「――ち、違うからっ」

 素直が真っ先に叫んではっと周囲を見まわし、俺の手をとって扉横に誘導してきた。

 そして向かいあって俺を見あげ、小声で続ける。

「……すみません、大声だして。でも、杉浦さんがすごい顔してたから、つい……」

「むごい顔をしてるのは素直のほうだよ。こんなDVまでされているの? 身体にも痣があるんじゃ、」

 首にはマフラーを巻いて、コートの下もしっかりふくれるほど着込んでいるが、左手で素直の肩を押さえて頭からつま先まで食い入るように観察した。

 足を引きずっていたり、腕が無気力だったりするのではないか。

「違います、ほんとそうじゃないからっ。あいつ暴力はふるわないんです、そんな勇気のある奴じゃないんで。だから、ほんと、平気だから」

 素直は慌てて両手をふり、首をすぼめて身を竦める。口もとまで赤いマフラーで覆った顔も紅潮していく。

「暴力に勇気もなにもないだろう」

「あ、ぅ……じゃあ、度胸? とか」

「言葉も充分暴力になるんだよ」

 息を詰めた素直が、瞳を震わせて停止する。

「……とりあえず次の駅で降りようか」

 左手で掴んでいる素直のコートの生地の下から細い肩の感触が伝わってくる。

 電車の揺れに乗じて支えるふりをして、駅に着くまで、放せずにいた。



「……卒論が大詰めで忙しかったのも本当なんですけど、自惚れたことを言うと、杉浦さんが勘違いして心配してくれるかもって……だとしたら嫌だなって、思っていたのもあるんです。俺が朝、電車に乗らなかったの」

 不思議な偶然に導かれて、ふたりで降りた駅が最初に食事をした街だったので、線路沿いの公園へ再びやってきた。

 おたがい今夜は外食ができないとわかったから、素直に温かい紅茶だけ買って渡した。
 俺は家で紗英が、素直は彼氏が、待っている、ということだった。

「心配したよ。素直だ、って確信した瞬間、顔の傷に怒りが沸騰した」

 両手のなかにある熱い抹茶ラテを傾けながら、右横にいる素直を見つめる。

 素直は照れくさそうに、ふふ、と笑って、白い息をこぼす。

「ありがとうございます……けどこれ顔の毛剃ってて切っちゃっただけなんで、ほんと……」

「素直も髭が生えるんだね」

「髭は薄いけど産毛の処理とかするんです。ちゃんとケアすると肌荒れ防止になるんですよ」

「ふうん……素直が珍しく平成生まれのおしゃれ男子っぽいこと言ってる」

「普段おじいちゃんですみませんねっ」

 いー、と白い歯を剥いて威嚇されても可愛いだけで迫力はなかった。鼻の頭が冷えて赤いのも愛らしくて、笑ってしまう。

「……だけど心配なのは変わらないよ。彼といて素直が幸せなのか、ずっと考えてた。また傷つけられていないか、辛さに押し潰されていないか、……考えてたよ」

 あの日電車内で、素直は俺に彼氏の存在を隠そうとしていた。俺にも、彼氏の前では他人のふりをしてくれと、訴えていた。

 なにも、知られたくも教えたくもなかったんだろう。

 だからこうして引っぱりだしてきて話題にするのは御法度だとわかっている。わかっていて、それでも素直に真正面からむきあいたいと想う。

 他人と自分の心を見つめる大切さと、そのための精力を蘇らせてくれたのが素直だったから。

「俺は素直が幸せじゃないと辛い」

 存在価値はない、人生をリセットしたかった、と笑った素直の寂しい表情が胸に燻っている。

 素直は眉間にしわを寄せて、泣きだしそうな顔で苦笑した。

 それから手に持っていたペットボトルの蓋をひねり、紅茶を一口飲んで視線を正面の木々に向けた。
 まだ枯れ落ちずにいる木の葉がさわさわ葉擦れの音を鳴らして、冬風に揺れている。

「杉浦さんは知らないだろうけど、俺たち結構、夜も駅で会ってたんですよ」

「夜も……?」

「今日みたいに電車がおなじになること頻繁にあったんです」

「……そうだったのか」

「上京してからずっと杉浦さんのこと見てたから知ってるんです、俺」

 伏せた瞳が寒さのせいか潤んでいて綺麗だった。

「でも夜に痴漢されたのはこのあいだが初めてだったよ」

「ふふっ」と素直がおかしそうに苦笑する。

「うん。だって杉浦さん、とうとう本気で死ぬつもりかもって怖くなったから。逝かないで、って気持ちで触ったんだよ。あの日はほんと危なかった」

 なんだ、と俺も小さく苦笑いした。

「……やっぱり素直は俺を撫でて助けてくれていたんだね」

 心にすとんと得心がいった。

 長いあいだきみは俺を見守っていてくれたのだ。
 気持ちを寄せて守って、救い続けてくれていた。

「素直自身もいろんなことに思い悩んでいたのに、名前も知らない他人を心配していたなんて。きみは本当に神さまや天使みたいな人だよ」

 俺が長年できなかったことをあたりまえのようにこなして、想いやりを心に抱きながら生きている。素直のような温かさを持つ人間に、俺は初めて出会った。

「……杉浦さんこそ神さまだよ。痴漢の犯人を天使とか言っちゃうんだもの」

 素直が照れて、恨めしげに睨んでくる。

「痴漢だと思ってないから」

「そこが変でしょって話」

「変じゃない」

「もうー……」

 ふたりで声を殺して笑いあった。

 外灯の光がまるく俺たちを照らしていて、夜風は冷たくて、息は白くただよい舞う。

 時折電車が背後を横切ると地面も草木も揺さぶる激しい騒音と振動に掻き乱されたが、またすぐにしんとしずかな冬の夜が降りてきた。

 永遠のようでも最後のようでもある、幸福で淡い刹那が揺らぐ夜だった。

「……俺ね、杉浦さん。じつは地元に帰ろうと思ってるんです」

 帰る。

「北海道に……?」

「うん。うちの実家、小さな民宿をやってるんですよ。だから就職が無理なら戻ってきて手伝えばいいって、親が言ってくれてて。なんか、負け犬っていうか……結局親に頼るのかって、恥ずかしいんですけど」

 情けなげに笑う素直に、「負けではないよ」とこたえたら叱るような口調になっていた。

「転機っていうのは必ず導かれる感覚があるものだよ。就職先が決まらなかったのも神さまが〝そっちじゃない〟って正してくれたからで、素直はこれからきみを待っている人のところへ行くだけだ。いまもきみと出会うために生きている人が、どこかで傷つきながら頑張ってる。俺がそうだったように」

 俺を見返してきた素直の左目から、なんの前触れもなくほろと涙が落ちていった。

「……なんだか俺、杉浦さんが言うと救世主みたいですね」

「そのとおりだよ」

「ただの痴漢だって言ってるのに……杉浦さん、俺のことすごい人にしすぎ」

「すごい人だから」

「やだよもう、ふふっ……」

 うつむいて笑いながら素直ははらはら涙をこぼした。透明な雫が外灯の光を受けてきらきら輝き、ぱたぱた落ちていく。

 この一粒一粒がすべて、今日まで素直が心に受けてきた傷なのだと思った。

「なお」

 ハンカチをだして目もとにあてがうと、「大丈夫です」と頭をふる。

 辛いのに大丈夫だとこたえてしまう人が、どれほど優しい人間なのかも知っている。

 すこし強引に素直の顔をハンカチで覆ったら、うぅ、と唸って、ようやく受けとってくれた。

「……優しい人、きらいだよ」

「優しいのは素直なんだよ」

「違うってば……だって、俺……、」

 言いかけた言葉が止まり、素直が洟をすすって泣く声だけが微風と重なって寂しい音楽みたいに響いていた。

「……彼氏との関係はどうするの」

 別れると言ってほしかった。

 安全な場所で、他人を幸せにしながら自分も幸福に生きていく、と笑ってほしかった。

「杉浦さん……もう正直に言います。バレてると思うけど、俺これ以上あなたのこと知ったら本気で好きになります」

 ハンカチで涙を拭って顔をあげた素直は、腫れて赤くなった瞼と両頬をほころばせて晴々と明るく笑っていた。

「……うん。俺も素直のことを好きになると思ってる」

 するともっと笑ってから瞼を細めて、演技っぽく軽蔑の眼差しをつくった。

「うそつき。杉浦さんはノンケでしょ。この状況に酔って勘違いしてるだけだよ」

 まだ右目の下瞼に残っている涙を拭いたくて、指輪をつけた左手が強張る。

「不倫のスリルに溺れたがる人たちがいるっていう話はたまに聞くね。障害を取っ払ってつきあい始めると、すぐ別れるか結局不倫をくり返す、とか」

「そう、そういうの」

「残念ながらそんなおままごとじみた意識じゃないよ。人生を救ってもらう経験は得がたくて、誰にでも起きる奇跡じゃない。……救われたし、救いたいと想う。こんな感情を抱ける相手を愛さないわけがないでしょう」

 他人のつくった正しさが絡みあい、暴力とおなじ鋭利さで日々飛びかっているこの世界で、どん底まで傷ついて頽れて懸命に息をしている人は大勢いる。

 そのなかの何人が、救いの手に出会えるんだろう。

 地の底に埋もれて沈んで逝って、帰れなくなった人も少なくはないはずだ。

 俺にはきみがいた。
 きみの手に、光の下へ救いあげてもらえた。

 この奇跡を残り少ない生涯かけて掌で包んで、温め続けたい。

「じゃあ旅行しましょう」

 素直が唇を引いて、小さく首を傾げながら幸福そうに微笑んでいる。

「想像のなかで、もし恋人だったら熱海でどんなふうに過ごすか、話して」

 ……想像のなかで。

「電車がいいの。それとも車?」

「あ、そうだ、杉浦さんが彼氏だったら車で連れて行ってもらえるんだ」

「連れて行きますよ」

「うぅ大人彼氏たまらないよ……なら車かな? 電車も想い入れあるけど」

 いたずらっぽく笑う素直につられて、俺も苦笑した。

 想像する。

 朝から家をでて車に乗り、どこにあるかわからない素直の家まで迎えに行く。

 連絡先も知らないけれど、家の前からスマホで呼ぶと、素直は旅行用のいつもと違う新しい服を着て、家から飛びだしてくる。そしてきっと、照れて愛らしく笑ってくれる。

 ――おはようございます、賢也さん。

「ちょっと寒いけどいまはドライブするのもいいだろうなあ……杉浦さんの助手席、すごくどきどきする」

「助手席がどきどきするの」

「するよ。運転してる姿、絶対格好いいもん」

「そうか。だったら理想倍増しで想像してほしいな。実際はたいしたことないから」

「大丈夫。毎朝死にそうな顔して通勤してたのも、とっても格好よく見えたから」

「ありがたいことだね……」

 しみじみ言ったら、素直が楽しそうに笑った。

「熱海ってどんな遊びをするんですか?」

「遊び。うーん……遊びたいなら秘宝館があるけど、だいたい温泉と海鮮料理を味わってのんびりするのが定番かな」

「ひほうかんってなに?」

「スマホで検索してください」

「えー?」と素直がスマホをコートのポケットからとりだすから、「いまはよそう」と止めた。

 そのスマホに、先日俺があげたビリケンさんのキーホルダーがぶらさがっている。

「つけてくれてるんだね」

 視線で示すと、「あ、はい」と素直も気づいた。

「汚れたり傷ついたりするの嫌だけど、傍にいてほしくて。大事なお守りだから」

 嬉しそうに微笑んでくれる表情を見つめながら、自分の胸ポケットに入っているお土産の存在を思い出した。

「……これ、熱海のお土産なんだよ。ばかのひとつ覚えみたいで恥ずかしいけど」

 渡したのは神社で授かってきたお守りだった。黒地のお守り袋に赤と白の龍が向かいあって絡まりあった姿があしらわれている。

「え、嬉しいです。ありがとう……龍だ、すごく可愛い」

「伊豆山神社っていう神社があって、そこで選んできたんだよ。山の中の森の一部に鎮座していて、熱海の海を見おろせる立派な神社だった」

「えぇ、海か……いいな、俺も行ってみたい」

 ほんわりと瞳をにじませて、素直が潮の香りのする神社を想像しているのがわかる。

「素直の幸せを祈ってきたよ。でもここは源頼朝と北条政子が結ばれた場所で、縁結びの神社として有名らしくてね。参拝に来てるのは女の子とか恋人同士が多かった」

「そうなんだ。この龍の尾っぽが絡んでるのもそういう色っぽめな意味なのかな」

 両手でしっかり握りしめたお守りと、俺の顔を見あげて、素直が羞恥心を隠しながら言う。

「素直にはこの龍が色っぽく見えるの」

「……ちょっとだけ」

「なんで」

「だって……尾っぽだから」

「ふうん……」

「ごめんなさい、せっかくくれたのに変なこと。……怒りましたか」

「違うよ。素直はエッチだなと思っただけ」

 目をまんまるくさせて、素直が真っ赤になった。

「え、えっちとかっ……やめてください、恥ずかしいっ」

「素直が言いだしたんでしょう」

「縁結びって、言うから……」

「縁結びだからって色っぽいとは限らないと思う」

「やだ、もうっ……うぅ」

 巨木に囲まれた緑の多い神社で素直が真っ赤になって身悶える姿が見えた。
 意地悪を言ってからかう自分も笑いながら浮かれている。
 幸福いっぱいにふたりで寄り添っていて、そこには神聖な陽光と自由が満ちている。

 公園の葉擦れの響きと、神社の森林の風音が重なった。

「赤龍は火の力、白龍は水の力を掌っていて、この二龍が温泉を生みだす最強守護神なんだよ。縁結びとは関係ないの」

「えぇ、ないの?」

「ないけど、俺も結ばれあうっていう意味も含めたデザインなのかなってすこし思ったよ」

「なんだよ、杉浦さんも思ったんじゃんっ」

「尾っぽだから、とまでは言ってない」

「あぅ」

「どうして尾っぽが絡むと色っぽいんだか……」

 むきあう二龍は口先が触れあいそうなほど傍でおたがいを見つめている。この視線だけでも充分に心の結びつきと絆を感じられる。

「……じゃあエッチじゃない杉浦さんは、旅館に着いても、そういうことしないの」

 お守りの絵柄だけで初々しく恥ずかしがっていたのに、素直はなぜか俺から目をそらさずにしっかりと見あげて、瞳にわずかな緊張を浮かべ、訊ねてきた。

「まずは食事をするよ」

 こたえたら唇をむっとへの字にまげた。

「それは、わかってるけどっ」

「熱海のあたりは金目鯛とか桜海老、伊勢海老、鰺なんかの地魚が美味しいんだよ。生わさびも伊豆の名産で、すりおろしたわさびで刺身を食べるとたまらない」

「え、ぅ……刺身、」

「生わさびは辛さよりミントみたいな爽やかさと甘さが強いんだよ」

「え……き、気になる」

「素直は海鮮料理なら食べ慣れてるかな」

「そんな、すごくいいものは、食べる機会もなかったし……実家の民宿でもお料理はお客さまにおだしするものだから慣れてはいないです。それに北海道と熱海はやっぱり違うと思う」

「ならお腹いっぱい食べないとね」

 素直の視線が横に流れて、また料理をあれこれ想像しているのがわかった。
 口もとが心なしか、もぐ、と揺れて、焦がれているようすも見てとれる。

「素直は上京する以前もあまり旅行したことないの」

「ないです。家族旅行した記憶もほとんどなくて、憶えてるのは修学旅行ぐらい」

「そうか。なら最近、室内露天風呂が増えているのも知らないかな」

「し、つない……え、部屋についてるんですか? 露天風呂が?」

「そうだよ。部屋の外のバルコニーやテラスに設置されていて、好きなときに何度でも入れる」

 素直の眼差しが憧憬に暮れるように遠く、細くなった。

「……そこから見える景色ってどんなふうなんだろう」

「部屋にもよるだろうけど、このあいだ泊まった旅館は庭園があったから一階の部屋なら見られるだろうな」

「庭園か……ししおどしとかあるような?」

「うん。竹垣に囲われていて灯籠がいくつか灯っていて、金魚のいる池もあったね。楓の木もあったから紅葉の季節は綺麗だと思う」

「想像だけでうっとりする……」

「ふたりで風呂に入って眺めよう」

 素直の目と、目があった。

 しずかに見つめあっておたがいの想いを感じながら、頭にひろがる情景のなかでだけ肌を晒して温かな湯に浸かり、赤く色づく楓の葉の揺らぎを眺めた。

「……もう、本当に充分です」

 微笑む素直の瞳に再び涙が溢れてきて、目の表面を覆ってきらめきながら震えている。

「……ありがとう杉浦さん。……東京来て、不安で、怖くて、疲れちゃうときもあったけど、傍で杉浦さんが生きていてくれたから、頑張れました」

 素直の涙がほろりと落ちるたびに、自分の胸も激しい痛みに痺れるのを感じた。

「熱海旅行も、嬉しかった……一生の想い出にします。……絶対に忘れない」

「……俺も忘れないよ」

 ずっと微笑んでいた素直の表情が痛みと哀しみに染まってゆがみ、涙が桃色の唇の端を掠めて落ちた。

 撫でたいのに、触れたいのに、この手ではきみを幸せにできない。

「好きです賢也さん。……好きでした、毎日、好きでした。幸せになってください。賢也さんの幸せ、俺も祈り続けます」

 遠くで踏み切りの警報音が鳴っている。
 葉擦れの音も、風音も、掻き乱されて遠退いていく。

「ありがとうなお。なおも幸せになってね。でないと俺は心配で眠れないから」

 唇を噛みしめて何度もうなずく素直が、懸命に笑おうとしてくれている。

 遠くで笑おうとしてくれている。

「……好きだよなお。俺も心から愛してた」

 愛してた。

 たしかに、俺はきみを愛していた。


 愛してしまった。

















































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