素直と朝の電車内で会えなくなった。 別段、おかしなことではない。四年のころなど俺もほとんど大学へ行かなくなっていたし、行ったとしても朝一から毎日通うことはなかった。学部にもよるだろうが、学生証で知ったもので判断するなら自分の経験とさして変わらないと思う。 おかしかったのはいままでのほうだ。 初々しい就活スーツ姿じゃない日も、素直は朝はやくから毎日あの電車に乗っていた。 そして旅行の話をして以来、姿を消した。 俺たちはおたがいに、明らかに恋愛を意識し始めている――そう知ってしまったあの朝から。 熱海は東京よりすこしだけ暖かかった。 「わーっ、ママ、海~っ‼」 「ちょっともう、走らないのアヤカっ」 肩まで伸びた黒い髪を風になびかせて、小さな女の子が海へ駆けて行く。 クリーム色のニットワンピースにピンクのロングコートをあわせたおしゃれなうしろ姿。 白く輝く海の水面の前で、無邪気で屈託のない横顔も光に弾けている。 その背を追うように、母親も海へ向かった。彼女は動きやすさを重視したようなダウンジャケットとパンツの軽装だった。 社員旅行は家族同伴が許可されているので、奥さんと子どもを連れてくる男性社員も多い。 「悪いねえ、うちのが」 関口課長が熱海の海岸ではしゃぐふたりを見守りながら、きさくな笑顔で謝罪を入れた。 まわりで見ていた社員たちは「いえ、アヤカちゃんすごく可愛いです~っ」「奥さんも相変わらず美人ですよね」と賛辞をかけ、和やかな笑いが起きる。 子どもに恵まれなかった俺が唯一幼い子と接触する場が、社員旅行だった。 関口課長のご家族は毎年参加しているけれど、娘さんはあんなに大きかっただろうか。 今年から小学生だと、移動中のバス内で話していたのが聞こえたが、もっと幼かったときの記憶がない。 ああ……俺が目をそらしていたからか。 「じゃあここでいったん解散するんで、集合時間の四時にバスへ戻ってください~」 総務の社員が声をあげて、皆が散り散りに海岸や街へ歩きだしていく。 課長の娘さんのやわな肩を、おなじぐらいの歳の男の子が叩いてふたりとも向かいあった。あれは山田主任の息子さんだったか。 海が眩しいのか、幼いふたりのなにもかも小さくて稚い顔立ちや、手足や、無垢な笑顔が清純すぎるのか……なぜか見入ってしまう。 自分に子どもができていたら、どんな顔立ちの、どんな掌の、どんな脚の、どんな……。 「――杉浦さんっ」 いきなり右腕を強引に掴んでひっぱられ、まばたいて見返すと大岩がいた。 「ちょっと見すぎですって。……行きましょ、杉浦さん友だちいないからわたしがつきあってあげますよ」 「大岩、」 「他人の子ども見て黄昏れないでください、ったく」 そんな恥ずかしい姿を晒していたのか……、と反省していたたまれない気持ちになったら、「杉浦」と関口課長に呼び止められた。 「うちの娘、抱いてやってよ」 「え」 「高いたか~い、ってやつ。あれ好きなんだけど、おまえでっかいからしてほしいんだって。さっきもじもじおねだりされたんだわ」 返事ができず茫然としている間に、課長が「アヤカー」と娘さんを呼んだ。 「ほら、おじさん抱っこしてくれるってさー」 ふりむいて俺と目をあわせた娘さんが、すぐに隣のお母さんのほうを向いて、照れ笑いしながらくねくね身を捩った。コートの端を握って、本当にもじもじと足を擦りあわせている。 そのうちお母さんに手を繋がれて、引かれるようにしてやって来た。 こちらもお母さん……ではないが、思わず大岩を見返していた。目で縋っていた、と思う。 呆れたように瞼を細めた大岩は、顎をしゃくって〝してあげなさいよ〟と指示してくる。 子どもを抱く。 俺が……? 「気をつけろよ杉浦、意外と重いぞ?」 「んんンっ……」 自分の腰ほどしかない女の子が「おもくないっ」と父親の腿を叩いて赤くなっている。 そして俺に向かいあった。 「……ゆっくりするね」 両掌を、花のかたちをつくるようにひろげてそっと近づけ、狭い胴体に触れて腋の下に指を入れた。 「わああっ……」 小さな命も、小学生ともなるとたしかに重い存在感があった。 すこしずつ持ちあげて空に近づけていき、太陽に向けてかかげる。 「わはあっ、たかい~っ、すごい~っ……‼」 金色に発光する太陽が、いたいけな笑顔のうしろに見えた。 眩しい。 温かくて重たくて、ほんの数年しかこの淀んだ世界の空気を吸っていない、汚れを知らない生命が、自分の手のなかに在る。 時計の針とは逆のほうへ向かってまわり、彼女の脚が空へ届くほど大きくふると、天使のような少女も「わ、はははっ」と笑みを顔いっぱいにひろげながら両腕を伸ばした。 「アヤカ飛んでるーっ‼」 後光に、精白な笑顔が溶けていくようにぶれた。 潮の香りがする。 世界にひろがる青い空が見える。 これが子ども――俺が得られなかった命。 諦めた生命。 「すごいな杉浦、力あるわ」 「わはあっ、もっとーっ!」 「アヤカ、充分してもらったでしょっ。あとはパパで我慢しなさい」 やがて慎重に娘さんをおろすと、課長と奥さんと娘さんは海風のなかで和やかに笑いあった。 「じゃあすみません、わたしと杉浦さんはお昼行ってきますんで」 「おう、ありがとうな杉浦。大岩もー」 大岩に腕を引かれて課長たちと別れ、信号を渡って街のほうへ歩いた。 掌にまだ感触が残っている。幼い子どもの、体温と頼りなさ。……呼吸。光。 「杉浦さん大丈夫ですか」 舗道を埋める観光客とすれ違いながら、大岩が歩調をゆるめて訊ねてきた。 「……数年前だったら号泣してたかもしれない」 情けない本音がでた。まだすこし、混乱していた。 「杉浦さん、鬱だったんじゃないですか? 店入ったら泣いてもいいですよ、この先に美味しいハンバーグ屋さんがあるんで。ずっと行きたかったんですよ~わくわく」 素直の声が聞きたい。 どうしてだろうな。 素直のいくつもの表情と、もらった言葉ばかりが頭のなかに溢れている。 旅館に着いてしばらく休憩すると、大広間で宴会が始まった。 ここでは毎年新入社員がお酌をしてまわり、酔っ払った上司や先輩を相手するのが決まりになっている。 大岩はなぜか、こういういささか古くさい慣例には柔軟に従ううえ、誰より巧くこなす。 上の人間がかたまっているどこの輪を盛りあげればいいのか的確に見極めて、そこで男たちを立てて満足させ、しっかりと賑わせてくる。 「……大岩のいいところ、だんだんわかってきたかもしれないな」 「遅いですよ」 男子力も女子力も兼ね備えていて、巧みに使いこなす。 とんでもない問題児がきたものだ、と戦々恐々としていたが、どうやらうちの人事は人間を見る目があるらしい。 素直もうちの会社にくれば必ず採用されるだろうに。 自分のほうがこういう輪に入っていくのが下手だ、と自覚しつつ、同僚たちと酒をかわして料理を食べ、腹を満たした。 長い宴会が終わると酔っ払った上司たちの面倒を見たあと後輩たちをいたわって部屋へ戻り、それから大浴場へ移動した。 忙しなく夜が過ぎていき、温泉を楽しむ余裕もありはしない。社員旅行も結局は仕事だ。 素直とふたりで旅行をしたら、露天風呂の景色も湯も、もっと美しくて楽しいのだろうか。 「――杉浦、今日ありがとうな。お疲れさん」 風呂をでて廊下の隅にある椅子に座り、ガラス壁越しの庭園を眺めていたら関口課長がやってきた。 おなじく風呂あがりのようで、まだすこし湿った髪を掻きあげて右隣に腰かける。 「……いえ、課長もお疲れさまです」 部署は一緒でも、下について働いたことはないから特別親しいわけでもない上司だった。 ふたりきりで話すのも初めてだ。 「あのあと大岩につきあってやったのか?」 「ああ……はい。昼食を食べてちょっと観光して、土産の荷物持ちに使われました」 「はははっ、あいつちゃっかりしてるよなあ……まあ営業でやっていくならあれぐらい図太くないとな」 「そう思います」 ふたりでくすくす笑いあった。 「そういや、おまえ不妊だったんだろ」 心臓が戦慄いた。 「……それも大岩ですか」 「食堂であれだけでかい声で話してりゃなあ……」 彼女が言いふらしたというわけではなく、どうやら課長もあの場にいて聞いていたようだ。 「……お恥ずかしい限りです」 課長が脚を組んで、右手で前髪を払いながら「いやいや」と笑う。 「俺もだったんだよ。しかも手術が必要で、有休とって治療してた。そんでなんとか生まれてくれたのがアヤカだよ」 絶句して、明るく笑う課長の横顔を凝視してしまった。 「惨めっていうかなんていか……生理がある女と違って子ども生む準備なんてしてこないだろ、男は。それでいきなり〝おまえの身体のせいで子どもができないぞ〟って言われるんだから、えらいダメージ受けたよなあ。でも生まれてみたら嫁は子どもにつきっきりで、生活が子ども中心になってさ。いやまあ当然なんだけど、男ってのは種と金だけが必要な生きものなんだなあってまた惨めな気分になったよ」 酒も入っているからだろうが、課長はあけすけな物言いで披瀝して晴れやかに苦笑している。 「子どもはいてもいなくてもどうせ苦労するんだよ。だろ?」 それからばんばんと俺の右腿を叩いて、「ゆっくり休めよ」と笑ったままへらへらと去って行ってしまった。 あんなに出会いたかった男性不妊の同志が、嵐のように現れて突風のごとく消えて行った。 淡い灯籠の光が、池に泳いでいる金魚を照らしている。周囲の木々も揺れて風情を感じる。 ……家族というのはじつはとてもいびつで、家庭ごとにさまざまなかたちがあるものだと、庭園の色彩に目をにじませながら感慨に耽った。 昼間関口課長の娘さんを抱いた右掌を見おろして、反芻する。 妻にも夫にも、子どもにも、それぞれの幸福や孤独や寂しさがあるんだろう。 俺は紗英の心を察することができていただろうか。 いや……他人を想いやる心のゆとりなどなくて、蹲るばかりで、顔をあげて目の前の彼女に目を凝らす力は残っていなかった。 紗英は……――紗英も。 頑張って、と言い続けてくれた紗英も、俺の嘆きと親の期待に板挟みになって懊悩していたんじゃないか。 決して涼しい顔で、あっけらかんと〝頑張れ〟と言っていたわけではなかった。 ぼやけた記憶の先に、眉間にしわを寄せて、辛そうに笑って、 ――……頑張ろう賢也。……わたしも頑張るから。 声を喉から押しだして、苦しげにそう言っていた紗英が蘇ってくる。 優しい言葉をかけるべきだった。 温かい想いやりを寄せて、彼女のことも壮絶な地獄の日々から解放してあげるべきだった。 子どもを諦めたときももっとべつの言いかたで紗英のこれまでの努力を受けとめ、労って、感謝して返すべきだった。 そうだ。周囲の人間全員が化物だ、と……自分の痛みにしか目を向けられなくなっていた俺も、紗英を追い詰めて傷つけていたのだ。 他人を想いやる優しさなど欠落していた。それを紗英たちのせいにして自分の心がこれ以上傷つかないように身を守って逃げた。 紗英が不倫を始めても口をださずに、その現実ごと自分から遠ざけた。 自分たちの現状について、将来についてちゃんと話そう、これまで起きたすべてに対して、夫婦ふたりで向きあおう――……そう言うことができなかった。 子どもに、子どもがつくれるわけないじゃないか。 子どもが子どもを育てることもできやしない。 自分の罪や責任を自分で背負えない、精神的に未熟な俺のような人間には、あの小さな命を抱く資格がなかったんだ。 子どもが生まれていたとしても、やっと会えた、ではなく、やっと終わった、と思っていたかもしれない。そんな自分を想像するだけで心が凍る。 親になる資格などなかった。 子どもはここにいた。 ――俺だ。 「――紗英」 朝食の用意をしてくれる紗英は、俺がでかけるまで椅子に腰を落ち着けることはせず家事を続ける。 水道水の音を響かせてシンクの掃除をしているせいか、俺の声が聞こえていないようだった。 「紗英」 やっとふりむいた紗英は、「なに」とすこし煙たげな顔で俺を見返した。 「今夜すこし話をしよう」 ばたばたばた、と耳を劈く水音のなかで、紗英の瞳が小さく見開かれていく。 「……全部、ちゃんと話そう」 ひさびさに指輪をしていると、仕事中に若干の違和感を覚えた。書類やスーツのポケットに引っかかって存在を主張してくる。 「杉浦さん、今日なんか機嫌いいですね?」 大岩はなにげに他人の機微に敏感で鋭い。 「べつに浮かれてるわけじゃないよ」 「そうですか? でも目に色がありますよ。ちょっと前まで死んでたのに」 大岩が失礼なのは俺に対してだけだと、そろそろわかってきた。 「そっか、杉浦さんまた妊活でも始めるとか?」 目をとじて、鼻からため息を抜かす。 「……外でそういう質問するときは相手を選べよ」 「当然じゃないですか」 またため息が洩れた。 薬指の指輪と生気をとり戻した目。これだけで察しのいい人間はなにかしら感じとるらしい。 他人は、当人以上にその人の性格や感情を見渡せるわけか。 「無駄話はやめて、でかけるよ」 「はいー」 午後から大岩と取引先の店へ行って仕事をこなした。 新人の教育をしながら年末の繁忙期に向けて走りまわっていると、時間は一瞬で過ぎていく。 残業は会社も嫌がるが、そもそも大岩は女性なので夜遅くまでつきあわせるのも憚られる。 夜六時を過ぎるころには「最近夜道が暗いから気をつけて帰るんだよ」と大岩を先に送りだし、残りの仕事を片づけてから自分も店をでて帰路へ着いた。 クリスマスを控えてきらびやかに賑わう街を歩き、駅の改札口を通ってホームへ向かう。 電車に乗ると、それが何線のどんな時間帯だろうと素直を想い出した。 社員旅行から帰っても、素直とは会えない日が続いている。 もう冬休みだろうしな、とガラス窓の外を流れる景色に見入りながら考える。でも胸ポケットにずっと忍ばせたままでいる熱海のお土産だけは渡したい。 ――誘って、ませんから、……気にしないで。……すみません。 暗い街を橙色に照らす外灯が、ガラス窓の向こうで流れては消えていく。 電車や車で数時間の近距離にある観光地が、素直と行くとなると果てしなく遠い。 行こう、と誘うのも、やめておこう、と断念するのも、どちらも恋心を語る行為だった。 言葉を返すならどう言うのがもっとも正しかったのだろう。 あのとき本当に、世間の求める正しさや倫理や常識が必要だったのだろうか。 素直は俺にどんな言葉を求めていた。 彼氏に酷い暴言で罵られ、進路に悩んで自分の存在価値すら見失う日々を生きている素直は、俺にどんな言葉を欲していた……? ふいに電車が大きく揺れて停車し、慌てて手すりを強く握りしめた。 素直の大学がある駅だ、と外の駅名標を確認して、視線を周囲に巡らせてみる。 そんなに都合よく会えるはずもないと諦めていたが、しかし左隣の扉から、見知った細身の青年が入ってきた。 素直が愛用しているショルダーバッグと、よく着ていたコート。 間違いない、素直だ。 確信したら心臓が痛みに冷えた。 その横顔の左頬に、大きな絆創膏が貼ってある。 「――なお」 ほかに傷は、どこをどうやられたんだ――と、それだけが頭にあった。 大股で近づいて素直の左腕を掴み、引き寄せると、瞳を大きく見開いた素直が俺を見あげた。 「……す、ぎうら、さ」 騒がしいメロディと共に発車のアナウンスが響き渡り、扉がしまる。 折れそうに細い腕が掌のなかにある。 強張って、小さく震えている。 ←BACK//TOP//NEXT→ |