「ゃ……賢也、さ……ンっ、」

 何度も意識から遠退いては戻ってくるハザードランプの規則的な音がまた大きくなる。

 そろそろ青い池に行かないとライトアップの時間も終わってしまう。

 ちゃんと理性的な焦りも湧くのに、賢也さんの唇は離れたと思ってもくり返し口端を舐めて吸ったり、頬を甘噛みしたり、タートルネックの奥の首筋を食んだりして愛撫を続けてくれて、俺も、やめよう、のひとことが口からだせない。

「は、ンっ……ぁ、」

 たまに俺たちの車をよけて、ほかの観光客と思われる車も通り過ぎていく。

 ……もういっそ今夜は落ちつくまでこのままキスを続けていてもいいかな。
 賢也さんは明日も宿泊予定だし、青い池も、また明日の夜で……。

「――なお」

 俺の首を噛んで、正面に戻ってきた賢也さんが唇も軽くがぶと噛んでから、はあ、と息を洩らした。

「困るって言ったでしょ、色っぽい声だされると」

 大きな両手で俺の両耳を覆ってがっちり押さえ、額同士をつけて言う。

 ……あれ、怒られている?

「や、でも、賢也さんに触ってもらったら、そりゃ……声だって、でます」

「場所を考えて」

「り、理不尽だよ、」

 なにこの喧嘩っ? と怒りも焦りも甘すぎる言い争いに唖然としたら、今度は思いきり両腕で抱きしめられて、身体が縮まりそうなほどぎちぎち縛りあげられた。

「い、いたっ……」

「……とりあえず青い池に行こう。運転するから、もう誘惑するのは無しだよ」

 俺の右肩に顔を埋めて、逞しい大きな身体をした大人の男が、なにか言っている……。

 帽子の下からはみだしている耳たぶを噛んで吸われて、唇にも最後のはむと噛まれるキスをされても、喉の奥にンンと声を押さえこんで我慢した。

 は、とため息みたいな吐息を洩らし、賢也さんは前方へ向きなおって車のハンドルを握る。

 ハザードランプがようやく消えて、再びのっそりと車が走りだした。

 背の高い枯れ木が左右に並ぶ暗い夜道を、ライトで照らしながら進んでいく。

「ゆ……誘惑、してない、です」

 現実が戻ってきても、……というか、現実が戻ってからのほうが、賢也さんとキスしたんだ、恋人になれたんだ、っていう事実に立体感が生まれてどぎまぎ緊張した。

 けど、恋人なら、流されちゃ駄目だ。

 嬉しいことも不満なことも伝えあえる関係にならないと、また失敗する。

「しっかり誘惑されてるよ」

 あぅ、……にべもない。

「してません。賢也さんが、つまり……その、キス……とか、巧かったり、首とかにも、噛みついたり、するのが、……誘惑だと、思う」

「なおは存在自体が可愛いでしょう。だから声をだすだけで俺をおかしくさせるって自覚してもらわないと。俺は悪くないよ」

 け……賢也さん、なに言ってるの……?

「わ、るい、です、賢也さんも、ちゃんと。頭からつま先まで格好よすぎるし、身体も大きくて手も綺麗で、触られたら、俺じゃなくたって、全人類狂うんだからっ」

 ン、いや、俺もなに言ってるんだろう。

「全人類じゃなくてこれから俺はなおだけのもので、この手と身体で触って愛おしんでいくわけだから慣れてほしいな。いつでもどこでも可愛く誘惑されるとこっちが保たない」

 う、ぅ……おなじような主張を、ますます愛情多めに返されて、圧されている気がする。

 車がだだっぴろい駐車場へ入って行って、売店側の空いているスペースへゆっくり止まった。

 夜遅くて寒いのに観光客もそこそこいて、みんな青い池へ向かっている。

「さあ、行こうか」

 うながされて賢也さんを見ると、車のエンジンを切った彼は幸せそうに微笑んでいた。

「は、はい……」

 外へでたら、雪の香りの鋭い微風が頬を掠めていった。
 針で刺されているみたいに冷たい。

「なお」

 後部座席に置いていたコートをとって身につけていたら、賢也さんもコートを着ながら横に来て俺の首にマフラーを巻いてくれた。

 ふたりで防寒スタイルになって、しっかり手袋もする。

「ちらちら雪が降ってきたね……」

 細かな雪が降りてくる空を仰ぎながら、賢也さんはさらりと俺の左手をとって掴んだ。

「あっちでいいんだよね。みんなも行ってる」

 それで、あたりまえみたいに歩きだす。

「ライトアップされて明るくなってるのがすこし見えるね」

「はい……すこし」

 駐車場は青い池の真横にあるけれど、木々に目隠しされていてひらけた場所へ行かないと絶景は拝めない。隙間からライトアップの光や青っぽい池の姿はうかがえるものの、こんな夜だとほとんど無理だ。

 賢也さんはすでに浮かれたようすで、俺の手をひいて歩いて行く、けど……ちょっと、俺は心が追いつかない。

「賢也さん、あのね……さっきのって、」

「ん?」

「……さっきのって、恋人同士の、意見交換じゃなくて……もしかして、いちゃいちゃだったのかな」

 暗闇でも賢也さんの目が一瞬まるくなってから、「ははっ」と笑いだしたのが見えた。

「そうだね……いちゃいちゃしたね」

 肯定されてしまった……。

 すぐ横を、ごついカメラと三脚を持ったおじさんがすれ違っていく。
 観光客らしき恋人同士や、大学生っぽい数人の男女も興奮してしゃべりながら先を急ぐ。

 賢也さんは楽しげな笑顔で俺の手を握ったまま、隣にいてくれている。

「あ……ちょっと人が多いね」

 やがて池のほうへのびた広場が現れた。
 眼前に、うっすらとやわらかいライトに照らされた青い池もひろがる。

「わあ……綺麗だー……」

 人混みの隙間から、まだ凍りついて雪に埋もれていない夜の青い池と、その池から突きだす白樺や唐松の幻想的な景色が見えた。

 ライトのおかげもあって青い池は濃い青色に染まり、立ち枯れた白樺と唐松は儚げに並んで寄り添っている。
 そこに空から降る宝石みたいな白い雪が、きらきら輝きながら降りそそいで神秘的な光景を描いていた。

「すごい……俺もひさびさに来ました。こんなに綺麗だったっけ……」

 みんなスマホやデジタル一眼を向けて、パシャパシャ音を立てながら撮影している。

 俺も撮りたいな、とスマホをだそうとしたら、賢也さんに左側から肩を抱かれた。

「場所を変えよう。いちゃいちゃしながら見たいから」

「えっ」

 鼻の頭まで凍りそうなほどものすごく寒いのに、顔面が一気に燃えてすっ転びそうになった。

 賢也さんは俺の肩を抱きながら道を歩いて、池沿いの木々のあいだへ分け入り、池が真正面に見える物陰まで連れて来てくれた。

 一応、明るいし地面の雪も踏みならされていて、危険そうな場所ではない。

「やっぱりこんなに綺麗で、一生の想い出になりそうな景色はふたりきりでゆっくり見たい」

 賢也さんがまた俺の右手をとって繋ぎながら微笑みかけてくれた。

 愛撫や愛情表現のスキルが高い、経験豊富なおじさまなのに、初々しくて可愛らしいことを言うところもすごく狡い。

「……賢也さん、十代の初めてのデートみたいなこと言って。俺とっても嬉しいし、賢也さん可愛いしで、狡いです」

 本人にも声で抗議して苦笑いしたら、賢也さんはすこし遠い目で微笑んで俺を見返してきた。

「ここで、彼とも学生のころデートしたのかな」

 ……え。

「昭之のこと……ですよね」

 確認すると、賢也さんは黙って瞳だけでうなずいた。
 表情はとても穏やかに見える。

「このあたりで遊ぶってなると、場所が決まってるから……来たことはあります」

 ふたりして免許も持っていないころで、夏休みの昼間、バスに乗って眺めに来た。

 恋人同士のデートっぽいことをしたいけど知りあいに見つかったらマズいし、と、おたがい警戒していて、手を繋ぐでもキスをするでもなく、友だち同士の観光みたいな会話と素ぶりで、青い池を眺めて帰った。

 虚しい気持ちになっても、それも恋愛のスパイスとして味わっていた気がする。

 そしてただただ秘密の関係にはしゃぐばかりで、恋も愛も感じていなかったんだと、いまはわかる。

「……本当にごっこ遊びの恋人でした。さっき歩いて来たそっちの道を、ばか話して笑いながら並んで歩いて、青いの綺麗ー、昔子どものころ親とも来なかった? 来た来たー、ってへらへらして写真撮って帰るだけ、みたいなそんなだったな。知りあいに偶然会ったらやばいって恐れもあったけど、それって言い訳で、結局いちゃいちゃする勇気もしたい気持ちもなかったんですよ、俺たち」

 ライトがぼんやりと変容して光と影と色彩を生み、夢のなかのおぼろな風景に似た、美しい青の世界を浮かびあがらせている。

 白樺と唐松の細い枯れ木はしずかな青い池の上に水鏡になってうつりこみ、降りそそぐ雪が波紋をひろげて溶けていく。

「なおが昔、すこしでも幸せを感じていたならいいなと思って訊いたのに、違うみたいだね」

 賢也さんが俺の手を握る掌に力をこめて想いやってくれた。

「うん……ごめんなさい。たぶんいい想い出だったんだろうけど、いろいろあったせいで色褪せちゃったな。むしろこれが本当の恋人同士のデートなんだよって、賢也さんに教えてもらってます。けど、うーん……比較するのってどうなんだろう。昭之にも申しわけないですね」

 昭之との関係は拗れすぎてしまって、ここに来たころの無邪気な感情は頬をふわっと掠めて流れて消えていく微風程度のあわい感触でしか想い出せない。

 一緒に暮らしていたあいだは、あいつが深夜に帰宅して配慮もなく乱暴に物音を立てることにすら苛々してこっちもどんどん嫌悪していく悪循環だったけど、別れたいまはちょっとだけ自戒する余裕も戻ってきた。

 距離が必要な関係になってしまったんだよな。

「青い池は、たぶん来週か再来週には凍りついて雪が積もっちゃいます。こうやって綺麗な青と雪が見られるのは短い期間だから、賢也さん、すごくいい時期に来てくれたんですよ」

 ダイヤモンドダストもまだすこしはやいけど、ライトに反射した雪が似たような光を放ってきらきら輝きながら舞っている。

「……うん、今日来てよかった」

 賢也さんが俺のうしろに立って、背後から両腕で腰を抱いてきた。

「け、賢也さん、」

 一応枯れ木に囲まれた物陰ではあるけど、周辺には結構人がいるし、話し声も聞こえてくる。

 子どものころと違っていまは成人しているし、地元の人にもし見られたとしても好きに生きていいだろとも思う……けども、どう、かな、これは……いちゃいちゃしすぎてない……?

「上書きなんて考えなくていいよ。ひとづきあいは誰かの上に重ねていくものじゃないから。いまは俺とだから見られる新しい世界を受けとめて、一緒に幸せになって」

 お腹のあたりを左手で抱かれて、右手で、帽子の頭を撫でられた。賢也さんも手袋をしているから撫でてもらうとふわふわする。

 ……温かくて優しくて、幸せすぎて申しわけない気持ちになってくる。

「……ありがとうございます。そうですね。昭之にも、賢也さんにも悪いですよね」

 俺の帽子のてっぺんのぽんぽんをよけて、賢也さんが左側の頭の上にくちづけたり、頬を擦り寄せたりしてじゃれてくれる。

「幸せな想い出ひとつ残してあげられなかったって……俺としては軽蔑心が増す一方だけど、なおの優しさは尊重するよ」

「いえ、全然優しくないんですよ。そんなできた人間だったらあいつの暴走止めてただろうし。恋人どころか、友だちの思いやりすら失ってたんです。だから後悔っていうか、反省っていうか……」

「暴力をふるわれたんだよ。なおは充分すぎるほど優しいよ」

 困って閉口して、それから胸がほっかり満たされているのに気づいて苦笑いしてしまった。

「……賢也さんも、俺の味方になってくれるんだ」

 賢也さんの苦笑も、左上からこぼれてくる。

「当然」

 車内でもおなじような会話をして〝殴る権利がある〟なんて怖いことを言ってくれていた。

〝争いの片方を味方するのは愚行〟とも言っていたのに、立場が違えば賢也さんも堂々と偏愛してくれるんだから……俺はやっぱり贅沢者で幸福者だ。

「ふふ」と幸せに笑いながら、俺も賢也さんの左手をこっそり繋いだ。

 枯れ木に設置されたライトがふっと暗くなって、再びぼわあと池に青い光の円を描いて光る。

 日中はエメラルドグリーンに近い色合いをしているのに、夜はライトアップの演出もあってどこまでも鮮やかに青い。

「……熱海旅行にね、本当に賢也さんと行っていたらどんな幸せを知られたんだろう……って、考えないようにしてたのに、でもたまに、ちょっとだけ想像してたんです。寂しくなるんだから考えるな、あの日限りの夢だったんだ、って自分にブレーキかけながら、それでも止まれなくて。だからいま、自分の理想が詰まりまくった夢の世界にいるみたい」

 照れて笑うと、賢也さんがやわらかく相づちを打ちながら俺の左頬に顔を寄せて、そっと抱き竦めてくれた。

「……俺もだよ。なおを捜し始めてからは、熱海でもどこでも行こう、行きたい、と想ってた。青い池も、ひとりで眺めるよりずっと綺麗に見えてるんだろうな……――なおが可愛い。一緒にいられて嬉しい」

 耳に囁かれて、顔が熱くてくらくらする……。

「……賢也さんに、可愛いって言ってもらうの……嬉しいけど、ちょっといやだ」

「どうして」

「女の子扱いされてるみたいで……こわくなるから。格好いいって、言われたい」

 ふっ、と賢也さんが素敵に笑う。

「また令和男子が昭和みたいなこと言ってるな……いまは可愛い男の子もアリな時代だよ?」

「そう、かも……だけど」

「格好よくなくちゃいけないの?」

「……うん」

「じゃあ格好いいところ見せて」

 する、と賢也さんが俺から腕を放して、くすくす笑う。

 ん……? 格好いいところ……?

 いま? ここで……?

「……飛びこむか」

 青い池を指さして賢也さんをふりむいたら、「ぶはっ」と吹きだした。

「それは格好いいっていうか、ばかだね」

「〝ばか〟!」

「道民じゃなくても危険ってわかるもの」

 彼の簡潔で的確で酷いひとことがおかしくて俺も笑ってしまった。

「なら俺、可愛い令和男子極めようかなあ……」

 昭之には嫌いだと突っぱねられていた自分の容姿も、賢也さんは困惑するぐらい褒め続けてくれる。

 コンプレックスになりかけていたけど、賢也さんの前では恐れずに自分のままでいていいのかもしれない。

「これ以上可愛くなられても弱るけどねえ……」

 ひゅる、と落ちてきた雪の粒が俺の鼻先について刺激してきた。

「うわ冷たっ」と身をすぼめて拭おうとした俺より先に、賢也さんの手袋の指がついて、つまんでよけてくれた。

「うん……たぶん年齢差もあるんだろうね。なにされても可愛く見えちゃうよ」

 ……それを言うなら、歳上の大人なのに手を繋いでくれたり、物陰でくっついてくれたりする賢也さんも、可愛くてどうしたって狡いよ。



 ライトアップは十分間の物語になっていて、雪が積もって景色が変わると内容も変化する。

 賢也さんの掌は掴んでいると、手袋同士だとしても体温がじんわりと温かく浸透してきて、心も身体も温かい人だ、って感じ入る。

「すごいね、温かいね」と驚嘆しつつ、撫であったり握りしめあったりして一緒にぬくもりながら青い池の光を堪能し、やがて車へ戻った。

「手が温かい人は心が冷たいって言うんだよ」

 コートと手袋を後部座席へ置いた賢也さんが言う。

「ふふ、知ってる。でも賢也さんは優しさが心臓のあたりでこう、ぶくぶく沸騰してて、手まで温かいだけだよ絶対」

「そんなこと言われたの初めてだ」

「ちょっと冷たいほうがよかったのかもしれないよ。優しすぎて傷を背負うから、俺みたいのに痴漢されちゃったんだし」

 俺もコートと手袋をうしろに置いたら、伸びあがった腰をくすぐられて、「ぎゃはっ」と身を捻って崩れてしまった。

 ふたりで笑って、抱いて支えてもらいながら体勢をなおし、再び賢也さんの運転で車が走りだす。

 ……一分一秒すごく幸せで、夕方ごろまであった不信感などどこかへ飛んで行ってしまった。

 だけど賢也さんは明後日、東京に帰ってしまう。

 これから遠距離恋愛になるんだと思うと、すこし大胆なぐらい甘い時間を過ごしても許されるんじゃないかなと我が儘が過る。

「明日はどこに行こうか」

 運転しながら、賢也さんも訊ねてくれた。

「それなんですけど……カフェの仕事、お休みいただけるかもしれないので、時間もあわせて明日相談してもいいですか」

「休んでもいいの?」

「うん……さっき、今夜の早引けのお願いしたときついでに頼んでみたんです。そうしたら大丈夫だと思うって言ってもらったから。たまに友だちが泊まりに来てくれるときも、ほかのお客さまのおもてなしに支障がなければ休ませてもらえたりするんです。夏場は連日忙しくて、難しいんですけど」

「そうか……嬉しいな。けど無理に観光しなくてもいいよ。帰るまでなおを味わいたいから」

 あじ、わう……っていう、表現は、微妙に動揺したけど……賢也さんの言うとおりだ。

「……はい。俺もです。……賢也さんが半日、ずっとカフェにいてくれた気持ちもわかった。観光しちゃうと落ちついて話せないし、時間の無駄ってことはないけど……いまは、ただ一緒にいたいかもしれないです」

「うん」

 賢也さんが嬉しそうに微笑んで、一瞬だけ俺の右手を握りしめてくれる。
 一瞬でも凍結道路危ないから運転中はいちゃいちゃ我慢してほしい。
 けど猛烈に嬉しい。

「いまの時期は美瑛の駅とか役場に、おっきなクリスマスツリーが飾ってあるんです。夜はライトアップされてるから、それは見に行きませんか」

「うん、いいね。夕飯のあとに散歩がてら眺めに行こう。ツリーか……素敵だろうなあ」

 賢也さんが暖房を調整してくれて車内がだんだん暖かくなっていく。

「……賢也さんはイルミネーションとかライトアップとか嫌じゃない人ですか?」

「いや? ああ、デートスポットに行くのが恥ずかしくないかって意味?」

「はい」

「前の人は嫌がるタイプだったの」

 ……賢也さんは真剣だったり不機嫌だったりすると、疑問形でも語尾があがらなくなるのが怖い。声で威圧されている感じが。

「比較ってわけじゃないんです。たしかに昭之は鼻で嗤うタイプだったけど、賢也さんも大人だから、わかりやすく甘ったるい場所はどうかなって、単純に好みが知りたくて」

「大人だから、なおが行きたいなら一緒にでかけて楽しむよ」

 きうぅ……、と胸がときめいて縮んだ。

 正確に言うと、昭之は〝鼻で嗤い飛ばすのを格好いいと思っている照れ屋〟だった。
 上京して変なスレかたをしてしまったから、イルミネーションに憧れがあっても〝行きたい〟なんてはしゃぐことができなくなっていた幼稚な奴。

 賢也さんほど愛情に満ちた言葉を即答してくれる恋人、信じられない。……いいのかな俺。

「嬉しいです……でも俺も人混みは苦手だから、もしどうしても賢也さんと行きたい場所ができたら誘います」

「ン、俺も誘うよ。……イルミネーションか。仕事帰りに駅周辺の電飾をちらっと見るだけで、あれを目的にでかけることってもう何年もしてなかったな。なおもせっかく相手がいたのに、経験できなかったのならおたがい新鮮に感動できるね。明日のツリーも楽しみだ」

 今度は、きりと心臓が痛んだ。

 そういえばふたりして、数年間ずっと人と居たのに寂しい孤独なひとりぼっちだった。

「あの……賢也さん。すこしだけ、俺の話もしていいですか。昭之とどんなふうに別れたのか、伝えておくべきじゃないかって、思えて」

 賢也さんが前方を注視したまま真剣な眼差しでうなずいてくれる。

「もちろんだよ。また車止めようか?」

「あ、いえ、そんなたいそうな話じゃないんで大丈夫です。ほんと一言二言で終わるような話なんです。説明が難しいんですけど、その……俺も、賢也さんと熱海デートをしたあと、昭之の恋人ではいられないと思って、別れを切りだしました。でも昭之は認めてくれなくて、俺がひとりで〝別れたからね、俺と昭之はもう他人だからね〟って家をでて、北海道に帰って来たような状況で……いまだに〝いつ帰るんだ〟みたいなメッセージもくるんですよ」

「別れを認めないって、話しあいはどんな状態だったの」

「状態。んー……俺が〝ゆっくり話そう、そこに座ってほしい〟って頼んでも〝ダルい〟〝今日無理〟って拒否られ続けて、〝別れたいんだよ〟ってきっぱり切りだすと……賢也さんには言いづらいけど……押し倒されてセックスでごまかされそうになったりでした」

「それがいまも続いてる……?」

 賢也さんが車の速度を落として、異常な者を見るような目で俺の向こうの昭之を探る。

「危険だよ。レイプで話しあいをうやむやにしようとする非常識な人間には絶対に近づいたら駄目だ。いまストーカー行為はないんだよね」

「あ、はい……そんな、大げさに、考えなくても、」

「いや、ちゃんと考えたほうがいい」と賢也さんは車を路肩に寄せて結局停車させた。

 そしてシートベルトをはずして俺に襲いかかる勢いで顔を寄せ、睨み据えてくる。

「俺も同席するから一度三人で話そう。それでしっかりわからせて縁を切る」

 どうしよう……すごく深刻に、受けとめてくれている。

「うん……ありがとう、ございます。でも、昭之は本当に弱くて……度胸がないだけなんです。賢也さんが来てくれたら、たぶん大号泣して、泣き縋られて、賢也さん驚きますよ」

「それならそれでいいよ。なおの実家や居場所は知られてる。犯罪まがいのことをされてからじゃ遅いんだから、金輪際なおに関わらないって一筆書かせよう」

 子どものころ昭之は泣き虫で有名で、注射も嫌いで大泣きして先生に迷惑かけて、北海道ではあまり見ないゴキブリもカブトムシも怖くて泣いて、子犬だっていまだにビビる。

 あいつが泣きだすとなかなか泣きやまないから、しょっちゅう慰めてやっていた。

 あいつも自分で自分が弱っちいってわかっているからこそ、大学デビューして気が大きくなって、ちやほやされて調子に乗って、底まで落ちぶれたんだ。

 賢也さんみたいな大人の立派な男に〝一筆書いてくれるかな〟と迫られたら、泣くどころかチビって気を失うんじゃないかと思う。

 ……賢也さんが〝ダルい〟〝今日無理〟の通じる相手じゃないことも一目でわかるはずだ。

 昭之は昭之で、素直に生きられない自分にいい加減ジレンマとコンプレックスを感じ始めているっぽいから、真摯な賢也さんを前にしたらプライドがへし折れて心までズタボロになる気がする。

 因果応報、自業自得、ってことだとしても……そこまでしていいんだろうか。

「……なお、もしかして彼に同情してる?」

 じっと見つめられてどきりとした。

「いえ……弱い者いじめをするのは嫌だと思ったんです。とりあえず俺からまた連絡します。賢也さんと恋人になれたから、報告して、もう一度ちゃんと別れ話しておきたいです」

 賢也さんが俺の目の奥を探りながら「……わかった」と納得してくれる。

 そしてゆるゆる身体を離してシートベルトをつけなおし、運転を再開した。

「……すみませんでした。〝俺の気持ちは終わってるのに曖昧な関係のままなんです〟って、ただ賢也さんに伝えたかっただけなんです。自分でケジメつけます。もしそれが難しくなったら賢也さんにも相談させてください」

「うん、もちろんずっと傍にいるよ。危険なことだけはしないで、ちゃんと相談して」

「はい」

 関係を終えるのも簡単じゃない。

 賢也さんは俺以上に大変だったんだろうなといま一度彼の一年間を噛みしめた。会いに来てくれて、恋人にまでしてもらえて……感謝と幸せで胸が痛い。


 車が見慣れた町に戻ってきた。

 雪は依然としてぱらぱらちらついていて、車のライトや外灯の光を受けて輝いている。

 店の前の広場と駐車場も、父さんの雪かきも虚しく再びうっすらと雪に覆われ始めていて、車がぎちぎちと雪を踏みながら停車した。

「賢也さん、転ばないように気をつけてくださいね」

「なおもね」

 ふたりで車をおりて、急いで後部座席からコートと手袋とマフラーをとる。
 民宿も俺の部屋もすぐ目の前だけど、荷物になるのが嫌だからコートを羽織った。

「じゃあまた明日の朝、カフェにいらしてください。美味しい朝食、用意しておきますね」

 ずれた帽子をなおしながら笑いかけて、「おやすみなさい」と右手をふったら、賢也さんが無表情で近づいてきた。

「なおはどこで休むの」

「え……俺は、カフェの二階に部屋があるんです。そこで暮らしてます」

 ふうん……、と賢也さんは瞼を細めて二度うなずく。

「参考までに訊きたいんだけど、友だちがきた場合、なおは部屋へ遊びに行ったりしないの」

 も……しか、して、これは……誘われている。

「……お邪魔、することも、あります。親も俺の友だちは把握してるから、朝まで呑んで騒いだりしても、目を瞑ってくれるので……」

「俺はチェックインのときご両親に〝なお君の知りあいです〟ってご挨拶したし、一緒に青い池へでかけるほど仲がいいよね。二晩部屋に誘っても大目に見てもらえるんじゃないかな」

「ぇ、けど、それは……、」

 思考がぐるぐる混ざりあって定まらない。

 親しいけど賢也さんは友だちではないし、二晩ってことはつまりそういう目的もあるはずで。
 賢也さんがいきなり男の俺をどうこうできるのかわからないから怖いし、だいたいするならするで準備も、必要な物もある、無理だよ、できるわけない。失敗するのこわい。

 でも俺も離れたくない。
 ……一緒にいたい。

「……なお、」

 手袋をしていなかった冷えた右手を、賢也さんが気づかうようにそっと覆ってくれて、思いきり肩で反応してしまった。

「で、……できないですよ、男同士だと、……いきなりは、無理なんです。ドラッグストアだって、もうやってないし、」

「大丈夫だよ」

 民宿の前だからかやわく指先を握るだけでとどめつつも、賢也さんの瞳は誠実だった。

「――なにも心配しないで、俺と一緒においで」

 しずかな包容力に満ちた賢也さんの眼差しを、雪と外灯がきらきら彩っている。

 ……この人は、セックスを卑しいなんて、本当に、ほんの小さな一秒さえ考えたりしない。


 愛しあうためだけのセックスは、もうとっくに始まっている――。






































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