「――先にひとつ話しあっておきたいことがあるんだけど、なおはどういうセックスを望んでいるかな」

 賢也さんのしずかで真摯な表情と声を、白い雪が掠めていく。

「どう、いう……」

「いわゆるタチ、ネコっていう立場や、挿入に対する抵抗意識や、」

「だ……大丈夫、です。……抵抗は、ない、です。立場も……ネコで、平気です」

 自分も真剣に返したいと思うのに、羞恥心も拭いきれなくて声が上擦った。

「……前の人にレイプまがいのことをされていたんでしょう? いまだに恐怖心があったり、性交渉自体もうしたくないと怯えていたりするなら無理にしなくていいんだよ。なおが幸せだと想えることをしたいし、それが俺の幸せでもあるんだからね」

 手袋とマフラーをしていない首と手に雪がぶつかって痛い。だけどそれ以上に、賢也さんの途方もない優しさが……聞いたこともない慈愛に満ち溢れた価値観が、俺の胸を至福感で締めつける。

「……大丈夫です。むしろ……知りたいです。本当に、愛しあうためだけのセックスが、あるなら……賢也さんと経験して、知りたいです」

 もうすでに胸が痛くて熱くて幸せすぎて苦しい。

「俺がネコをしてもいいんだよ」

 苦しくて仕方ないのに、またさらに驚愕して、胸を押さえながら賢也さんを見あげた。

 彼は依然として、穏やかな愛情を目もとに浮かべている。

「け、賢也さん……賢也さんこそ、そんな無理なこと、」

「どうして無理だと思うの」

「どう、してって……賢也さんは……ノンケで、女性としか、経験が……」

「俺はいま男性のなおを愛してるんだよ。だから自分が異性愛者として生きていた過去をなおに押しつけるつもりはない。男性同士だと挿入は重要視しなかったり、逆に挿入しあったり、ふたりの気持ち次第で自由な愛しかたができるらしいね。知れば知るほど愛しあうためだけの行為っていう意味がわかって羨ましくなるばかりだった。なおがいままでできなかったことや、してみたかったことも、あれば教えてほしいと思ってるよ」

 ――……なあ、俺、ちんこ挿入れられるとかマジ怖ぇんだけど、ナオネコしてくれるよね?

 ――浣腸もしろって書いてあるよ、無理すぎ、キッチィー……っ。

 ――その顔でナオが挿入れるって、なんか変じゃん……?

 ――俺、ナオに挿入れたいよ……。

 左目の下が冷たくて、雪かと思ったら自分の涙だった。

 ……思い出してしまった。そういえば、昭之はこっちにいたころから横暴な奴だった。

 注射嫌いだからそりゃ無理だよな、と当時はあっさり諦めたし、自分は抱かれる側なんだろうと、はなから予感していたから受け容れたけど、俺は〝愛の営み〟をする前段階からずっと見下されてばかにされていた。

 性欲発散の穴扱いされていた。

 あいつの我が儘を受けとめるのが俺の役目なんだ、と変な思いこみで自分を雑に扱って価値を下げていた。

「……ほら。泣くほど辛かったんでしょう」

 賢也さんが右手で俺の頬を覆って、涙を拭ってくれる。

「ううん……違います。賢也さんが好きで、恋人にしてもらえて嬉しくて、幸せで……それで泣いてるんです」

「本当かな。……場所が場所だけに抱きしめられないのが辛いよ」

 民宿と、まだ閉店作業中のカフェの灯りが俺たちのいる駐車場を照らしている。

 いちゃついていたら誰にバレるかわからない危うい場所だ。

「……とりあえず一度部屋に戻りましょう。雪も降っていて立ち話してるのはよくないから。俺は無理でも遠慮でもなんでもなく、賢也さんに抱かれたいです。タチになるって考えたことなかったけど……賢也さんがもし望んでくれるときがきたら、俺もします。恐怖心もないです。俺も賢也さんと一緒に、おたがいが満たされることをして……幸せに、なりたいです」

 照れ隠しをしながら笑いかけたら、賢也さんが俺の後頭部を帽子越しに撫でてくれた。

 頭を撫でるって子ども扱いにも似ているけど、賢也さんのしぐさと表情には〝ありがとう〟〝好きだよ〟というふうな慈しみのみが浮かんでいるから心まで温かくなる。

 この人は〝よくできました〟〝いい子いい子〟なんて上から目線で俺を見ない。

 ……すごく不思議だ。
 手にも、こんなに表情や感情があるんだな。

 賢也さんの掌に包まれてしまったら、いったいどこまで幸せになってしまうのか……そっちのほうが怖いぐらいだ。

「……わかった。じゃあこのまま俺の部屋に来てくれる?」

「あ……っと、それは……」

「お腹を綺麗にする必要もあるんでしょう。ちゃんとなおの傍にいさせてほしい」

 賢也さんの双眸が、心臓を貫かれそうなほど優しく真剣で息が止まった。

「う、ン……賢也さん、それも、用意してくれたんですか」

「もちろんだよ」

「なら、その……それは、いただきます。でも、今夜はひとりで準備させてください。さすがに……恥ずかしいです」

「なおの身体が辛いとき俺は傍にいたいんだけど、そういうことでもない?」

「ない、です……一応慣れてるからそこまで辛くないし、賢也さんの気持ちはもちろん嬉しいんですけど、恋人になれた今日、賢也さんの前でトイレにこもるの……無理すぎます」

 昭之との同居生活で、他人と生活の生々しさを見せあうっていう経験も積んではきた。

 賢也さんとは遠距離恋愛必至で、今後ふたりで数泊することも多くなると思う。
 いずれは羞恥心も薄れていくんだろうけど、でもやっぱり、今日は、どうしたっていやだ。

「……わかったよ。ならいったん一緒に俺の部屋へ行って、必要なものを渡して別れたあと、なおの落ちついたタイミングで俺のところに戻ってきてくれる?」

「はい」

「連絡先も交換しよう。あまりに遅かったら心配になるからメッセージだけでもしたい」

「あ、はい……まだ交換してなかったんですよね、俺たち。ふふ」

 雪がすこし強くなってきた。

 ふたりして足早に民宿へ入り、受けつけカウンターにいた母さんに「ただいま」と挨拶してから二階の賢也さんの部屋へ行った。

 ドアの鍵をあけた賢也さんにうながされて、失礼して先にお邪魔する。

 真正面はテラスへ続くガラス戸になっていて、左側にテーブルセット、右側にベッドがある。
 二階の客室は二部屋とも二十畳ほどあるかなりひろい空間で、ガラス戸と、ベッド側にあるガラス窓から雪景色を眺めつつゆったり過ごすだけでも癒やされる、と冬期も人気だった。

 賢也さんはテーブルセットの椅子にボストンバッグをひとつだけ置いていた。
 ずっとカフェにいてくれたせいか、ベッドのシーツに座った形跡すらなくすべてが整然としている。

「なお」

 ふいに、背中から温かくて大きな……賢也さんの身体に抱き竦められてどきりとした。

「……本当は傍にいたい」

 苦しげな声を絞りだしながら、左手でお腹を撫でてくれる。

「……大丈夫です、本当に」

 俺も右手で賢也さんの左手を覆って撫でた。

「……負担をかけてごめんね」

「負担じゃないから。俺の、夢でもあるから」

 ぎり、と両腕でさらに強く縛りつけられる。

「……昔、病院で検査をするとき、ひとりで採精室にこもって精液を採取するのが辛かった。夫婦と新しい命のためだったから、辛いと言うと語弊があるんだけどね。今回もまた駄目かもしれない、自分の身体が欠陥品なばかりにまた紗英たちを傷つけるのかもしれない、と考えてしまうと、どんどん孤独になっていって、虚しくて……恐ろしくて、」

「賢也さん……」と俺の左頬に顔を寄せて話してくれている彼に、自分も頬を擦り寄せた。

「だから嫌なんだよ。ふたりで幸せになるための行為なのに、なおをひとりで頑張らせるのが。……それだけ知っておいて。辛かったり助けが必要になったりしたら、すぐに呼んでほしい。遠慮する必要はないから」

 ああ……賢也さんが俺の身体を気づかってくれる想いの、根の部分をきちんと理解できた。

 採精室にいた自分とトイレにこもる俺が、賢也さんのなかで重なってしまうんだね。

 ただ優しいだけじゃないんだ。
 賢也さんを人生でもっとも苦しめた過去が彼の愛情と誠実さに深く結びついている。
 心の傷の痛みを知っているから、この人の想いやりには底がない。

「……ありがとう賢也さん。遠慮しないでちゃんと頼ります。ひとりで我慢しても、賢也さんは喜んでくれないってわかったから」

「うん、全然嬉しくないよ」

 浣腸とか便秘薬とか、そんな言葉を聞くことすら嫌悪して昭之は見ないふりをしたな……。

 比較したくはないけれど、明暗鮮やかに真逆で何度となくしんみり驚嘆してしまう。

 明日しよう、準備頼むよ――と昭之に放られて、初めてのときはひとりでドラッグストアに行って怯えながら会計して、自宅のトイレで数十分過ごしたのち、風呂で懸命にほぐした。

 賢也さんがたどってきた孤独や虚しさや辛さを、俺もすこしなら感じとれるだろうか。

「……撫でてくれる人は、撫でられたかった人なのかもしれませんね」

 賢也さんの大きな左手の甲の繊細な指骨を、自分の掌でなぞった。

「俺もそのころ賢也さんの傍にいたかったな……ってすごく想う」

「……なお」

「でも本当に、痛みとか辛さはないから安心してください。身体に悪影響を及ぼす薬を入れるわけじゃないんです。賢也さんと抱きあえるんだって……わくわくしながら準備してきます」

 身体を捩ってまわし、賢也さんとむかいあった。夜の車内じゃなくて明るい場所で見る賢也さんはただでさえ素敵なのに、間近で切なげに、愛おしげに眉を寄せて俺を見つめてくれていたものだから、ぐっと胸が詰まって、彼の首もとに顔を埋めて両腕でしがみついてしまった。

「……ありがとうなお。……なおが好きで、好きすぎて苦しいよ」

 賢也さんも俺の背中をきつく抱きしめてくれて、おたがいのむくむくしたコートと帽子と、賢也さんのひろい胸と匂いと体温にぴったり包まれていると、俺も恋しすぎて目眩がした。

「……うん、俺もです」

 くっつくと放せなくなってしまう。

 自分から手をおろすのは無理だから賢也さんが抱擁を中断してくれるのを待ったけど、彼もじっと停止してしまった。

「……放せないな」

 やがて、低い声で呻いた賢也さんが喉で苦笑いし始めて、俺も吹いて顔をあげた。

「俺も、賢也さんに触ってると放れかたわからなくなる」

 くすくす笑いあう唇に、彼が食むだけのキスをくれる。

「朝まで一緒にいるために、用意しようか」

「ふふ。……はい」

 そしてスマホの連絡先を交換して、賢也さんが買い揃えてくれたものを見せてもらった。

 賢也さんはお腹を綺麗にする薬と、ローションとゴムと、うしろをほぐすための道具もふたつほど持ってきてくれていた。

「痛みを感じないように、大事なものは一通り選んでおいたよ」

 実家にいたころネット通販で購入するにしても親の目が怖くて、本当は欲しかったのに我慢していた器具と玩具だった。

 ……あのころつきあっていたのが、こんなふうにセックスについて一緒に向きあってくれる賢也さんみたいな男だったら、俺は尻の切り傷にひとりで嘆いたり、惨めな気持ちになったりしなかったんだろうな。

「……ありがとう賢也さん。必要そうならあとで使います。……なんかまた涙がでそう」

 賢也さんが右手で俺の頭を抱き寄せて、左のこめかみにくちづけてくれる。

「なおもやっぱり辛かったんだね」

「いえ、そんな……」

「……なおにふられる可能性だってあったのに、結構インパクトのあるものを持ちこんでいた自分が、冷静に考えればなかなかマズい奴なのは自覚してるんだよ」

「マズくないしふらない」

「そうやって、俺の気持ちを受けとめてくれる大人で優しいなおも、たくさん苦しい思いをしたんだろうね」

 こめかみに唇をつけたまま、賢也さんが俺の右耳のあたりや、肩先を撫でて慰めてくれた。
 じわりと涙が溢れて、目を潤していく。

「……俺、賢也さんになら乱暴に抱かれてもいい気がしてきた」

「しないよ」

 ここで叱る口調で即答してくれるあなただから、なりふりかまわず飛びこみたくなるんだよ。

「もたもたしてるの嫌になってきたから、……じゃあ行ってきます。心配かけないように連絡もするので待っててくださいね」

「……ン、わかったよ」

 二回だけ唇を吸いあうキスをして袋を持ち、賢也さんの部屋をでようとしたら、蕩けたような愛おしげな表情で「送るよ」とまで言われて、思わず抱きついてしまった。

「大丈夫です、隣の建物だから」と笑って断ると、すこし押し問答になったけど、賢也さんが折れてくれてなんとか外へでられた。

 目と鼻の先にあるカフェの二階の、俺の部屋まで送るって……昭之は『さみぃからひとりで帰って、ごめん』ってよく言ってたな。

 彼氏に家まで送ってもらうってどんな気持ちなんだろう。
 ……甘えてみてもよかったかな。
 でも賢也さんに寒い思いしてほしくないしな。

 カフェは閉店作業も終わったのか灯りも消え、諒さんも帰宅したようすだった。
 裏の階段で二階にあがり、玄関扉の鍵をあける。

 部屋に着いてコートや帽子を脱ぎ、水を飲んで一息ついたら、スマホが鳴った。
 ……あれ、賢也さんからのメッセージ?

『無事に帰れた?』

 読んだ途端、スマホを落としそうになった。

『大丈夫です。安全確認が必要な距離でもないですよ。賢也さん優しすぎてびっくりする』

『クマとかでるかもしれないし』

『もう冬眠してます。それにクマがいたら余計に見送り頼んでません』

『ごめん。俺がなおと一瞬でも離れていられないだけだったね』

 スマホ画面から熱風が吹き荒れたのかと錯覚するぐらい文字の火力が凄まじくて、顔面が燃えて茫然としてしまった。

 これ本当に賢也さんが届けてくれたんだよね……?
 誰かが嫌がらせで賢也さんになりすましてるわけじゃないよな? と、つい疑ってしまいつつ、正気を保って返事を考える。

 俺がなおと一瞬でも離れていられないだけだったね。

 俺がなおと一っしゅんでもはなれていられないだけだったね。

 おれがなおと、……。

 ちょっと待ってよ、こんな甘いメッセージにどう返したらいいの?

〝俺も離れたくないです〟って? でも帰りたいって頼んだの俺だし。

〝嬉しいです〟だけだとなんか軽い。俺の幸せも伝えきれていない。

〝もう賢也さんったら〟は無いよね、脳みそ溶けすぎてる。

〝賢たんのばか〟……駄目だ壊れてきた。

 う、ぅー……。

『心は賢也さんのところにいるから』

 結局しょうもないポエムみたいになった。

『はやく戻るために準備してきますね』と続けてスマホをテーブルに置き、水をもう一口飲んでから、火照る頬を手で煽ぎつつ賢也さんにもらった薬をだす。

 はー……こんな恋に浮かれた恋人同士っぽいことをしてもらうのも、するのも初めてすぎてあぷあぷする。

 俺が昭之と賢也さんを比較しても意味がないと思うように、賢也さんに対してもこんなこと考えちゃいけないってわかっているけど、彼に離婚歴があるのも奥さんに不倫されていたのも嘘じゃないのか、とますます信じられなくなっていくよ。

 どうしてこの人が、どうしてこの人を、――って他人の俺が煩悶しても不毛でしかないよな。夫婦の問題なんだし。

 これからは自分が、こんなに熱い愛情を寄せて大事にしてくれる賢也さんを裏切らないように想って、彼の傷ごと癒やしていけばいいんだ。……うん、そうだ。

 スマホについているビリケンさまの位置を整えて、ぱちぱちと手をあわせて祈った。

 賢也さんにまた会わせてくれてありがとうございます。
 ふたりでめいっぱい幸せになります。



 大学のころできた女友だちが、『うち便秘気味で浣腸するの癖になってるんだよね……』となにげなく洩らしてため息をついたとき、その一瞬で、謎の親近感が湧きあがって救われたのを憶えている。

『そうなんだ、女の子って便秘になりやすいって言うよね。辛いね』と彼女の呟きを拾ったら逆に驚かれて、『男ってこういう話、嫌いじゃない? ごめんね、女子校のノリだったよね、ナオ優しいわ』と照れて笑っていた。

 身体に影響のある大事な事柄でも、デリケートな話は、たしかに嫌悪する男って多いのかもしれない。
 妊娠、出産もそうだけど、女性にまかせっきりで〝そんなところから人間ひとり出すって、痛すぎて無理〟〝俺は生んでないから自分の子どもって実感が湧かない〟などと逃げ惑う無責任な声もよく聞く。

 女性が背負う大変さや負担は、もちろんわからない。
 わかる、なんて言うのも失礼だと思う。

 でもゲイとして、男に抱かれながら数年男とつきあってみて、賢也さんがどれだけ頼りがいのある包容力に満ちた男性かはよくわかる。

 三十分ぐらい経過してお腹のなかがすっきり綺麗になると、そのまま風呂へ入って自分の指で軽くほぐした。

 さすがに一年ぶりだからきつくなっていたものの、丁寧にくり返すとやわらかくなってくれてほっとした。

 あとは賢也さんと相談して、必要そうなら道具を使おう。

 ――……セックスっていうのは、本来そういうものかもしれないよね。

 ――忘れてたな……。

 いや、違いますよ、と本当はあのとき軽く心のなかでつっこんでいた。

 性交渉は繁殖行為で、子どもをつくるための交わりなんです。

 だけど賢也さんが俺たちのなにも生まないセックスに対して、寂しいほど切実な憧憬に暮れていたから、……俺もそんな愛情だけのセックスがあるなら経験してみたいな、と一緒に焦がれてしまった。

 別れて、東京からも離れて、こっちで新しい生活を始めたら恋愛自体がもう遠い夢になっていたのに、まさか賢也さんが会いに来て、恋人になってくれたなんて。……うーん。

 やっぱりまだ意識がふわふわしちゃって現実だと思えないや。

 会いたすぎて好きすぎて、俺ものすごい妄想の世界に迷いこんだんじゃないかって気がしてくる。
 だいたい、賢也さんの言動は全部が全部まるっとすべて理想どおりでしかないし。

 湯船に浸かりながら賢也さんに思いを馳せていると、のぼせて蕩けてきたから、身体を洗って風呂をでた。

『なお、辛くない?』

 スマホにまた賢也さんのメッセージが届いている。

『はい。幸せいっぱいです。もう準備できたので、十分ぐらいで賢也さんの部屋に戻ります』

 パジャマを着て髪を乾かし、お泊まりセットを用意してからコートを羽織って部屋をでた。

 途中、民宿の一階にある両親の部屋に寄り、賢也さんの部屋で過ごすことと、明日と明後日の二日間、休暇が欲しいことも告げた。

「賢也さんってそったらさ大事な人なの?」

「うん、東京ですごくお世話になった人なんだ。歳が離れてるから就活で悩んでたときも励ましてくれて、支えてもらった。だから観光案内したり、一緒にのんびりしたりしたい」

 ふたりは内地の人が来てくれると過剰なほどもてなしたがる。
 それに、俺が就活で精神的にかなりまいっていたのも知っているので「じゃあしっかりご恩返しなさい」と許可をくれた。

「素直がお世話さなったんなら、父さんも挨拶しておきたいなあ……」

「うん、あとで賢也さんにも伝えてみる」

「頼むよ」

 ちょっと話しすぎて五分ぐらい遅刻してしまったけど、仕事も休みをもらえたし賢也さんも喜んでくれるかな、と期待しつつ、その後二階へ移動して賢也さんの部屋のドアをノックした。

「――賢也さん、戻りました。素直です」

 すぐに室内から足音が近づいて来て鍵があき、ノブがまわってドアがひらく。

 ドアが傾いていくにつれ、夢や妄想の世界じゃない本当の、現実の賢也さんがまた目の前に現れて……自分の頬も自然とほころんでいくのを感じた。

「なお」

 ……と、対面した次の瞬間、賢也さんの明るかった表情が見る間に不機嫌そうな、不愉快そうないびつなかたちにゆがんでいった。

「……がっかりだ」

「え」

 目が据わって、唇も尖っている。

 ……え。なんで。

 どうしてだろう。



 俺、なにした……?









































 ←BACK//TOP//NEXT→