言葉を失って、緊張して賢也さんを見返していたら、彼の右手が頭に伸びてきた。 ぅ、と身構えて硬直してしまった。 ……左耳を掌ですっぽり覆われて、長い指先が後頭部とうなじまで包み、髪を、ゆるくなぞっていく。 「……髪もふわふわで、パジャマで……風呂あがりで可愛くなってる」 「……。ぇ」 そのまま引き寄せられて賢也さんの胸に顔がぶつかった。 背後でドアがしまり、両腕で抱き竦められる。 「今日は朝から羽田に行って、飛行機に乗って北海道まで来て、レンタカーで車借りて美瑛まで走って、一日なおの傍にいて……青い池まで行って。身体も汚れてるし、雪にも濡れたからなおと一緒に風呂に入って温まりたかったのに……酷い」 だ。 抱、き……しめられ、ながら、意識失って、倒れそうなのですが。 「……お、俺も、雪で濡れたから、そんな状態で、賢也さんの部屋にお邪魔するわけにいかないし……風呂で、すこし、ほぐしておきたかったんです……だから、」 「ひとりでしたの? どうして?」 上半身を離してつりあがった目で睨まれた。 「いち、ねん……以上、そういうこと、してなったから、」 「ふたりで幸せになろうって言ったよね。痛くなかった? なんで俺を放ってひとりで辛い思いをしようとするの……?」 う、ぅ、……ぁ。 「つ、らい、ことじゃ……ないん、です。き、キスの、前の、歯磨きみたいなもので、えっと……配慮、っていうか、マナーっていうか、も、もちろん、すこしようすを見ただけで、ちゃんと、仕上げ、……仕上げ? は、賢也さんとしようって、思ってました」 「俺はなおのカレーの唇も好きだった。はあ……がっかりだ。裏切りだよ。楽しみにして汚い身体のまま待ってたのに。なおの身体はもう半分俺のものでしょう? ひとりで勝手にいじらないでほしいな」 ちょっと、あの……愛の圧がすごすぎて、耐えられないんですけど……。 自分の身体の調子がどうかなって、おたがいのために軽くほぐしただけなのに〝俺を放って辛い思いをした、裏切りだ〟なんて愛のワンパン食らわされるとは思いもしなかった。 ていうか、風呂に? ひとりで入っちゃいけなかったの? ふたりがよかった? どういうことなんだよ、なんですかこの可愛い三十八歳は……っ。 「賢也、さんは……ちょっと、大人すぎます。俺たち、今日会ったのも、一年ぶりなんですよ。いきなり、風呂って……」 「セックスしようって話までしたのに、風呂のどこが大人なの」 「だ、だって、風呂は、明るいでしょ。全裸にもなるし、頭もなんていうか、正気、だし……セックスより、だいぶ、初日でこなすには、ハードル高いです」 「まさか明日も一緒に入ってくれないつもり?」 「や……ぅ、ううん。……セックスのあとは、大丈夫です」 「可愛いことばかり言っておじいちゃんを哀しませて……なおは罪深いな」 背中を右腕で強く抱いて支えられながら唇を塞がれた。 「んンっ、……」 賢也さんの熱い唇が自分の唇に押しつけられて、舌で隙間をねぶられて惚けている間に奥まで犯されていく。 理性ごと、食べられているんじゃないかって、気がしてくる……。 「……カレーの味もしなくなってる」 おしおきみたいに下唇を軽く噛まれて、んっ、と竦んでしまった。 「……マナーです」 こたえたら、軽くしゃがんだ賢也さんに腰を抱かれ、持ちあげられて運ばれた。 「わあぁ」 高い、なにこれ、俺重くない? どういうこと、なにごとっ? 「もうどこにも行かせないから」 ふたつあるベッドの、左のガラス戸側に設置されているほうへゆっくりおろして座らされた。 賢也さんも向かいあって腰をおろし、俺の左頬を撫でながら微笑む。 「……じゃあ俺はひとり寂しく汚い身体を洗ってくるよ。待っててね」 やや垂れ気味の目尻も、やわらかな唇も、座っているのに邪魔そうな長い足も……全部好きで、格好よすぎてどうしよう。 「賢也さんは、汚くなんかないけど……ゆっくり温まってきてください。待ってます」 瞳をにじませて、一瞬だけ俺の唇を見てから、賢也さんは右頬にキスをしてくれた。 そして後頭部のあたりもさわさわ撫でてくれたあと立ちあがり、浴室へ向かって行った。 キィとドアが開いて、ぱたん、と閉まる。 テーブルには紅茶カップ、帽子と手袋、ベッドのあいだのナイトテーブルには充電器に繋がれたスマホと、さっき一緒に確認した抱きあうための品物が整頓して置かれていた。 彼のコートとマフラーもテーブルセットのそばにあるハンガーラックにかけられている。 さらっと浴室へ行っていたから、風呂を出たあとの着替えは、もしかしたらすでに脱衣所に用意されていたのかもしれない。 一気に生活感が生まれた室内に、賢也さんの気配と存在感があった。 見慣れたうちの民宿の部屋なのに、もうここは賢也さんの感情や生活が生きている賢也さんの部屋でしかなくて、急に淋しくなってきて、哀しい想いに襲われる。 肩からバッグをおろしてコートを脱ぎ、立ちあがって俺もハンガーラックにコートをかけた。 賢也さんのコートの隣に、ひとまわり小さい自分のコートが寄り添って並んでいる光景にも、胸がちりっと痛む。 ガラス戸の向こうで、さらさら降り続ける粉雪を眺めた。 明後日にはこの部屋から賢也さんの物も気配も消えて、彼は東京に帰ってしまう。 遠距離恋愛、本当に辛いな……俺、耐えられるのかな……。 賢也さんの麻薬みたいな愛情にあぷあぷ溺れて、一緒にいるだけでどんどん贅沢な駄目人間になっていく自分に我慢できると思えない。 東京に行こうかな。 四年間の上京生活には楽しい記憶が少なくて、東京の印象自体薄暗い靄に覆われているから、また戻るのかと考えると気分もどんより沈むんだけど、賢也さんと新しい人生を歩んでいくためならもう一度頑張れるかもしれない。 難題なのは仕事だよな……フリーターじゃ東京の家賃と生活費を払っていけないだろうし、賢也さんの隣でずっとそんなふらふらした生きかたをしていくのも嫌だ。 せめて契約社員とか派遣社員になれたらいいんだけどどうだろう……怖いな。 ……カフェの仕事も楽しかったんだけどな。 外のオレンジ色の外灯に照らされて、雪がきらきらきらめきながら斜めに落ちていく。 『また来るね、雪が落ちついたら走りに来るよ』と、春から秋にかけて何度も訪れてくれたバイク乗りの夫婦や、『やっぱり北海道は雪景色だよね』と冬を待って休暇をのんびり過ごしに来てくれるご両親と息子さんの三人家族や……顔見知りの常連さんも増えていた。 北海道は季節ごとに愛してくれるお客さまがいるから、一年の勤めじゃなじめた気もしない。 東京のカフェは仕事を覚えてしまうと毎日来てくれるサラリーマンや、限定商品がでるたびに来店する女子高生なんかと一日、一ヶ月、を怒濤のスピードで生きている意識があったけど、その点、こっちの時間感覚はゆっくりだ。 夏に楽しめる夏野菜豊富なメニューや、冬だけ味わえる温かなスープ料理もある。 それらを俺はまだ一回しかお客さまにお届けしていない。 学生時代は民宿に関わったことがなくて、畑作業や雪かきなどの力仕事を担当している父さんを手伝うだけだったけど、いまはカフェもあって店員でもあるから責任感がまったく違う。 始めたばかりの仕事を、たった一年の未熟な新人のまま投げだすのもどうなんだろう。 しかもその理由が恋愛なんだから余計に悩ましい。 父さんと母さんにもなんて言えばいいんだか……東京にもう一度上京すると伝えて、喜んでくれるのかどうかもあやしい。 就活で辛かったとき、母さんとの電話で『もう嫌だ……帰りたいよ、生きてる価値、ないって、どんどん思えてくるっ……』と一回だけ思いきり泣いたことがあるんだよね。 なんでまた行くの、けっぱらなくていいんだよ、って言われそう。 「――なお?」 呼ばれて、はっとふりむいた。 風呂あがりの賢也さんが濡れた髪と、首にかけたタオルとパジャマ姿で近づいてくる。 「どうしたの、こんなところにぼんやり立って」 「あ、いえ。俺もコート脱いで、雪綺麗だなって眺めてたら、なんとなく」 ごく自然と賢也さんの両腕が腰にまわってきて、背中から被さるみたいに抱き竦められた。 左頬に賢也さんの右頬がついて、背中と頬が風呂あがりの彼の熱い体温に包まれる。 「……うん、綺麗だよね。俺も北海道は冬が好きだな」 「本当ですか? 寒くて嫌じゃない……?」 「長く住んでるなおは短所も知っているから、綺麗なだけじゃ喜べないのかもしれないね」 「ン……賢也さんもきっと住むのは不便だと思うよ。札幌ならまだいいかもだけど」 「そうかな。どんな場所でもなおがいれば天国でしょ」 天国。 ……ちょうどいま悩んでいたことと重なって胸が苦しくなった。 賢也さんも遠距離恋愛は嫌だと思ってくれているのかな。 「雪国だから部屋の暖房機能も充実してるけど、髪ははやく乾かさないと駄目ですよ」 賢也さんの頬に自分の頬を擦り寄せて笑いかけた。 「ン、わかった。なおが可愛いから惹き寄せられて来ちゃったんだよ」 「可愛いことなにもしてません」 「コートを脱いだからパジャマ姿の全体が見られて可愛い」 「ぐ……そ、んな、特別なパジャマでも、ないんですけど……」 「え、結構珍しくない?」 「え?」 旭川に行ったとき買ってきたフリース生地のパジャマに、首まわりまで温かい裏ボア付きのベストをあわせているだけだぞ。 なにか変かな? 「パジャマの全体にシマエナガがプリントされてるんだよ。これレディースだよね? 可愛いって言われてもしかたない格好だと思う」 えっ。 たしかにパジャマはグレーの生地の全体にシマエナガが描かれている。 ベストは白色の無地だけど……これレディースなのっ? 「うちは、民宿が休みのとき両親と車に乗って、一気に買い物することが多いんです。だから部屋着も母が〝これいいよ〟って選んだのをそのまま着てて、なんなら父もシロクマ柄のパジャマですよ」 「そうなんだ。じゃあレディースではないのかな……可愛いことにかわりはないけど」 部屋着ならいいや、って母さんにまかせたのがマズかったか……うぅ、田舎者の哀しさよ。 おしゃれな服屋も少なければ、着飾ったところで無意味だからつい適当になるんだよっ……。 「まあ、賢也さんに好評ならいいです……」 「うん、大好評だよ」 賢也さんが機嫌よさげににこにこ微笑んで、「生地も気持ちいいね」と俺の背中やお腹を撫でてくる。 どきどきしてかたまっていたら、ふふ、と笑った賢也さんが額にキスをくれて「行ってくるね」と再び洗面所へ戻っていった。 すぐにドライヤーの音がブオーと響き始める。 ……賢也さんのパジャマはメンズらしい紺色の、コットンフリースっぽい温か生地だった。 格好いいのは当然として……スーツ以外の、パジャマなんていう本当のプライベートな姿まで見せてもらえて、また現実を疑いたくなってくるよ。 でもこんなパジャマまで可愛いって言われると思わなかったな。 とりあえずベストは邪魔だろうから脱いでおこう、とそれもハンガーにかけてベッドへ戻った。 これからセックスするってのに、シマエナガのパジャマっていうのもムードに欠けるかも。 これも上着だけ脱いでおくか。 上着をたたんで枕もとに置き、タンクトップ姿でかけ布団をめくるとシーツの上に厚手のバスタオルも敷いてあった。 ……賢也さんは本当に愛しあうことに真摯で誠実で、まっすぐだ。 ――俺がネコをしてもいいんだよ。 ――俺はいま男性のなおを愛してるんだよ。だから自分が異性愛者として生きていた過去をなおに押しつけるつもりはない。 ベッドのなかに入って大きな枕に頭をあずけ、天井を仰ぐ。 ――なにも心配しないで、俺と一緒においで。 賢也さんとのセックスはあのときすでに始まっていて、会話を交わしているあいだも続いていたんだな……、とふり返った。 ――ありがとうなお。なおも幸せになってね。でないと俺は心配で眠れないから。 ――……好きだよなお。俺も心から愛してた。 俺はいま現実を生きているんだよな。 賢也さんと再会できて、恋人になれて、想像の熱海デートでもしなかった愛しあうためだけのセックスを、これからしようとしている。 くり返し確認しないと見失いそうなほど幸せが大きすぎて、茫然としてしまう。 この奇跡すら太陽の光みたいにぼうっと眺めるだけになって、手で掴むのを忘れそうになるから、しっかり正気を保っておかなくちゃ。 ……あ、ドライヤーの音が止まった。 「なお、やっと綺麗になって戻ってきたよ、ひとりで」 ぅ。 「……賢也さん、根に持ちすぎです」 「持つよ。一生言い続けるから」 「今夜は一生のネタがたくさんできましたね……」 カレー味のキスと、青い池の想い出と、ひとりきりの入浴と。 「恋人になれた記念日に相応しいね」 賢也さんがウォーターサーバーの水をグラスに注いで部屋の灯りを消してからこちらへ来る。 そしてグラスをベッドサイドに置き、ライトを調整したあと俺の傍らに座った。 ……賢也さんも髪がふわふわ、くしゃくしゃしている。 「……え」 賢也さんが枕もとに置いた俺の上着を見て、おもむろにかけ布団をよけてきた。 タンクトップの肩先や腕がひやりと冷えて軽く身をすぼめたら、いきなり俺の身体の横に腕をついて上半身を倒し、頽れる。 「最悪だよなお……どうして……」 「ぇ、な、なんですか今度は、」 「なおの身体は半分俺のだって言ったよね? なんでひとりでパジャマを脱いだの。俺の幸せをことごとく奪っていくのはどういう仕打ち?」 「し、幸せっ?」 「ちゃんと俺にさせてよ。酷いよなお、男心がまったくわかっちゃいないよ」 なっ、ぅ、あ……。 「ど、どういう意味ですか……?」 わけがわからなくて訊き返したら賢也さんが顔をあげて、右手の指を俺の左耳の上の髪に通して梳きながら見つめてきた。 「……俺がなおのパジャマを脱がしたかったっていう意味だよ」 「脱っ……――それが、男心……?」 「わからないのはおかしい」 完全否定っ……。 「け、けど、シマエナガじゃ、ムードの邪魔だと思ったんです」 「邪魔じゃない。シマエナガにいてほしかった」 「え、ぅ……じゃあ、もう一度着ますか?」 「もうムードは完璧に壊れたよ、やりなおしは難しいね」 とりつく、島も、ない……。 賢也さんはため息をつきながら俺の右頬を噛み、熱い左手で冷えた右腕を撫でてくれる。 「……なら、あの……明日は、パジャマも、……賢也さんが脱がせてください」 右耳の下の顎のところも舐められて強く吸われた。 「ンっ、ん……」 「明日までのおあずけがたくさんだ。……仕方ない子だね、なおは」 顎から首筋へ賢也さんの唇がたどっておりてきた。 右腕をさすってくれていた掌も肩にのぼってきて、タンクトップを肩下までおろされる。 「け、賢也……さ、」 「でも、ムードがなくても、なおの身体が色っぽくて滑らかで……とても官能的で困る」 鎖骨を甘噛みされて、賢也さんの髪が口もとについてくすぐったくて、湿った唇の感触も気持ちよくて、体温と香りも近すぎて、すでに意識が蕩け始めている。 「か、ん……のう……あり、ます……か、」 「うん……甘い匂いがして、吸うとやわらかくて、舌になじんで……綺麗で目眩がするよ」 腋のあたりと、胸の上も吸い寄せられて、じりと肌が快感に痺れて身を竦めた。 「――素直」 顔をあげた賢也さんが、橙色のライトの光に頬を半分溶かされて、愛おしげに俺を見おろしてくれている。 「……好きだよなお。心から愛してる」 ――……好きだよなお。俺も心から愛してた。 あのときは別れの……終わりの告白だった言葉が、いま、また動きだした。 生まれ変わった。 俺も左手を伸ばして、賢也さんの光に溶ける右頬を包んだ。 彼の頬と一緒に、自分の左手も光っている。 「好きです、賢也さん……好きです、これからも毎日、俺もずっと、愛してます」 心の喜びと熱をそのまま表情にしたような、途方もなく幸福そうな温かい笑顔をひろげて、賢也さんが俺の唇に自分の唇を重ね、唇と舌でも、愛してるよと伝えてくれる。 俺も応えたくて口をひらいて賢也さんの舌を受けとめ、両腕で彼の背中を抱き寄せた。 焦がれ続けていた人の手が、自分を触ってくれている。 心の痛みの底で繋がりあえた無二の相手と、身体にくちづけあって、愛であえている。 身体を舐めて撫でられながら心が溶けていきそうだ。 ……知らなかった。 愛って本当に熱い。 ←BACK//TOP//NEXT→ |