもらいました。突然来て、素直君のお仕事まで邪魔してしまって申しわけございません」 「なんもなんも。冬場は今日みたいに忙しくない日もあるから、構ってやってください」 ……深読みすると、すごく怖い会話なんですが。 「ところでふたりって、どこでどう知りあったんです? 歳の差もあるから不思議で。素直に訊いても教えてくれないし」 ごく、と唾を飲んで「それは、」と言いかけたら、俺より先に賢也さんが口をひらいた。 「朝の通勤電車内で、痴漢に遭ったのがきっかけです」 「え、痴漢?」 け、賢也さんっ……? 「ぼくが女子高生に〝痴漢だ〟って間違われたとき、素直君が〝この人は俺の彼氏だから女性には触りません〟って叫んで助けてくれたんですよ。それがとっても嬉しかったんです」 「あらやだ素直、彼氏なんて言ったの? うふふふっ。でも痴漢で捕まるのって怖いらしいですもんねえ? 訴えた者勝ちだったり、それを利用してお金巻きあげる若い子もいたりとか、怖い噂いっぱい聞くもの」 「はい。免罪でも非常に厄介なので助かりました。そのあと素直君と毎朝話すようになって、デリケートな悩みにも寄り添ってくれる優しい彼に救われて……だから、もう一度会いたくて捜して、ここまで」 賢也さんが母さんと父さんに笑いかけてから、俺にも微苦笑を向けてくれる。 ……全部真実だしすごく上手いごまかしかただったけど、ハラハラしますよ賢也さん。 「そうだったんですねえ……電話番号ぐらい交換すればよかったのに」 母さんも俺を見返して〝ばかねえ〟の表情をする。 「距離感の、難しい関係だったんだよ。それこそ賢也さんは大人だし、大学卒業してこっちに帰ろうとしてた俺が、すり寄るのもどうなのかなって。……けど俺もまた会いたかったから、来てもらえてすごく嬉しい」 照れてはにかんだら、賢也さんも一緒に、嬉しそうに笑ってくれた。 「素直のほうがご迷惑おかけしたんじゃないですか? 都会暮らしなんて初めてで……」 父さんは顔をしかめて、訝しげに賢也さんの顔色をうかがう。 「いいえ、全然。素直君もちょうど人生の転機でさまざまな悩みを抱えていましたけど、彼は他人や周囲をよく見ていて情に厚いから、自ら辛さを背負ってしまう優しい人なんですよね。ぼくのほうが学ばせてもらうばかりでろくな支えになれず、申しわけなかったです」 頭をさげて謙遜してくれる賢也さんに、「そんなことない」と、ついつっこんでいた。 「就活でもひとづきあいでも、俺、すごくまいっちゃってて、なんで生まれてきたんだろう、生きてる価値ないやって落ちこんでたの母さんたちにも話してたでしょ。あのころ賢也さんは自分も辛い状況だったのに〝転機って導きなんだよ〟って元気づけてくれたんだよ。〝就職がうまくいかないのも神さまがそっちじゃないって教えてくれてるだけで、俺が行くべき場所で俺を待ってくれている人もいる〟って。……賢也さんがいなかったら俺、いまもちゃんと生きていられたかわからない。救われたのは俺で……とっても感謝してる」 親に対するお世辞や社交辞令だとしても、賢也さんが〝支えになれなかった〟〝なにもできなかった〟と卑下するのは耐えられなかった。 和やかに笑っておけばいいものを、思わずいきりたって否定してしまったせいか、父さんも母さんも瞠目しているし、普段無口な諒さんまで、カウンターのなかで目をまるめている。 「……ごめん、なんか。……ほんとに、俺にとって賢也さんは大事な人なんです」 うつむいて縮こまったら、テーブルの向こうから賢也さんの右手が伸びてきて俺の左手をぽんと撫でてくれた。 「……ありがとうなお。俺もなおが大事だよ」 ぱちぱち、とストーブの鳴る音がする。 オムライスの香りと食べかけのチキンライスの粒が、やたら鮮明に、繊細に視界を掠める。 「――だったらなおさら連絡先交換すればよかったでしょや~っ」 ふふはは、と笑って、張り詰めた空気の糸を切ってくれたのは母さんだった。 「ええ、本当にぼくも後悔しました。こちらのカフェの名前と、あとSNSにあった写真に、素直君の姿がちらっとうつっていたおかげで、なんとかたどり着くことができたんですよ」 賢也さんも話を繋いでくれる。 「SNS? ああ、バイク乗りのお客さんと一緒に記念撮影したやつかしらねえ?」 「はい、たぶんそうです。ライダースーツの人がずらっといて、エプロン姿の素直君も端っこにひょこっと」 「あったあった、今年の夏に撮ったのよ~あれ。お客さまが素直もぜひってひっぱっていってそこの民宿とカフェの前の広場のところで強引に。ねえ、素直?」 「あ、うん。……あのとき困ったよ。写真、恥ずかしかったから」 俺も平静を装って会話に加わった。 SNSまで調べて賢也さんが懸命に捜してくれていたなんて知らなかった、嬉しい、大好き……、と気を抜くとまたうっとり告白してしまいそうになるから、親の前だということをしっかり意識して話をする。 突然こんなふうに親が現れても、まるで動じない賢也さんはやっぱり大人だなと感じ入った。 ひとりの人間と添い遂げるために、おたがいの両親に挨拶へ行ったことのある大人。 その相手の親に、男性不妊を責められて耐え続けた大人。 誓いを無にかえして、別離を選択したい、と最後にも頭をさげに行った、寂しく強い大人。 まだ未熟な俺ではとうてい理解し得ない壮絶な経験を積んで乗り越えてきた、弱くも強くもある、自立した愛おしい俺の神さま――。 ←BACK//TOP//NEXT→ |