彼と会う約束をしたのはレトロな内装と哀愁が人気の喫茶店だった。


「えっ……えっと、こちら、どちらさま……」

 ご機嫌な笑顔で店に入ってきた彼は、やがて招かれた席に近づくにつれ、恋しい女性の隣にいる見知らぬ男の存在に気がついて狼狽した。

 二メートルほど距離を置いて身構えている彼に、俺も目を眇める。

「ごめんね、この人うちの元旦那」

 紗英が肩を上下して苦笑いしながら俺を紹介した。

「――こんばんは、初めまして。杉浦賢也です。紗英がお世話になっています」

 椅子から立ちあがって極力威圧感を与えないよう穏やかな口調と笑顔で挨拶をしたが、彼は俺を凝視したまましばらく絶句して動けずにいた。



「その距離は、この場から逃げたいという、そういう意味ですか」と訊ねたら、「いっ、いえ……すみません、驚いただけです」と彼はようやくテーブルの横へ来た。

 彼には俺の正面に座ってもらい、紗英には俺の左隣で見守ってもらう。

「改めまして彼が山内智大君、こちらがわたしの元旦那で杉浦賢也さんです。ごめんなさい、いきなり呼びつけて、しかも賢也がいること黙ってて。べつに裁判沙汰とかそういうことじゃないから安心してね。山内君にも伝えているとおり、わたしたちの離婚は成立してるから」

「はあ……」

「ただ、賢也がどうしても山内君と会って話したいって言うものだから」

「話し……ですか」

「うん、ここに長居するつもりもないの。十分程度話したら賢也は帰るって言うし、そのあとべつのお店で夕飯食べよう」

「は、え……はい……」

 畏縮して、困惑している山内さんは、紗英より五つ下の青年だった。いまどきのおしゃれで小綺麗な外見をしていて、肌つやもよく健康そうに見える。

 なるほどたしかに元気な可愛い子どもをつくってくれそうではある。

「本当に突然すみません。わたしは決して過去の不貞について追及したいわけではありません。わたしと紗英が夫婦関係を保てなかったのはわたしたちの問題であって、あなたと紗英の関係は直接の原因ではないと考えています。わたしが紗英を追い詰めて、あなたが居なければ心の安寧を維持できないほど辛い思いをさせたんです。むしろ、あなたに感謝しています」

「……。感謝」

「ただひとつだけ頼みがあるんです。不甲斐ない元夫が、恩人のあなたにこんなことをお願いするのも心苦しいのですが、紗英と、できるだけはやく再婚してあげてほしいんです」

 お願いします、と続けて頭をさげたら、山内さんは再び言葉を失って目をまたたき、停止してしまった。

「……ごめん、山内君」

 紗英も隣で軽く頭をさげ、いたたまれないようすで左腕をさする。

「わたしたちが離婚をした理由は紗英から聞いていると思います。健康な子どもを望むなら、女性の――母親の身体のことも考える必要がある。高齢出産になるとリスクも高くなります。それも考慮して、彼女を支えて、幸せにしてあげてください」

 女性には再婚禁止期間がある。離婚後すぐに妊娠した場合、扶養義務を負う父親が誰か判断が難しくなるからだ。

 現在ではDNA鑑定などの精度も高まったうえ、女性だけに待婚期間があることへの批判も強まり、来年から撤廃されることになってはいるものの、俺たちには一切関係ない。

 そもそも紗英と俺のあいだに妊娠の可能性もないわけだが、なんにせよそういったしがらみがなくなったらすぐにでも紗英に新しい生活と幸福を与えてあげてほしかった。

 その思いを、不躾ではあるけれど、今夜ひとこと伝えさせてもらいたかったのだ。

「……驚きました。杉浦さんが急に現れて、こんなことを。……でも、わかっています」

 山内さんが水を飲んで、ふう、と息をついた。

「まだおふたりが離婚なさってから間もなくて、紗英さんも、すぐ再婚するとなると、体裁が悪いんじゃないかと……思っていたんです。それで具体的な話をしないままおつきあいさせていただいていました。申しわけございません」

 山内さんが俺に頭をさげてから紗英に身体を向け、「紗英さんもごめんね」と気安く親しげな声音で謝罪をした。

「ううん、わたしもごめんなさい」

 紗英もまた首をふってから深々と頭をさげる。

「……正直、もう子どもは諦めてる。再婚も望んでないの。山内君の言うとおり、親とか親戚とか、友だちにも言いづらいし、山内君にもバツイチおばさんの面倒を見させるのは申しわけないから。山内君に飽きられるまで恋愛楽しませてもらえばいいや、って気分でいるんだよ。なのに賢也が〝母親になるのを諦めてほしくない、自分の気持ちを山内君に言わせてほしい〟ってしつこくて」

「そうです」と、紗英の言葉を拾ってわりこんだ。

「わたしは自分の我が儘で山内さんに会いに来ました。なにもかも諦めている紗英に、新しい家族を与えてあげたいんです。山内さんにこんなことを頼める立場でもありませんが、どうか心の隅に置いていてほしい。お願いします」

 ふたり揃って幾度も頭をさげるせいか、「やめてください、大丈夫ですから」と山内さんがちょっと焦った。

 それからまた水を飲んで、ため息を洩らす。

「俺のほうこそ、紗英さんと将来の話をする場を設けていただいて恐縮です。俺から言うべきだったのに、紗英さんを不安にさせていたら情けないです」

「やめて、ちっとも不安じゃないから。わたしは山内君に迷惑かけたくないんだよ。離婚したあともつきあってくれて、ありがたくて……ほかのもっと若い、バツなんかついてない女の子と恋愛したほうが絶対いいのにって思ってるんだから」

「紗英さん、そういう卑下した言いかたは腹が立つんでやめてください」

「うん……わかってるけど現実だよ」

「わかってません」

 山内さんが意外にも紗英を厳しく叱りつけて、紗英も大人しく口を噤んだ。

「……紗英さんが泣いてた本当の理由がわかりました」

 懐かしい想い出に話しかけるような遠い眼差しで、山内さんが続ける。

「子どものこともきっかけだとは思いますけど……紗英さんは、杉浦さんの気持ちが自分から離れていくのが辛かったんですよ。〝ふたりの子どもが欲しいって、もう想ってくれてない〟って泣いてました。その姿が見ていられなくて、紗英さんを守りたくて幸せにしたくて、俺が不倫をさせたんです。こちらこそ本当に申しわけございません。杉浦さんみたいないい男なら、そりゃ辛いですよね。嫌われるのも、別れるのも」

 苦々しい表情で哀しげに苦笑する山内さんが、俺の知らない過去の紗英を見つめている。

「紗英さん、俺と不倫してること、たぶん杉浦さんに叱ってほしかったんですよ。俺わかってました、利用されてること。だから〝再婚する気ない、諦めてる〟ってこうやって言われると、まだ杉浦さんを忘れる時間が必要なんだろうと思っちゃうんです。プロポーズしても断られるだろうって」

「そんな、山内君、わたしは、」

「待つつもりだったんです俺」

 山内さんが目の前にいる紗英のことも、真剣な面持ちで見返す。

「紗英さんが杉浦さんにもう一度愛されたくて、離婚もできずに泣いていたあいだ、俺は俺で紗英さんが自分を好きになってくれるのを待っていました。離婚後もずっと待ってたんですよ。だから再婚してくれるなら俺は明日にでもしたい。心の隅どころかど真ん中で何年も想い続けてましたから」

「山内君……」

 ふたりの関係性や愛情のバランスを、このとき初めて目の当たりにした。

 紗英がどんな嘆きを抱えて山内さんに縋ったのか、山内さんがどれほど狂おしく紗英を想っているのか、俺はこれまでなにひとつ知ろうとしなかった。

 ふたりを〝不倫〟という枠に入れて片づけて、目の前から流れていくのをただ眺めていただけで、感情を持った人間だと考える余裕すら失っていたのだと思う。

「……山内さんは、わたしが紗英と向きあえずにいたころ、誰よりも紗英を見つめて寄り添い続けてくださったんですね」

 愛してくれていた。

 俺が傷つけることしかできなかった妻を、想い続けて孤独を味わわせずにいてくれた。

「……女心なんて複雑で、わけがわからないです。ほんと未知の存在ですよ。でも紗英さんだけは目を逸らせなかったからわかります。好きになってしまったんです。……すみません」



「――……ありがとー賢也。なんか、思いがけず見せつける感じになっちゃったね」

 会計をすませると、山内さんは「緊張して水飲みすぎました、先に行っててください」とトイレへ行き、紗英とふたりで店をでた。

「思いがけずってこともないでしょ。恋人同士のあいだに出しゃばったわけだから」

 店の前の街路樹の下に立った紗英の横に、自分も並ぶ。
 蒸し暑かった昼間の余韻がアスファルトから立ちのぼり、今夜もまだ息が詰まるほど熱気が酷い。

「……山内さんは紗英を愛してくれるいい男だったね」

 短い時間に交わした会話を反芻しながらしんみり言うと、紗英が苦笑した。

「わたし昔から男を見る目はあるんだよねえ……」

「んー……それはどうだろう」

 紗英が吹きだして、俺もつられて苦笑いになる。

「……本当にありがとうね賢也」

 紗英がどことなく物憂げに目を伏せて囁く。

 夏場でもあまり汗をかかない、涼やかで体温の低い女性だというのはちゃんと憶えている。

 いつからどこまで、彼女の個性や心が、自分のなかに入らなくなっていたんだろう。

 目を逸らし続けてきたんだろう。

「お礼を言ってもらうようなことはなにもしてないよ」

「心配してくれたでしょ。それに賢也のおかげで再婚の話が進んだんだよ。……こんなふうに三人で話さなかったら、わたしも山内君も再婚なんて一生言いださなかったと思う」

 頭上で、瑞々しく旺盛に成長した緑の葉が葉擦れの音と共に揺らいでいる。

 ――再婚する前に、俺は病院で検査してきますよ。

 山内さんは意志的な面持ちで紗英にそう言った。

 ――俺に子どもがつくれるのかどうか、ちゃんと診てもらってから紗英さんに再婚を決めてもらってもかまいません。

 すると紗英はとたんに堰を切ったように泣きだした。

 ――いいの……もういいから、……傍にいてくれればそれでいいから。

 傍にいる――たしかにそうだと思った。

 俺はおなじ家で暮らしながらも、心が紗英のもとから遠く離れてしまっていた。

 紗英が本当に求めていたのは子どもではなかったんじゃないか。
 いまになってこんな単純な想いに気づいた自分にとっても、今日は必要な日だった。

「……賢也は、新しい恋愛してるの? 救ってくれた人とは会ってる?」

「いや、会ってないよ」

 俺も紗英に、なおとの出会いをうち明けていた。

 男性だとか痴漢がどうとか、詳しい事柄は伏せたが、不貞を働いたのは紗英だけではないと告白する義務があると思ったのだ。

 しかし紗英は、俺となおの関係は不倫とは呼べない清らか過ぎる関係だからこそ不倫以上に残酷だよ、と言った。

 ――真面目で純粋って質が悪い。

 もはや喧嘩になることもなく、諦念をにじませた表情で笑っていたけれど。

「賢也も好きな人と新しい人生を始めていいんだよ。じゃないとわたしが罪悪感覚える」

「紗英が幸せになったらぼちぼち考えていくから」

「えー、じゃあはやく再婚しなくちゃだねえ……」

 紗英が掌で頬を煽いで、「暑い」と顔をしかめる。

「いつかわたしも賢也の大事な人に会わせてほしいな」

「その人がいいって言えばかまわないけど、そもそも俺が会えるかどうかわからないよ」

「どういうこと?」

「いま北海道にいるらしい」

「嘘、北海道のどこ?」

「知らない」

「え、連絡先は? あ、それも知らないんだっけ」

「うん、訊いてない」

 紗英が目を細めて「清らか恋愛ー……」と、軽蔑と呆れを向けてくる。

「なんかそんなロマンチックなことされると、ほんと敵わない」

 ため息をついた紗英がバッグからタオルハンカチをだして、今度はそれで顔を煽ぎ始めた。

「でもわたしたちいまがいちばん仲いいよね。恋人同士だったころを含めても、もっともいい関係だと思う」

「うん、それはたしかだ」

 紗英が満面の笑顔をひろげている。

 近ごろまたよく見せてくれるようになった幸せそうな笑顔には、懐かしさより新鮮な感動のほうが強く感じられて、眩しくて見惚れてしまう。

 山内さんが与えてくれる真摯で一途な幸福を知った、生まれ変わった紗英の姿、ということなんだろう。

「――すみません、お待たせしました。紗英さん、これアイスフルーツティーです。店でテイクアウトできるジュースもあったんですよ、暑いから水分とりながら行きましょう」

 山内さんがカラフルなジュースを持って、紗英と似た満面の笑顔を浮かべながら歩いてくる。

「わー、ありがとう。いますごく暑くて辛かったんだ~」

 紗英も近づいて行って、嬉しそうにジュースを受けとった。

 帰ります、と最後の挨拶をして邪魔者は退散しなければいけない。そう思うのに、ふたりの至福に満ちた温かな輪から目が離せなくて、茫然と立ち尽くしていた。


 しばらく、見つめ続けていた。





















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