「――……誤解をときたい事柄も多々あるんだけど、先にひとつ聞かせてもらってもいいかな。なおはいま、恋人や好きな人はいるの」

 杉浦さんがゆっくり両手をおろして、ハンドルを眺めながら問うてきた。

 車の外で、ひゅぅと細い音をあげて冷たげな風が吹いている。

 俺と杉浦さんのあいだにはチコ、チコとハザードランプの音も響いていて、黙りこむと自然と意識がその音を追う。

「……好きな人は、……います」

 自分の声が震えていた。

 杉浦さんがこっちを向いて、薄暗くて逃げ場のない真横から、真剣な眼差しで刺してくる。

「それは誰だろう」

 だ、れ……って。

「……こ、こに……いる人」

「北海道の人ってこと?」

「ち、……東京の人」

「東京においてきた人?」

 ……え、誰だそれ。

 昭之が〝家賃を俺に払わせる気か〟と言っていたのを杉浦さんも聞いていたから、あいつが東京で就職したことは察しているはずだよな。
 勘違いしている……?

「東京に……住んでる人」

「住んでる?」

「いまは、知らないけど……前は住んでた」

 杉浦さんも困ったように視線を横に流して、ちょっと考える。

「なおの好みのおじいちゃんですか」

 核心を衝いてきた。

 また心臓がごとごと騒ぎだして全身が燃え始め、頭のなかがごちゃ混ぜになる。

 そうです、とはっきり言ったらどうなってしまうのか、どんなことをされるのか、わからなすぎて怖くて、唇が戦慄く。

「お、れが……ち……かん、してた人、……です」

 うつむいて縮こまり、自分でも聞こえないぐらい小さな掠れた声でこたえたら、再び右手をさらわれて思いきり握りしめられた。

「撫でて救ってあげていた人でしょう……?」

 顔まで燃えて破裂する。

「その人、は……そんなこと、言って……ました」

 指と指も、いま一度絡めあわせて恋人繋ぎにされた。

 杉浦さんの手、体温高い……指、長い、……しぬ。

「いまもそう思っているし、ずっと恩を感じて生きていたよ。なおが俺の人生に現れて、心のなかにいてくれたから生き返ることができた。……なおのことを愛してる」

 ……暗がりのなかで杉浦さんの鋭く熱い瞳が鈍く輝いている。

 息が止まっていた。
 彼の眼差しを見ていたくてまばたきもできなくなった。

 乾いた目を、底からにじみだす涙が潤していく。

「俺も、忘れなきゃって、思ったのに……毎日、思ってたのに、駄目でした……好きでした」

 慈しむような抱き潰すような、痛いほど強烈な力をこめて繋がりあった掌を握りしめられた。

 喜びとか感動とか、愛おしさとか至福感とか、杉浦さんが抱いてくれているさまざまな激情が指先を通じて自分のなかまで浸透していくのを感じる。涙が、止まらなくなる。

「……幸せだよなお。ありがとう」

「いえ……そんな、」

「ごめんね。指輪をはずして北海道まで来たんだから離婚したことや俺の想いは伝わっているだろうって勝手に自己完結して、ひとりで浮かれてた。まさか一年前のあの夜から必要以上になおを傷つけていたとは思っていなくて……心からお詫びするよ。申しわけなかった」

 杉浦さんの表情が苦しげで、哀しそうにゆがむ目もとが嫌でやめてほしくて、頭をふる。

「謝らないでください。でも……じゃあ、あのときどうして指輪、」

「夫としての責任から逃げるのをやめようと思ったからだよ。こそこそ指輪をはずして現実逃避して、自分の心を守るかわりに周囲の人間を傷つけて、そうしながらなおに許されて甘えて……自分がもっとも愚かしい子どもだったって気がついた。だから向きあう覚悟をしたんだ」

「そう、いう意味……」

「あの夜から紗英と離婚の相談を始めて、おたがいの親にも頭をさげにいってきちんと終えた。それで紗英が再婚して幸せになった姿を見届けたから、なおを捜してここに来たんだよ」

 杉浦さんのたどってきた一年間がどんなものだったのか、短い説明でも鮮明に見えるようで胸が詰まった。

 真摯な姿勢を保ち続けて、この人は奥さんや親たちに、自分自身に、再び挑み続けたのだ。

 挑む、なんて言ったら、奥さんたちに失礼だ、間違いだ、と杉浦さんに怒られそうだけど、俺には、この人を傷つけて追い詰めた敵のようにも見えるから、そう思ってしまう。

 真っ黒い脅威に似た、杉浦さんを陥れたものたちに、彼は真正面から挑んでもう一度一年間も戦った。

 そして離婚して縁が切れても、不倫をした裏切り者の奥さんが再婚するまで寄り添い続けて、夫の責任を果たしたんだ。

「……やっぱり杉浦さんは、俺が想ったとおりの人でした」

 左手で涙を拭って、指についた涙粒を腹にこすりつけてから、杉浦さんの胸に掌をおいた。

 彼の目を覗いて、奥の底を探る。

「……また、たくさん傷つきましたか。酷いこと言われたりしなかった……?」

 俺の存在に救われた、って言ってくれたのに、この一年は傍で彼を守れなかった。それが、いますごく悔しい。

「大丈夫だよ」

 杉浦さんも目でうなずいて、俺の左手も握りしめる。

「〝大丈夫〟って、ごまかしの言葉でもあるんだよ」

 睨み返してしつこく彼の目の奥を注視していると、彼は、まいるな、というふうにハンサムに苦笑した。

「……もし傷ついていたとしても全部俺が受けとめるべきことだから、そこはなおが癒やそうとしてくれなくていいんだよ」

 ほら、またひとりで背負ってる。
 奥さんと親たちも全員平等に人を傷つけているのに。

「癒やすんじゃないんです、守るんです。他人の気持ちとか常識とか正しさとかは杉浦さんが見なくていいところまで全部見て受けとめてるから俺は見ない。あなたが傷ついたことだけが俺の事実で現実だから守ります。俺は、あなたの味方だから」

 抜け殻だった数年間の杉浦さんの姿が次から次へと蘇ってきて、拭ったのにまた涙がほろほろ落ちていった。

 人間だから弱い面もあるだろう。

 怯えて逃げて、責任を放棄して他人を傷つけたのも本当かもしれない。

 だけどどうあろうと結局この人が常識や倫理を犯さない誠実な人間なのも真実だ。

 そして周囲の人間たちが彼の心を抉って引き裂いて、裏切って、追い詰めたのも揺るぎない現実に違いない。

 だから守る。

 この人のどうしようもない正しさが俺に信頼感を抱かせてくれるから、俺はこの人を信じて愛して、永遠に味方で居続ける。居続けさせてくれるんだ。

「……泣けてきてしまうね」

 杉浦さんもほんのすこし口角をあげて優しく微笑みながら、右目からほろ、と一筋涙をこぼした。

「……なおがいないと生きられない、甘えた人間になっていくから困るよ」

 杉浦さんの掌を、俺も握り返した。いるよ、という返事のつもりだった。

「……会いたくて、抱きしめたくてここまで来たけど、迷ってもいるんだよ」

「え……なにを」

 右手で涙を払って、杉浦さんが情けなげに苦笑する。

「あなた、二十二歳でしょう。……気持ちは伝えるにしても恋人関係を望むのはおじいちゃんの我が儘じゃないかと思っているんですよ」

 わが、まま……俺なんかと、恋人になるのが……?

「一生の恋とか、愛、……を知るのに、適した年齢が、あるんですか」

 唇を尖らせて睨みつつも、杉浦さんと恋人になるという現実が信じられなくてどきどきした。

 杉浦さんはふっと苦笑する。

「二十代で結婚して、三十後半でなおに運命を感じてる俺にそれを訊くのはどうだろう」

 ん。

「奥さんには運命を感じたんですか」

 結局不倫して、苦悩していたあなたの真横で裏切り行為を続けていた酷い女性に。

「その質問はなおに対してこたえていいものではないね。だけどひとつ言うなら、感じている運命の種類は違うよ」

 俺の攻撃的な詰問にも、杉浦さんが誠実に、律儀にこたえてくれたから、途端に自戒した。

「……すみません。悪いことを訊きました」

 左手を彼の胸からゆるゆるおろして萎縮する俺の頭の髪を、杉浦さんが掻き混ぜてくれる。

「……なおは本当に俺の味方でいてくれるんだね」

 しみじみ言いながら、左耳の端の冷えている部分もやわく揉まれた。

「争いの片方を味方するのは愚行でしかないのに、なおの気持ちを嬉しく思う俺は、いまだに子どもなんだろうな」

 ……杉浦さんのこういうところも尊敬している。
 俺のばかさを正してくれながらも完全否定しないうえ、〝怒ってはいないよ〟と嘘のない想いと言葉でなだめてまでくれる優しいところ。

「杉浦さんは全然子どもじゃないです」

「うーん……ありがとう」

 納得はいかないけど、と言うふうに苦笑する杉浦さんを見つめた。

 耳に、車を撫でる寒風の音が過っていく。
 チコ、チコ、チコ、とハザードランプもまだ鳴っている。

「俺は杉浦さんをずっと好きです。この一年だって、あの夜きっちり別れたのにほかの恋愛が考えられなかった。一年前ちゃんと会話を交わして親しく過ごせたのは短い期間だったけど、片想いしてた数年も含めて全部一生の宝物で、この宝物以上の宝物なんて絶対に出会えないし、いらないです。……けど、俺も不安なことありますよ」

「不安……? なんだろう」

 杉浦さんが俺の耳から手を放して、片手だけしっかり握りあわせたまま見つめ返してくる。

 真摯な瞳もさっきから一瞬だって濁らず、純然と俺を捉え続けてくれている。

 でも、だから余計に怖かった。

「……怖いです。杉浦さんは、……男と、つきあったことなんか……ないでしょ」

 ぱか、と口を小さくひらいた杉浦さんが、「……ああ」といま気づいたみたいに呟いた。

「ないね。なおが俺の気持ちを受け容れてくれたら初めての彼氏だよ。それのなにが怖いの?」

「な、にがって……」

「少なくとも、こうやって一緒にいることに俺はまったく違和感を覚えないけど」

「恋人だってこと、隠さないといけないし……手を繋いで歩いたりも、大っぴらにできないし、細かくいろんなことが、男女のつきあいとは違うんです」

「男女でも公共の場でいちゃつくのはどうかと思うけどな。恋人がいることは誰にでも言えるんじゃない? 俺は離婚しているから会社でもどこでもそういう話は控えるけども」

 あ、そ……そうか。

「なおと一緒に生きていければ、俺は充分幸せだよ。いずれパートナーシップ宣誓はしよう。家族と同等だと認めてもらったほうがいい場面は必ずでてくるからね」

 ……さすがに、一度結婚していた杉浦さんは将来の見据えかたも軽くない。
 こういう面は、子ども相手の恋愛じゃないんだって実感するけど……。

「まだ不服そうだね」

 うつむいていた顔を、間近で覗きこまれてどきとした。

「言ってほしいな、なにが不満なのか」

「不満……とかじゃ、ないです」

「違うの」

 突然、口のあわいにむにっと……杉浦さんの、右手の人さし指が、横向きに押しつけられた。

 蠱惑的な、でも容赦のない彼の瞳が、目の前にある。

「……こういうことでしょう。なおが心配してるのは」

「ぁ、……ム、」

 親指も伸びてきて、上唇を軽くつままれる。

「……キスしたいって言ったよね。俺を煽るならそれなりの覚悟をしないと駄目だよ」

 は、ぁ、う、ぅ……。

「あお、る……こ、と、できる、と……思えない、から……不安、なん、」

 です、の続きは、杉浦さんに右頬を噛まれて「ひあ」と悲鳴に変わった。

「……俺もさっきからずっと不満に思ってることがあるんだよ」

 唇を解放されたかわりに、左顎を大きな掌で包まれて拘束され、右頬を舐めて、吸われて、甘噛みされて、アイスクリームみたいに頬も心も蕩けていきそうになる。

「……名前で呼んでよなお。俺を恋人にしてくれないの?」

 舐められてる。

 杉浦さんの舌が俺の頬に唾液をつけて、冷えた部分を全部、口を大きくひらいてかぶりつかれて、噛まれている。

「け、……け、ゃ、」

「呼んでくれたらキスするからね」

 全身が熱して、焦りと昂奮で耳鳴りがしてきた。

「そ……んなこと、言われたら、……呼べな、ぃ」

「なおの気持ちの準備が整うのを待つけどできればはやくしてほしい。なおを捜し始めてからいままで、抱きしめたくて抱きたくて毎日夢見てたから」

「ゆ、……夢って、」

「なおとのセックスは愛しあうためだけのものなんでしょう……?」

 瞠目して見えた車の天井越しに、杉浦さんと初めて会話をした夜の、公園の情景と自分たちが蘇ってきた。

 ――素直のセックスはどういうものなの。

 ――ちょっと、クサいかもだけど……たぶん、愛しあうだけのもの、かな。

 ――……ああ、それは羨ましいね。

 自分の左目から、涙がこぼれていく。

 ――……セックスっていうのは、本来そういうものかもしれないよね。

 ――忘れてたな……。

 この涙は自分と、杉浦さんのものだ、と思った。

 空虚で孤独そうで、心をすり減らして傷つき果てていたこの人が好きだった。

 自分で言っておきながらそんな夢みたいなセックスは知らなくて、杉浦さんのような堅実で寂しい人となら、知られるんじゃないかって勝手で愚かな憧憬に暮れた。

 ずっとこの人が欲しかった。
 ずいぶん前からこの人のものになりたかった。

 そうやっておたがいを包んで想って、生きたかった。


「……賢也さん。……俺も、愛してます」




















 ←BACK//TOP//NEXT→