昭之は暴力を振るわない。手をあげて殴りつけたり、足蹴にしたりは絶対にしない。 調子に乗ってチャラけた服装と髪型と口調になって、偉そうに他人を威圧し始めたところで、悪になりきる度胸などないからだ。 そういう意味では、俺は昭之を怖いと思ったことがない。 あいつが振るう暴力は言葉とセックスで、嫌なのはそっちだった。 暴言は結構な傷を負うんだと、杉浦さんに教えてもらってしまった。 不快感とか不満感とか、そういう鬱憤は心の底に確実に溜まって酷いストレスと深い傷を生み、心神喪失の原因になる。 昭之と一緒にいても俺は孤独で、どんどん孤立していって、おまけに就活でも自分の存在意義を見失って、生きかたが、なにもわからなくなっていた。 杉浦さんがいてくれたから、俺はいま、生きられている。 「――なあおい、帰ってるのかナオ」 あのとき杉浦さんに嘘をついてしまった。 本当は、あの顔の傷は昭之がつけたんです。 杉浦さんの心の揺れを察知した瞬間、自分の想いは完全に恋情だ、と自覚してしまったから、昭之とは別れようって決意したんですよ。 だけど昭之に『話したいことがある』って言ったら、さすがに長年のつきあいのせいなんでしょうね、そのひとことでなにを言われるのかあいつもわかったみたいで、『俺はねえよ』と、目線を逸らしてコーヒーカップを持ち、キッチンへ逃げました。 で、追いかけて『聞いて、お願いだから』って腕を引いたら昭之が俺をふり払ったのと同時にカップを落として、俺もすっ転んで、ほっぺたに欠片がぶつかったんです。 掠り傷だったけど血だけは大量にだらだら流れだして、赤く染まる俺の顔を目の当たりにした昭之は、硬直して立ち尽くして、唇を震わせて怯えて、いまにも泣きだしそうだった。 それでもう……なんだか、呆れるわ情けないわで、俺は昭之を保護者みたいな感覚で見ているのかもしれないって気がついたんです。 最後には保護者としても手を放してしまったけど。 「おい、呼んでるだろ」 部屋のドアを昭之ががんがん叩いている。 俺は床を滑らせていたハンディ掃除機を止めて立てかけ、ドアをあけた。 「……。なに、してんだよ」 いまのいままで居丈高な態度で俺を呼んでいたのに、ひさびさに帰省から戻った俺の顔と、がらんどうになった室内を見た途端怯むようすが滑稽だった。 「荷物の片づけは終わったよ。今日で俺、この家出ていくから」 もともと大きな家具は持たないようにしていた。 お気に入りのラックや小物は発送したし、衣類や生活用品も段ボール数個を北海道に届けてもらうだけで事足りた。 デスクやベッドなんかは友だちに譲ったりリサイクルショップに運んだりして処分した。 幸い今回の引っ越しは家電製品のことまで考える必要はない。 レンジも冷蔵庫も洗濯機も、昭之がここで使い続けるからだ。 「最後にちゃんと話をしよう昭之」 左腕を掴んでリビングまで引っぱって行くと、「ぅざっけんなよっ」と昭之がふり払って鼻息荒く俺を睨んできた。 「出ていくなんて聞いてねえし」 「言ったよ、何度も。デスク運ぶときもベッド捨てるときも、〝友だち来てくれるから〟とか〝店行ってくるから〟って声かけてただろ」 「知らねえって」 「おまえがちゃんと聞こうとしなかったせいだよ」 「つか俺は許してねえから! 家賃どうすんだよ、ひとりで払っていけっていうのかよ!」 「その話も何回もした。帰省してたあいだだって俺はおまえに何度も電話とメッセしただろ。でも一度も応えてこなかったよな。それが返事なんだろ? おまえは就職決まってるんだからひとりでどうにかしろ。無理なら友だちにでも住んでもらってシェアしたら?」 横にあるリビングのテーブルに封筒を置いた。 「とりあえず今月分の家賃は振りこんでおいたよ。この銀行口座も俺はもう手をつけないからカード置いていく。スマホのアプリも消したけど、もしなにかトラブったとき巻きこまれたくないからあとで暗証番号変えておいて」 同居を始めたとき、家賃支払いのための共有口座をつくり、ふたりで管理しようと決めた。 『俺はアプリだけでいいや、カードはナオが持っててよ』と昭之に手渡されて、当時の自分は新しい生活にわくわくしていたように思う。 「……気がついてただろうけど、本当は上京してきた年にはおまえと別れたいと思ってたよ。変わっていくおまえについていけなかった。だけど引っ越してひとりで家賃払っていくことができなかったから我慢してたんだ。親にも〝昭之と同居やめたいから仕送り増やして〟なんて言えないしさ。昭之とシェアできるって言うのが上京許してもらう条件でもあったし」 「うる、せえな、黙れよ、」 「俺も全然綺麗な人間じゃないよ。恋愛感情なんかなかったのに、おまえのこと利用して今日まで同居してたよ。おまえがスレていくのを止めたりもしなかった。けど人の親を〝ババア〟〝ジジイ〟って乱暴に呼んでくるようなクソ野郎に、どうして親身になろうと思えるんだよ。思えるわけねえだろうが」 「黙れ! 就職もできねえで実家逃げ帰るガキが説教垂れてんじゃねえよクソが‼」 言い捨てて部屋へ逃げようとするから、右腕と服を引っ掴んで怒鳴りつけた。 「おまえ俺の母親が野菜送ってきてくれるの、やめさせろって言ったよな? うちの親は昔、おまえがうちの畑の野菜を食べて『おばちゃんたちの野菜大好き! 世界一だよ!』って喜んで食べたの憶えてんだよ。だから送ってきてくれてたんだよ。両親にもおまえがこっちに来て〝ババア〟だの〝ジジイ〟だの呼ぶようになったなんて言えなかったよ、それ尻に挿入るとか、気ぃ狂ってるとしか思えなかった、本気で軽蔑した」 昭之が逃げたがって身悶える。 でも突き飛ばそうとはしてこない。 前に俺の頬を傷つけたのがトラウマになっているからだ。 「おまえも俺に不満があるんだろ。でもどっちが先に裏切ったかなんて考えても仕方ないところまで来ちゃったよな。〝おまえが悪い〟っておたがい責めて堂々巡りだ。こうなったらもう修復もできないんだよ。少なくとも俺はおまえとやりなおす気がない。だから別れよう」 「うるっ……せえって、言ってんだろっ‼」 昭之が力を振り絞って俺をひきずりながら自室へ向かい、俺が手を放してしまった瞬間ドアをしめてひきこもった。 「昭之!」 今度は俺が昭之の部屋のドアを叩いて呼ぶ。 「おい、いい加減にちゃんと話をしろよ‼」 「黙れ、俺はなんも認めねえ、別れるとか言ってンじゃねえ‼」 「駄々こねんなよ、このまま一緒にいてどうなるんだよ、おまえに毎日〝就職できない〟だの〝女々しい男〟だの〝女みたいな身体〟だの見下されながら黙ってつきあえって言うのかよ、それがおたがいの幸せだって? だとしたらすげえ自己中だよな⁉ おまえもいつまでも俺に甘えてんじゃねえ‼ 新社会人の大人なんだろ、違うのかよ‼」 金の心配がなくなった途端に牙を剥いて、心の奥に押しとどめていた本音をぶちまけてさ。 俺もおまえを責めていいような人間じゃないよ。 生活費とコンプレックスと性指向と自分の存在価値について懊悩しすぎて、杉浦さんに痴漢して息の根止めてもらおうとしたとか……我ながら精神崩壊して狂ってたなと思う。 電車のなかでだけ恋人になってくれて、一度だけ夢の世界で旅行をしてくれた杉浦さんも、指輪をつけなおして奥さんのもとへ帰っていった。 綺麗でも正しくもない人間だから、全部終わったいま俺はここにひとりでいるんだろう。 これからは後悔と反省の人生を生きるよ。 田舎で生まれたゲイなのに、高校生のころ昭之に恋愛の楽しさを教えてもらったことは感謝してる。 またおまえが帰省したときにでも、美瑛で会おう。 おたがいしばらく離れて過ごせば今日のことも過去の笑い話にできるんじゃないかな。 「……おい昭之」 何度かドアを叩いてみたけど昭之はでてこない。 これ以上待っても無理かな、これで別れるしかないのか、と諦めかけたとき、勢いよくドアがひらいて右腕を掴まれ、部屋に強引に連れこまれて窓際のベッドへ叩きつけられた。 「いっ、……あきゆ、」 「黙れよ‼ 俺はぜってえに別れねえ……‼」 ものすごい力でパンツのベルトをはずされて一瞬でホックとジッパーもさげられ、下着ごと掴みおろされそうになった。 「やろよっ‼ ……やだ、触るなっ‼」 こいつのセックスは暴力だと思ってはいたけど、初めて明確に、気持ち悪いと感じて背筋が凍った。 血走った目で俺の下半身を露出させようとしてくる昭之の眼光や切羽詰まった表情が怖い。 触られたくない。 気持ち悪い。 汚い。 「いっ、……やだっ‼」 足で昭之の上半身を蹴り倒して突き放し、急いで起きあがって右拳で思いきり頭を殴ってやってから転がるように部屋を飛び出した。 自分の荷物を引っ掴んで玄関へ急ぎ、靴も鷲掴みにして裸足で外へ逃げる。 それで玄関の鍵をしめて、その鍵をドアポストに投げこみ、一目散に駅へ向かった。 ジャケットに袖をとおしてバッグを肩にかけ、パンツのベルトをきっちり締めなおす。 アパートからだいぶ離れた人目のある場所で、一度歩みを止めて靴を履いた。 はあ、はあ、とまだ息が乱れている。 あー……結局こんな最後か。 ほんと、ガキ同士のお遊戯恋愛だったな。 想いやりの欠片もなく自分たちの欲望をただぶつけるだけで、関係をめちゃくちゃに壊して終わっていった。 あいつを殴った右手が酷い痛みに覆われて痺れている。 靴下にも小石かなんかがくっついていたのか、右側の靴のなかに違和感があって痛い。 アパートからどんどん離れて駅に近づくにつれ、周囲に人が増えていった。 午後なのにスーツ姿で道を急ぐサラリーマン、背中をまるめてのんびり歩くおばあちゃん、春休み中なのか公園で笑い声をあげながら遊んでいる子どもたち。 一歩一歩進んでいくたび、背後に置いてきた薄暗い現実が遠退き、他人が日々を生きている拓けた世界の現実が肌に浸透していくのがわかる。 ここでまたこうやって生きていくうちに、昭之も、杉浦さんも、過去になる。そう思った。 学生っぽい女の子ふたりが、駅前の店で売っているクレープを食べながらすれ違う。 ここまで来れば昭之も追ってこないだろうし、ましてや強姦などするはずもない。 他人の気配が、昭之に怯えて鼓動していた心臓を徐々に和らげていってくれる。 改札口を通って駅のホームに入ると、さらに安堵感が増した。もう大丈夫だ。……たぶん。 靴のなかにまだ違和感がある。 ホームの先頭に立って右脚をあげ、靴を脱いで石ころっぽいゴミをふり落とした。 「――まもなく、二番線に急行電車がまいります」 アナウンスが流れてはっとした。ホームの向こうから電車の厳つい顔が近づいてくる。 慌てて靴を地面に落として右足を突っこみ、黄色い線の内側にさがった。 その瞬間、頭のなかに杉浦さんと過ごした短いあいだの想い出が一気に溢れだしてきた。 ――きみはどうして俺を触ろうと思ったの。 ――店で夕飯をごちそうしてよ。それで終わりでいいから。 ――きみはさっき、俺がもっとも辛かったときに欲していた言葉を、全部言ってくれたんだよ。決して救われていい人間じゃないのに、きみは救ってくれた。それはきみにとって存在価値にならないかな。 ――痴漢じゃなくて、撫でてもらってたんだと思うことにするよ。俺の身体の欠陥を。 ――ここでは、なおは俺の恋人だからね。 ――……なおに幸せになってほしくて選んでみたよ。お守りは自分で買うより、人からもらったほうがいいって聞いたこともあるからあげたかった。 ――俺は素直が幸せじゃないと辛い。 ――残念ながらそんなおままごとじみた意識じゃないよ。人生を救ってもらう経験は得がたくて、誰にでも起きる奇跡じゃない。……救われたし、救いたいと想う。こんな感情を抱ける相手を愛さないわけがないでしょう。 ――ありがとうなお。なおも幸せになってね。でないと俺は心配で眠れないから。 ――……好きだよなお。俺も心から愛してた。 毎朝一緒に乗っていたのとおなじ色をした電車がホームに入ってきて髪が風に浮きあがる。 知らないあいだに涙が下瞼に膨らみ始めていて、ジャケットの袖で拭って洟をすすった。 ……さようなら賢也さん。 さようなら。 あなたと出会えた電車に乗ることは二度とないから、あなたにも、もう二度と会えない。 本当に救われました。 死んでいた心を、生き返らせてもらいました。 好きだとか、そんな浮かれて弾んだ想いだけじゃないんです。 俺もあなたに会って自分自身を見つめて、自戒して後悔して、胸を張って生きられる人間になろうと、そのためにもう一度生きようと、考えられるようになった。 自分の人生に光を見いだせた。 生きる勇気をもらえました。 賢也さん。 黄色い線の内側で生きなさいって、俺に教えてくれたのはあなたでした――。 ←BACK//TOP//NEXT→ |