民宿は三部屋あって、洋室が二階に二部屋、和室が一階に一部屋ある。

 こぢんまりした民宿やゲストハウスではトイレと風呂が共同使用なうえ、シャワールームのみで浴槽がないところも多い。

 そんななかうちはどちらも全室に完備していて、風呂もしっかり身体を温められる浴槽付きだから、とくに女性のお客さまに喜んでもらえる宿だった。

「――あ、素直。ちょっと、杉浦さんなんまら格好いい人だねえ? あんたどこであんな人と知りあったのよ?」

 民宿のほうへ移動したら、受けつけカウンターのなかにいた母さんに早速捕まった。

「や、うん……」

「びっくりするぐらい背ぇ高いのっ。なに食べたらあったらおっきくなるんだか。東京の人はみんなモデルさんみたいねえ」

 ……ストーカーに違いない、警察に捕まえてもらおう、と意気込んでいたくせに、イケメンだと知った途端、態度が急変して興奮している。

「あの、そのことなんだけど……今日の仕事七時ぐらいに終えて、杉浦さんの観光案内してもいいかな」

「今日? お客さまも杉浦さんともう一組、カップルで旅行に来てるおふたりさましかいないから大丈夫だよ。諒さんはなんて?」

 諒さん、はシェフの池崎諒さんのことだ。

「うん、諒さんもいいって。こっちが忙しくなければ好きにしなって言ってくれた」

「うんうん、行っておいで。夜はしばれるからしっかり防寒して、気をつけてね」

 母さんはなぜかご機嫌で、にっこにこ歓迎してくれる。イケメンすごい。

「ありがとう。あと、あのね、その……」

「ん? まだなにかあるの?」

「……もしかしたら杉浦さんが泊まってるあいだ、また時間欲しくなるかもしれないです」

「どれぐらい?」

「……よく、わからない」

「え?」

 そろそろ日が暮れて、夜も深くなっていく。でも杉浦さんはいまもまだカフェにいて、窓辺の席でのんびり本を読んで過ごしている。

 三時にチェックインを済ませて荷物を整理したあと、すぐに戻ってきて数時間ずっとだ。

 近場には青い池以外にもいくつか観光名所があるのに、遊びに行くでもない。

 そっちにはとくに興味がない、という圧を感じる。
 もしくは、おまえがいないなら意味がない、というふうな訴えが……聞こえてくる。

 ――友だちにキスしたいとは想わないでしょう。

 キスって……。

「ごめん。とりあえず、もうちょっとちゃんと話してみるね。そのあとまた相談する」

「ンン、いいけど」

 民宿をでて父さんが日中雪かきしてくれた道を歩き、カフェへ戻った。

 奥のテーブル席に座っている杉浦さんの背中は、軽くうつむき加減に文庫本を読んでいる。

 カウンターへ入ると諒さんが「料理できたよ」とちょうどサラダを盛り終えたところだったから、「はい」とお盆を持って杉浦さんのテーブルへ移動した。

「お待たせしました、地元ブランド牛のステーキ丼です」

「……お、ありがとうございます」

 杉浦さんの前へ、まだほんのり湯気をあげているステーキ丼とサラダのセットを置いた。

 文庫本を横によけて、彼はまた目を輝かせながらまじまじと眺めてくれる。

「すごくいい匂いだね……美味しそう」

「ぜひ温かいうちにお召しあがりください」

「はい。……味つけはどうなりましたか?」

「シェフがご要望どおりに仕上げた、美味しい丼になっていますよ」

「我が儘をすみません、ありがとうございます」

 杉浦さんがいたずらっぽく口端を引いて苦笑する。

 ……本来、ステーキセットはお肉とガーリックライスとサラダの三点セットだ。でもたまにガーリックが苦手なお客さまがいて、そういうときは希望に応じて和風ステーキ丼に変更する。

 丼にご飯を盛って水菜をのせ、バター醤油で温めた厚切りのステーキときのこ、玉ねぎを添えた、ヘルシーさが人気の裏メニュー。

 杉浦さんも『ブランド牛が食べたいけどガーリックか……』と意味深に俺の顔色をうかがってきたから、こっちをすすめたら喜んで注文してくれた。

 ――友だちにキスしたいとは想わないでしょう。

 ん、う……。

「……今夜どうでしたか。なおの時間、もらえそうかな」

 もうポット三杯目の紅茶を飲みながら訊ねてくる。

「……はい、大丈夫です。許可もらえました。……本当に青い池に行くんですか」

「嫌ならやめてもいいよ。なおの傍にいさせてもらえればそれでいいから」

 息が詰まって、心臓も不自然に鼓動して噎せそうになる。

「いえ……せっかく遠くまで来てくださったんですから観光していってください。あと、シェフもいるので、店ではあまり変な発言は控えていただけると……、」

「あの人がいまの彼氏なのか」

 しっ、と人さし指を口の前に立てて睨み据えた。「違いますから」と小声で叱る。

「父の友人で、親友ですよ。そんな人を好きになるわけないじゃないですか」

「わからないよ。死にかけの既婚おじさんに痴漢してた子だし」

「っ……それも、ここでは言わないでくださいっ」

 顔面が熱い。
 怒っているのに、杉浦さんは顔を伏せてくっくくっく笑っている。

「……なおが悪いんだよ。人の告白を〝変な発言〟なんて言うから」

 告白。

「とにかく……青い池は行きましょう。七時に仕事を終えたら俺も準備します」

 それでふたりになってから、杉浦さんの話をきちんと聞こう。
 俺も現在の彼の状況をちゃんと知りたい。

「なお」

 カウンターに戻ろうとしたら左手を掴んで止められた。温かくて大きな手と指に、どきりと心臓が跳ねて全身がかたまった。

 杉浦さんが俺を見あげている。

「……楽しみだと思ってくれる?」

 ふたりで、青い池へ行くこと……?

「旅行みたいに、観光地をふたりで巡るのを楽しみだって、俺はなおに言ってほしい」

 真剣でどことなく悲痛な面持ちに胸を貫かれた。

 指先の震えが、掌を通じて杉浦さんに伝わってしまいそうで怖い。

 旅行……ふたりで。

「……。楽しみ、です」

 杉浦さんの顔に見る間に花が咲いていき、満面の笑顔に変わった。

「よかった……そのひとことだけで天にも昇る心地だよ」

「や、めてください。地に足つけて生きていて、ここで」

「はは」

「俺が言うと冗談にならないものね」と杉浦さんは過去の自分を笑って、お箸を手に持つ。

 そして「いただきます」と幸せそうに手をあわせた。



 食事を終えたあとも杉浦さんは当然のことのように本の続きを読み始め、カフェでのんびり過ごして部屋へ戻る気配はなかった。

 バイカーが来てくれる、と話したけれど、冬期はさすがにツーリング目的のお客さまは減る。

 今日も夜は民宿のお客さまをもてなしたら杉浦さんだけになったから、諒さんのはからいで七時よりさらに十五分も前に退勤させてもらってしまった。

 自分も夕飯を済ませないと、とまかないのスープカレーを掻っこんで、それからニット帽とダウンジャケットとマフラーと手袋を身につけた。

 鏡の前で帽子と髪と服装を整えて息をつく。すでに落ちつきなく鼓動し始めている心臓が、喜びと恐怖のどちらを訴えているのか、もはや判断がつかない。

 七時になった。

 裏口からいったん外へでて、むぎ、むぎ、と薄く積もった雪を踏んで店へ入りなおし、緊張する心を整えつつ杉浦さんの横まで行く。

「……用意、できました」

 顔をあげた杉浦さんは、俺を見ると途端にふわっと眉をさげて微笑んだ。

「むくむくで可愛いね」

 ま……また言った。

「夜はしばれるからしっかり着込まないと駄目なんですよ」

「しばれるか」

 しまった方言がでた。

「杉浦さんはトイレに行っておいたほうがいいです。今日ずっと紅茶がぶがぶ飲んでたから」

「脅さないでよ。青池にも売店と公衆トイレがあるってネットで見たよ」

「あるけど売店は五時までだし、そもそも冬期休業です」

「えぇ、青いソフトクリーム食べたかったのに」

「調べが甘かったですね」

「また暖かくなったら来ればいいか……」

 文庫本をポケットにしまって、杉浦さんがソファ席から立ちあがる。

「じゃあ準備してくるからすこし待っていてください」

 向かいあって立つと、電車内でいつもそうだったように長身の彼を見あげる格好になった。

 ……彼の胸もとが正面にくる、懐かしい目線と近さ。

 昔見たスーツ姿の物憂げな杉浦さんが、目の前の生気を取り戻した彼の向こうに見える。

 ――……おでこに、俺のボタンの痕がついてる。

 ――……いいです。消えなくても。

 ――……変だよ。消したほうがいい。

 ――いた、いいから、やめて。

 ふいに瞼を細めて切なげに苦笑した彼の右手が、ほわ、と俺のニット帽の上にのった。

 おなじことを想い出している、と、どうしてなのか、その瞬間わかった。



 ……楽しみ、なんて言ったのは失敗だっただろうか。
 離婚の説も濃厚になってきたとはいえ、たしかなことは聞いていないのに早計だったんじゃないか。

 だけど杉浦さんは不誠実な人じゃないはずだ。匂わせるようなことを言ってくるのも理由があるはず。
 ……そう信じたい。

「――たしかにしばれるね……車内もやっと暖かくなってきた」

 車のハンドルを握って真っ暗な夜道を見据えながら、杉浦さんが言う。

「……ちょっとばかにしてますか、方言」

「え、してないよ。可愛いとは思ったけど」

 また。

「北海道弁ってあまり標準語と変わらないよね。聞きとりづらいこともない」

「そうですね……〝だべ〟とか〝しょや〟とか言いますけど、東北みたいにとんでもなく訛ることはないし、うちの民宿の従業員はわりと標準語にあわせて話す癖もついてるから違和感はないかもしれません」

「ああ。なおも東京に四年間いたしね」

「はい。あと、もう〝なまら〟とか若い子はほとんど言わないです」

「ふうん……でもすこしこぼれる瞬間ときめくよ。〝なんもなんも〟とかも可愛い」

 ……っ。

「〝好きやねん〟とか〝好きやけん〟って方言もあるけど、北海道弁だと〝好き〟って告白はどう言うの?」

 半分だけ視線をこちらに向けて、杉浦さんが薄く微笑んでいる。
 俺も横目で睨み返して、口内で奥歯を噛む。

 助手席に座るだけで狂う、って昔教えたのに、こんな軽薄な誘導してきて……。

「……べつになにもないです。標準語とおなじですよ」

「聞かせてほしいな」

 ちょっとでも距離をつくりたくて、サイドウインドウのほうへ逃げた。

「杉浦さん、ホストみたいですね。じゃなかったらセクハラですよ、それ」

「えっ……すみません」

 ひとりごとのように「結構傷つくな……」と呟いて苦笑し、前方の道を眺めながら運転する横顔が格好いい。

 車庫入れとか縦列駐車をする男のしぐさが素敵と言う人は多いけど、俺はただなにかに集中しているときのなにげない姿も好きで見惚れてしまう。

 好き、なんて……声で言ったら必死に塞きとめている激情が暴走してばかになってしまう。

「俺にそれを言わせて、どうしたいんですか」

 仕事も終わった。もうカフェ店員とお客さまでもない。この人に、向きあうときがきた。

「そうだね……夢に浸りたいかな」

 ……夢。

「いまの杉浦さんのこと、俺……好きになれません」

 あんなに綺麗に潔く、でもすこしだけおたがいのパートナーを裏切りながら、数分間だけの恋に溺れて別れたというのに。

 わざわざ俺を捜してこんな遠くまで会いに来て、そして今度は本気で奥さんを、もしかしたらお子さんまで、裏切ろうとしている。

 キスってなに。

 可愛いってどういうこと。

 夢なら、もう一年前に見て終わらせたじゃないか。

「……なおは新しい恋愛をしてるの」

 寂しげな小さな声で、杉浦さんが訊ねてくる。

「それ以前の問題だと思います」

 俺たちの気持ちより、考えなければいけない人たちの想いがある。

「どういう意味だろう」

「どういうって、わからないはずないでしょ」

 狭い車内で大声で怒鳴りそうになったのを、ぎりぎりの理性で抑えた。
 でも自分が鬼の形相をしているのは頬のひきつり具合でわかる。
 その顔を、杉浦さんが前方に注意を払いつつ訝しげに見返してくる。

「……申しわけない。なおがなにを言いたいのか、ちょっとよくわからない」

「どうして? 奥さんのことですよっ。……ご家族の、ことですよっ」

 はっきりと言葉にしたら、車内がしんとしずまり返った。

 道路を注視している杉浦さんも、数秒だけ俺を見つめてから、無表情で再び向きなおる。

「……。そうか。……なおが素っ気ない理由がやっとわかったかもしれない」

 車のスピードがゆるやかに落ちていく。

 え、と不思議に思ったら、左手をハンドルから離した杉浦さんがいきなり俺の右手を握りしめてきた。
 強引に指と指を絡めて、大きな掌で俺の手を包みこんでしまう。

「な、……やっ、」

「してないでしょう、指輪」

 心臓が飛びだしそうだ。
 手、あ、つい。

「して……ないけど、……あのとき、してた」

「あのとき?」

「さい、……さいご、の日」

 容赦なく杉浦さんがさらに強く掌を握りしめてきて、口から魂が飛んでいった。

 服の下の、全身が、汗だくですごい……冷や汗なのか、なんなのか、わからない。助けて。

「なおの考えが理解できてきたかもしれない」

「なんですか、考え……?」

「あの夜なおは俺が紗英のもとへ帰るつもりだと思いながら熱海旅行の話をしていたんだね」

 違うんですか、と声がでないかわりに見つめ返していたら、杉浦さんはため息をついた。

「……もう青池の駐車場に着くけど、車をとめて抱きしめたい」

 切羽詰まったような杉浦さんの表情に圧されて、心が弾ける。

「さっきから……気になってたけど、〝青池〟は、青森です。美瑛は、〝青い池〟」

 思考が狂って謎の訂正をしたら、車がぐいと路肩に寄って停車した。

 冷静とは思えない杉浦さんの行動に激しく狼狽えて、身体が竦んだまま硬直する。

 まさか本当に抱きしめられるんだろうか、と心臓が胸を突き破りそうに暴れているのを感じながら混乱していたら、杉浦さんは俺から手を放して、両手で自分の顔を覆った。

「ぇ……杉、浦さ、」

「……すこし待って。なおの気持ちを想いやるのを忘れて噛みつきそうだから」

 か。


 ……それ、もう……言葉だけで、こっちは充分、粉々になるんですけど……。

















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