母さんが訝しげな顔をしてやって来たのは一週間前のことだった。

 ――ねえ素直、杉浦さんって知ってる? さっき電話で予約してくれた東京の人なんだけど、『そちらに素直君というかたはいらっしゃいますか』って訊いてきたのよ。

 友人なら俺を通して予約するだろうし、うちの民宿の従業員かどうか知らないのもおかしい、それに三十八歳の男性で、俺との関係がまったくわからない、と言う。

 東京のバイト先かなにかで目をつけてきたストーカーじゃないか、だったら予約を断るか、こっちに来たとき警察に捕まえてもらおうか、とまで話を進めていきりたつ。

 ――……や、うん、大丈夫……一応、知ってる人。

 平静を保ってどうにかこたえたものの、意識の半分は飛んでいた。

 母さんが不審に思うのも当然だ。
 なにも教えあわずに別れたのにどうやって見つけてくれたんだ、と俺も混乱した。

 ひとつ思い当たるとしたら、俺が働いている店の名前しかない。

『CAFE Sunao』――それにしたって、ひろい道内でよくたどり着いたものだと思う。

 ……捜す必要だってなかったのに。

 最初に旅行の話をしてふたりして動揺し、おたがい好意があるのかもと知ってしまったあと、杉浦さんはずっとはずしていた指輪をつけていた。

 彼の答えと選んだ未来はちゃんとわかっている。

 予約の人数はひとりで、奥さんやお子さんを連れた家族旅行ではないようだけど、彼の目的は俺にも想像がつかない。

 しかも今年もそろそろ終わろうかという十一月の、雪の気配がする時季に。

 ――ありがとうなお。なおも幸せになってね。でないと俺は心配で眠れないから。

 しっかり眠るための安否確認……とか?

 一年経っておたがい落ちついたはずだから近況報告でもしよう、と考えているのだろうか。

 なんにせよ、気を引き締めて挑まなければいけない三日間になる。

 緊張が心臓を震わせるのを感じながら息をついた。

 とうとう明日、杉浦さんがやってくる――。





 午前中の営業を終えて昼休憩に入り、食事をしていたらスマホが鳴った。

『ナオ、おまえに手紙きてたぞ』

 洋服屋のダイレクトメールの画像と、簡潔な文章。

 昭之だ。

『処分しておいてください』

 そういえば郵便物の転送期間は一年だったか。

 二度と行くことのない東京のお店のセールの知らせだ、お店には申しわけないけどさすがに必要ない。
 こんなことあいつだってわかっているだろうになんでわざわざ連絡してきたんだ。

『もしまたなにか届いてもそっちで処分してくれてかまわないので、お願いします』

 追送したら、昭之の返事と被った。

『おまえが捨てろよ。ダルいから全部とっておく』

 腹に嫌悪感のモヤがひろがってじっとり靠れる。ため息をついて吐きだし、スマホを横に置いてポトフをすすると、スマホについているキーホルダーが視界を掠めた。

 ――……なおに幸せになってほしくて選んでみたよ。お守りは自分で買うより、人からもらったほうがいいって聞いたこともあるからあげたかった。

 頬や足の裏のあたりにすり傷がついてしまったビリケンさまは、今日も笑ってくれている。

 もしかしたらこれも外しておいたほうがいいのかな。
 お客さまの前でスマホを使うことはないから大丈夫だとは思うけど……。

「――すみません」

 そのとき店のほうからドアベルの音と声が届いて、はっと息を呑んだ。この声。

「すみません、お店のかたはいらっしゃいますか」

 口のなかに残っていたじゃがいもを一気に飲みこんで椅子を立ち、咳きこみながら急いでカウンターへ入った。

「……い、いらっしゃいませ」

 店内は横長の造りになっていて、入店すると手前に五つのソファ席、奥に長いカウンター席を見渡せるようになっている。

 本来ならお客さまのところへ迎えに行ってご希望の席まで案内するのだけれど、足が、……動かなかった。

 杉浦さんがいる。

 初めて見る焦げ茶色のニット帽を被って、紺色のダウンコートと、パンツとロングブーツ姿の、暖かそうな格好で……頬に、笑いじわを浮かべて、微笑んで。

「……ひさしぶりだね」

 頭が真っ白になって、一年かけてようやく過去になりかけていた輝く記憶の結晶がどんどん溶けてまた鮮明にかたちづき、現実に、ここに、戻ってきてしまうのを感じた。

 目の奥が痛んで涙が溢れだしそうになったから、口内で歯を思いきり噛みしめて耐える。

 声をだしたら喉がひきつって、涙を耐えきれなくなるんじゃないかと思う。でも、しゃべらなくては。

「……おひさしぶりです」

 三十代後半の男っていうのは、たった一年でこうも貫禄が増すものなのか。
 目もとに浮かぶ穏和さと色気も以前より何倍も濃くて、直視できない。

「ええと……まだ、時間が、」

「うん、そうなんだよ。チェックインまで時間があるけど、こっちのカフェで食事をしながら待っていていいって言われたから来ました。休憩時間でも知りあいならかまわないって」

「そ、うですか……」

「迷惑だったかな」

「いえ、全然、大丈夫です。でもシェフが外出しているので、お料理は作り置いてあるポトフのセットしかご用意できないんですが、よろしいでしょうか」

「ポトフ。北海道の野菜が味わえる料理かな」

「はい、じゃがいも、にんじん、キャベツにブロッコリー、全部地元のものです。ベーコンもブランド豚を一週間熟成して作ったこだわりの味ですよ」

「美味しそうだね、ぜひお願いします」

 ちゃんと話せた……、と内心ほっとしながら、笑顔を繕って「ではこちらのお席へどうぞ」と自分の前のカウンター席へうながした。

 杉浦さんはゆっくり歩いてきて帽子とコートを下の荷物かごへ入れてから椅子に腰かける。

 ……気を抜くと見惚れて硬直してしまう。
 こっそり深呼吸して心を引き締め、ポトフのセットを用意した。

 ポトフは北海道産の食材をシェフこだわりのミルクスープで煮こんだ一品で、とても優しいまろやかな味をしている。
 ご飯もついていて、こちらも地元食材満載のコーンバターピラフ。
 おまけのデザートも季節などによって変わるけど、今日は俺も大好きな牛乳プリンだった。

「……どうぞ」

 お盆にのせて杉浦さんの前にだすと、「うわ……」と目を輝かせて感激してくれた。

「すごく美味しそうだね。思った以上に豪華だ」

「ありがとうございます」

「コンソメじゃなくてミルクのスープなんだ」

「コンソメもつかってますよ。地元の牛乳をあわせて味を調整したミルクポトフなんです」

「へえ……すごいな、初めて食べるよ」

「いただきます」と手をあわせてから、杉浦さんが木製のスプーンと器をやわらかなしぐさで持ってスープをすすった。

 その左手から、指輪がなくなっている。

「ああ……とっても美味しい。野菜とベーコンの旨味なのかな、しっかりコクがあってスープだけでも満たされるね」

 低く涼やかな声でしみじみと賛辞をもらい、はたと我に返った。

「はい、……ありがとうございます。シェフにもあとで伝えておきます」

 穏やかな笑顔を浮かべたまま、杉浦さんがスプーンでじゃがいもを崩し、口に運ぶ。
「こんなに甘いじゃがいも知らないよ」と声を弾ませて、さらに喜んでくれる。

 指輪……なんでないんだろう。

 俺の前で奥さんとの幸せをひけらかすような真似はしない、っていう気づかいなのかな。そんなこと気にしなくていいのに。

 それともいままた、指輪を重たいと感じるほど辛い精神状態だとか……? あ、だからもう一度救いを求めて捜してくれたのか。だとしたら納得もできる。

 まさか離婚したっていうわけじゃ……。

「――とてもいい民宿だね」

 バターピラフを掬って食べながら、杉浦さんが囁くように言った。

「あ……はい、恐縮です」

「こんなだだっぴろい自然のど真ん中にある民宿っていうだけで魅力的なのに、カフェが併設されているなんて夢の世界だと思ったよ」

 椅子に腰かけている彼は、自然と俺を見あげる格好になる。
 優しさが溢れる温かい笑顔は目を見張るほど晴れやかで、昔の陰鬱で寂しげな影はない。

 夢の世界、か。

「……ありがとうございます。カフェは俺が大学に進学したころできたんです。このあたりはバイクでツーリングに来る人たちも大勢いるので、いろんなかたの憩いの場にしたいねって。おかげさまでたくさんの出会いに恵まれています」

「うん、北海道は素泊まりオッケーの民宿やゲストハウスも多くて、バイカーに人気らしいね。でもなおのところはカフェで美味しい食事も食べられるから別格だって、評判もよかった」

 なお……って呼ばれた。

 恋人のふりをしていたときだけの呼びかた。

「はい……ありがたい限りです」

 心臓が不穏に騒ぎだした。

 杉浦さんは依然として邪気なく微笑み、ポトフのにんじんを咀嚼している。

「なおが大学に進学したころとなると、なお自身はあまりカフェのほうになじみがなかったのかな」

「そう、なんです……じつは。でも東京でコーヒーショップのバイトをしていたから戸惑うことはなかったし、この一年で親しくしてくれる常連さんも増えて、とても充実しています」

「うん……ひさびさに会ったら憑きものがとれたみたいに表情が晴れやかで、可愛さが増していたから安心した」

 か。

「じゃあお店の名前は単にご両親のなおへの愛情なのか。もともと手伝っていたとか、なおがお店の経営者になる予定だったとかじゃないんだものね?」

「……です、ね。シェフは父の友人で、東京のレストランで働いていた人なんですけど、こっちに戻ろうかって悩んでいた時期と、うちがカフェをつくりたいと思っていたタイミングが重なって、話が進んで。それで今度は俺が就職に迷っていたころカフェも軌道にのって忙しくて、店員を欲しがっていたタイミングとぴったりで……って感じでした。俺にとってはちょっと照れくさい店名です。でも〝素直〟って両親が好きな言葉だから、しかたないかなって」

「好きな言葉か……」と杉浦さんがピラフを食べて瞳をにじませる。

「実直に捻くれず生きるのが難しいからこそ、そうあれる人や、そうなれた瞬間が尊く美しいものだよね。苦しいのに眩しい言葉だ」

「……はい」

「おかげで俺はなおと再会できたからご両親の想いに感謝してるよ。無事に会えてよかった」

 杉浦さんの甘やかな目の奥に、野生の動物めいたしずかな獰猛さを見て危機感を覚えた。

 動いていないと落ちつかないから、「飲みものもおだししますね」とティーポットを用意して紅茶葉とブルーベリーとレモンを入れ、お湯を注いだ。

 ――なお。

 ――可愛さが増していたから安心した。

 ――また会えてよかった。

 どんな顔をすればいいのかわからない。笑っても口もとが引きつっていないか不安で困る。

「なお」

 まっすぐ胸を射る透きとおった声で呼ばれて、反射的に顔をあげた。

「夜でかまわないから、ふたりでゆっくり話す時間をくれないかな」

 心は置いてけぼりなのに身体だけが反応する。

「夜……ですか。仕事は、一応、八時までですけど……」

「よかった。じゃあどこか景色の綺麗なところにでかけて、」

「いや、無理です」

 間髪入れずにつっこんでいた。

「東京とは違うんです、夜に出歩くのは危険ですよ。雪も降るようになって寒いですし」

「そうなの。青池はライトアップもしてるってネットで見たけどな」

「してます、けど……あそこもいまは夜九時でおしまいなんです」

「移動時間も考えると無理かな。なおと行きたくて楽しみにしていたんだけどな……」

 杉浦さんが上目づかいでじっと俺を見あげてくる。動揺しすぎて卒倒しそうだった。

 こ、んな……アラフォーの子どものおねだりみたいな表情、破壊力ありすぎる。

「……お返事、すこし待っていただけますか。友だちが泊まりに来てくれたときはシェフとオーナーに相談すれば退勤時間に融通を利かせてくれることもあるので、聞いてみます」

 しっかり蒸らした紅茶にはちみつを加えてから杉浦さんのお盆の横に置いた。

 俺の表情と動きを凝視してくる彼の視線が痛くて、全身を縛られているような錯覚が苦しい。

「……じゃあ夕飯のときまた誘うよ」

「はい……すみません、お願いします」

 料理はもうほとんどなくなっていて、杉浦さんは最後のスープをすすって、残りのピラフもスプーンで掬って口に入れた。

 牛乳プリンを手前に持ってきて、紅茶をそっとカップに注ぐ。

「ふたりきりででかけるのは、なおには都合の悪いことですか」

「え……や、悪いことは、」

「たとえば不機嫌になる彼氏がいますかっていう意味なんだけど」

 後頭部のてっぺんのあたりがじりと痺れた。舌の上にも苦い思いが染みてひろがる。

 たぶんいま、自分の眉毛はゆがんで、鼻にもしわが寄ってしまっている。

 どうしてこんなことを訊いてくるのか……目の前にいる男に――かつておたがいの心のなかだけでただひととき恋人になったことのある既婚者の男に、なんとこたえるのが正解なのか、わからない。

「……ごめん、不躾だったね」

 ティーカップを右手で持ってくゆらせ、杉浦さんがふぅと息を吹きかけて一口飲む。

「だけど申しわけない。俺はなおを友だちだと思っていないよ」

「……すぎう、」

「友だちにキスしたいとは想わないでしょう」

 思考が弾けて真っ白になった瞬間、自分の視界にも目の前のガラス壁越しにひろがる美瑛の壮大で純白な雪景色があった――。















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