……ぎゅと痛むぐらい吸われていた右頬から、杉浦さんの、――賢也さんの唇が離れた。 左頬にある長い指が首にさがってきて、顎の下からうなじあたりまでしっかり包んでくる。 動けない……逃げられない、と思った瞬間、右耳のすぐ傍で彼が、はあ、と吐息を洩らして、頬より下の、顎のところを、舌でなぞって甘噛みしてきた。 名前……呼んだけど、キス、いつするんだろう……。 心臓が痛いぐらいで、焦りと緊張と恋しさを持て余していたら自分の唇が気になって、噛みしめて、カサついた表面を舐めていた。 チコ、チコ、とハザードランプがずっと鳴っている。 濡れた右頬がひやっとする。 賢也さんの胸が広くて温かくて、いい匂いもして、狂いそう。 タートルネックセーターの襟もすこしさげられて、首筋まで唇がきた、また、吸われてる。 「ゃ……ン、」 刺激が強すぎて、痛みが甘やかな快感にすりかわってひろがるものだから、いきなりこんなこと、……ちょっと、耐えられない。 「……賢也、さ……も、……だめ、」 ここでは許して、の気持ちで懸命に声をだしたのに、首筋を思いきり吸われて、甘噛みされて、左足が戦慄いてどこかにぶつかった。 手も足も、心も、全身が賢也さんの想いに覆われているみたいに痺れて、感覚が鈍くなって、いま、自分はこの人の愛情と劣情に支配されている、と思った。 強く吸われた部分をねりねり舐められて、涙が自然とこぼれてきて、車内だろうとどこまで、なにをされようとも、俺、抵抗できない……、と理性が死んだのを感じていたら、首筋から彼の唇がちくと離れて解放された。 首もとに埋もれていた賢也さんの顔が正面に来て、額を、帽子越しにふわとあわされる。 「……こんな場所で色っぽい声をだしたら駄目でしょ」 右頬にも賢也さんの左手がきて、親指で濡れたところを擦られた。 「し……叱られるのは、……理不尽です」 「どうして」 「ど、どうしてじゃ、ないよ」 「ほっぺたにキスぐらい経験済みでしょう」 賢也さんの息が口にかかって、近すぎて、心臓が砕け散りそうで茫然として判断力も壊れてるけど……声が、ちょっと尖っていて……嫉妬、してくれている気がする。 「……賢也さんに、してもらう、のは……初めてだし、全然、違います……」 「そうかな」 「はい……あと、経験も、あまりないです。……愛撫、みたいなの……ほぼなかったから」 「……。どういう意味だろう」 あ、今度は怒った声。 「ええと、その……昭之とは、幼なじみみたいな関係で、高校生のころにおたがいゲイだって知って、初めて同士でつきあってそういうこともしたけど……知識も経験も余裕もなかったし、上京したあとは気持ちも離れて、……前戯なしの突っこむだけ、みたいな、そんなで……」 ……しまった。 嫉妬の必要なんかないって言いたかっただけなのにしゃべりすぎたかも。 「すみません……」と謝ったら、賢也さんが額を離して、至近距離で俺の目を覗いてきた。 穏やかな、真剣な目をしている。 「……次に電車内で彼を見かけたら、俺には殴る権利があるよね」 あ……この目は殺る。 「もうあいつのことは気にしないで、放っておいてください。暴行事件になって賢也さんが捕まったりしたら困る」 「うまくやるよ」 「カタギのセリフじゃないからそれ」 賢也さんの衝動を止めるみたいに彼の背中に両腕をまわして抱き寄せた。 冷静に淡々と言うから本気そうで怖いよ……。 「俺も悪いんです。賢也さんならわかってくれるでしょ。恋人とか夫婦に軋轢が生じたとき、片方だけが悪いなんてことないんです。あいつがあんなふうになっていくのを俺は止められなかったし、止めたいとも思えなかった。別れもしないでずるずるして……自業自得なんです」 「暴力は話がべつだよ」 「だとしても、賢也さんにまで暴力で他人をねじ伏せてほしくない」 彼の右肩に目を押しつけて祈っていたら、耳もとで、ふう、と小さなため息がこぼれた。 両肩をやんわり掴まれて上半身を離され、また間近で見つめられる。 ……この目は、優しいだけの光に見える。 「……じゃあ痴漢でもしようか」 冗談に聞こえない。 「それも駄目です。あいつが気持ちよくなるか、結局賢也さんが捕まるかですよ」 「気持ちいいって最悪だな、吐き気がする」 言いながら、賢也さんが右掌で俺の左頬を覆って、親指で涙の痕を拭ってくれる。 「……なおを幸せにすることで、ちゃんと報復になるのかな」 帽子で隠れた額にも唇をつけてキスしてくれた。 「はい……もちろんです。俺も賢也さんのこといっぱい幸せにします」 賢也さんが自分を包んでくれている右掌の上に自分も左手を重ねて、頬を擦り寄せながら微笑みかけた。 「さっきから、こうやって……くっついて、触りあってるだけで頭ぱんってなって、意識失いそうです。賢也さん、大きくて、いい匂いもしてすごく近くて……。恋愛ごっこじゃなくて、心から愛してるって想う人と撫であってると、それだけで、ぽかぽか幸せなんですね」 子どもの感想みたいになってしまったけど、賢也さんの表情から怒気が薄れて喜びや幸福感が兆すのが見てとれた。 「……うん。俺も自分の心がまだこんなに愛しさで騒がしく反応してくれるとは思わなかった。とうの昔に壊れて機能しなくなっていたと思ってたよ。……本当に生まれ変われたんだなって実感してる」 また額をあわせて、賢也さんが甘えるみたいに擦りつけながら、「……なおも小さくて折れそうで、カレーの匂いで可愛いよ」と囁いた。 「か、かれー……っ」 まさか、さっき掻っこんできた夕飯の……⁉ 「やだ、恥ずかしい、ちょっと離れて……」 うつむいて口を隠して逃げたら、賢也さんがおかしそうに「ぷふはは」と笑った。 「逃がさないよ」 やや強引に顔を上向かされて、羞恥心で死にたくなる。 「いやだよカレーの匂いとか、ほんといやだ……キス明日にして……」 「おじさんはすこし遠まわりしてなおと出会ってるから、唇がどんな味だろうといちいち気にしたりしないよ」 「じゃあなんで言ったんですか、黙ってしてよ意地悪おじさん……」 「焦って怒るなおも可愛いだろうなと思って」 涙を拭ってくれていた右手の親指が、唇の先を軽く押して、なぞって、弄んでくる。 「一生〝カレー味だったね〟ってからかわれるんだ……つらい」 「俺はガーリックを回避したから誇らしい。その周到さを一生自慢しよう」 「うぅ」 下唇を右端から左端までゆっくりたどられて、口端を撫でられた。 ……しぐさが本当に手慣れているというか、官能的というか……愛情を胸の奥で真摯に受けとめて、それを誠実に与えよう、分かちあおう、としてくれているのがわかる。 賢也さんは愛して触れあいたいと想うことを、卑しいとかエロいとか言って嗤ったりしない。 好きだと声で伝えることも、照れたり恥じたりしない。 愛していて、欲情もしていて、心の底から欲しいと想っているよ、と……自分の愛情を見つめて俺に教えてくれる。 目でも手でも、声でも、まっすぐ届けてくれる。 「……カレー味の、どんなキスがしたいですか」 右の口端に賢也さんの唇が近づいてきて、ちゅと吸われた。 「ど……どんな、って……?」 いまのは、キスでは、ないのですか……。 「浅いのか、軽いのか、深いのか」 「さ、……三パターンもありますか」 「ありますよ、ざっくりだけど」 「ざっくり……」 おじさん、経験豊富で、困ります……。 「じゃあ、あの……いまは、カレーなので……浅めで、お願いします」 俺も愛情を届けたいと想うのに、賢也さんの伝えかたが一途で大人すぎて圧されてしまう。 「……なおが食べたカレーの味、奥まで教えてくれないの」 大人なのに、甘えるのも狡い……。 「選択権……俺に、ないじゃないですか」 「あるけど、俺も一応意見を言う権利はあるでしょ」 「ずるいです」 「なおが焦らすから」 「俺も、ずっと、どきどきしてますよ、……こんな、近すぎて、」 また「ふふ」と笑った賢也さんが、下唇の真下の、くぼんだ箇所に口先をつけて舐めてくる。 「や、ぅ……賢也、さん……これは、キスじゃ……ないの」 「ないでょう、まだ唇にしてないもの」 「じゃ、なん……」 「愛撫かな」 かな。 かなって。 かなじゃないよ好きだよもうばかっ。 「なら、俺も、する……賢也さんに、愛撫」 右手を賢也さんの左頬に添えて、自分がしてもらったのとおなじ唇の右端をかぷと銜えてからちゅと吸った。 け、んや、さんも……ちょっとだけ、ステーキの、バター醤油の味がする。 吸ったのは自分なのに、彼に触れた唇が痺れて麻痺したような錯覚がして背中が震えた。 舌に賢也さんの味が沁みた、と実感するだけで、愛しさが溢れだしてきて目眩がする。 愛撫はされるだけじゃなくて、自分でさせてもらっても愛情が増幅するものなんだ……、とくらくらしながら思い知った。 「……俺のほうが、ダメージだったかも。賢也さんのこと、好きになりすぎて……苦しい」 朦朧としながら訴えたら、反撃みたいに俺もまた右頬を噛まれて、左腕で腰を抱かれた。 「……煽るの上手だよね、なおは」 「な、言っ……煽った覚え、ない、」 いたい……ほっぺた、腫れる。 「無意識なら俺より質の悪い意地悪だと思う」 「好き、って……言いたいだけ、だよ」 「なおも狡い子だよ」 右目の下と、目尻も、舐められて吸われた。 熱い吐息を洩らして、賢也さんがおたがいの鼻先をあわせてじゃれてくる。 「……一生の想い出になるキスにしようね」 それからそう囁いて、唇でそっと俺の唇を食んだ。 息を呑むほどやわらかい唇に口先を覆われて、肩が跳ねた。 甘く吸われて、上唇と下唇を唇で挟まれて表面を舌でなぞられる。 「ン、ん……」 何年もずっと想っていた賢也さんの唇とキスをして、彼の舌で、舐められている。 心臓の鼓動が狂って、呼吸も乱れて、ただ吸われるがままになっていた。 上唇だけ吸われて、やんわり噛まれる。 下唇も舐められて吸い寄せられて、端から端まで唾液をつけてしゃぶられる。 彼の鼻から洩れる息も荒くて、俺を求めてくれている、キスをして心を乱してくれている、と理解してしまうと、彼の昂奮に呼応するように自分の感情と愛情もはち切れそうに昂ぶった。 唇全体が、もう賢也さんの感触と唾液しかないんじゃないかというほど食べ尽くされたころ、右手で後頭部を押さえて抱かれ、舌先を唇のあわいに押しつけられた。 「は、ンぁ、……」 驚いてひらいた小さな隙間から賢也さんの舌が入ってきて、自分の舌を掬われる。 「ンンっ、」 唇をひらいてあわせて、舌同士で、おたがいを舐めあう。 賢也さんが舌の表も裏も、横側も、全部舐めて吸ってくるから、カレーなのに、と焦りながらも抵抗力ごと奪いとられていって、彼の舌を弱々しく吸い返すしかできなかった。 心が蕩けて、身体に力が入らなくて、賢也さんの舌の動きしか見えなくて、彼の唾液が甘くて舌が熱くて、頭がぼうっとする。 もう充分、許して、と言おうとしても、いったん離れた舌は再びべつの角度から奥まできて俺の舌を強く吸いあげてくる。 「な、ぅ、あっ……」 無理、賢也さんが好きすぎて、心臓が破裂する、――と、迫りあがる激情に殺されそうになったら、やっと、ゆっくり舌が遠退いていって、解放された。 でもまだ、下唇はしゃぶられていて放してくれない。 「……そんなに辛そうにされると続けられないよ」 つづける。 ……つづけるって言った。 「まだ……する、ンですか」 「まだ一分もしてないけど」 「さ、三分は……してたよ」 「三分していたとしても短いでしょ」 後頭部をぐいと引かれて歯列まで舌でなぞられ、ひくっと身を竦めてしまった。 「やぅ、っ……そんな、とこまで、」 「隅々まで愛撫するのが愛してる人とするキスなんだよ」 初めて……知りました……そんなこと……。 「でも、……愛してるけど……深すぎて、だめ、」 「まだおあずけなの」 駄々をこねるみたいに上唇も痛めに吸われた。 「ぜんぜ……浅く、なぃ、」 「お願いは聞いてあげられなかったね。でもこの程度でギブアップされても困るな」 容赦なく舌を差し入れられて、もう一度舌を捕らわれ、甘噛みしてから吸い寄せられる。 「や、は……ンんっ、」 ……たぶん昭之は、経験が少ない以前に自分が満足すればいいタイプだった。 俺があいつの好みの身体じゃなかったのも原因だろうけど、キスもあっさり口をあわせる程度だったし、セックスも身体を舐めたり撫でたりせず、尻をほぐして挿入して終わり。 愛されているとか気持ちいいとか感じたことはない。 俺も、愛したい、気持ちよくしたい、と想えたことがなかった。 愛しあえたとか、快感を与えあえた、なんていう温かでロマンチックな経験談は創りもので、映画とかドラマのなかだけの幻想だとすら考えていた。 そんな触れあい、現実世界では誰も経験できないでしょ? って。 だけどいま俺、賢也さんと自分だけがいるこの小さな世界の、恋愛ドラマの主人公だと思う。 「こんな、キス……宝物すぎる……」 涙をこぼして朦朧と蕩けながら賢也さんの上唇の端をはむと吸ったら、「ふっ」と彼の笑い声が唇と舌にかかった。 「……キスだけでここまで感動されても困るよ」 俺が求めれば、賢也さんも必ず俺の舌を舐めたりして、こたえてくれる。 「〝だけ〟じゃ、ないです……賢也さんがしてくれること、全部……幸せで、大事すぎる」 身勝手なセックスしかしない自己中な若造と、愛した奥さんと身体を重ね続けてきた三十八のおじさまじゃレベルアップすぎて、言葉も愛撫も、なにをしてもらっても、しても、愛しさが咲く行為でしかなくて、きらきらの宝物の記憶と、現実で。 「こんなに、幸せなこと……ずっとしてたら、ばかになるとおもう」 口を放して俺の顔を見た賢也さんが、幸せで仕方なさげに眉をさげて、色気たっぷりに喉で笑った。 「……大丈夫。俺も一緒にばかになってるから」 そして左目の下を吸われた。……あ、涙、舐めてくれた。 「賢也さん、ばかじゃないよ」 だって一緒って言ってくれる。 俺がどんなに焦ったり蕩けたり、泣いたりしても〝ばかじゃねえの〟〝恋愛脳すぎねえ?〟と嗤ったり突き放したりしないで、俺もだよ、ってくっついていてくれる。 愛情深くて想いやりがあって、温かくて優しくて、言葉も愛撫も想いをこめて与えてくれて、真摯で紳士で、怖いぐらい誠実な人だ。 どうしたらこの人を死の淵まで追い詰めるほど傷つけて、捨てたりできたんだろう。 「……俺、賢也さんのこと、もらっちゃっていいのかな」 「え……?」 「賢也さんは人間国宝だよ。世界遺産にもなれる。ひとり占め、したら……駄目な人だよ」 ぷふっ、と顔をそむけて賢也さんが吹きだした。 でもすぐに両腕で腰を抱き竦められながら唇で唇をひらかされて、舌で深くまで搦めとられて愛された。 「……なら、なおも一緒に世界の遺産になって」 抱きしめてもらって……すごく、温かくて気持ちよくて幸せで、……ふかふかする。 「俺、は……なれないよ、賢也さんみたいな、素敵な人間じゃ、ないもん、」 「人間国宝に痴漢して、救った人だよ。大物に違いないよ」 ふぶっ、と頭がぼんやりしていたのに俺も笑ってしまった。 たしかに、こんな神さまのお尻を触っていたのはとんでもない奴だ。 「じゃあ、一緒に……どこまでも、ずっと一緒にいましょうね」 唇に触れている賢也さんの濡れた口先をちゅと吸ったあと、おたがいに自然と、おたがいの目を見つめていた。 「……離れないでほしい。なおに、俺と一緒にいてほしい。なおじゃないと俺はもう生きられないよ」 これは賢也さんの祈りだ。 舐めてもらったのにまた涙がじんわり溢れていくのを感じた。 「……はい。俺も、……賢也さんがいない人生なんて、もう、……無理です。賢也さんのこと幸せにするし……一緒に、幸せになってください」 ふわふわ……、と賢也さんの顔に、花が咲くみたいに大きな笑顔がひろがっていった。 微笑んでにじんだ瞳に光の粒が揺れて、彼もすこし泣いてくれていたんだと知った。 また賢也さんの唇が、俺の唇に近づいてくる。 ……愛してる人とするキスって、いつ、どういうふうに終えるんだろう。 そんなことも全然わからないから、あなたに全部教えてほしい。 ←BACK//TOP//NEXT→ |