杉浦さんの左手が俺の背中を痛いほど強く抱いて、引き寄せてくる。

 緊張と恐怖と、身の潔白を貫く意志のようなものが、かたい横顔からうかがえる。

 俺も心臓が酷い怒りと焦燥で引きつって、もうこの人を誰も傷つけないでくれ――、と強く祈った。
 その刹那、女性の声がした。

「――……あの、痴漢してたの、たぶん、……この人です」



 次の駅で、被害者の女子高生と、犯行を見ていたスーツ姿の女性、そして犯人とおぼしきおやじを一緒に取り押さえてくれた数人の男たちが電車を降りた。

 駅員に事情を説明して犯人は連行され、俺たちも簡単な事情聴取だけで解放されたけれど、再び電車に乗ると、杉浦さんは「会社は遅刻だな……」と呟いた。

「出社は遅らせて、軽く外まわりしていくよ」

「外まわり……そういうの大丈夫な仕事なんですか?」

「営業だからちょっとだけ融通もきくね」

「あ、なるほど」

 いつもよりだいぶ遅い時間帯の電車内はかなり空いていて、杉浦さんとも適度な距離を保って向かいあうことができた。

 改めて見ても、スーツが似合う素敵な男性だ。

 見あげるほど上背があって、黒い髪も艶があってさらさらで、鼻筋も通っている。もっとも魅力的なのは、やや目尻の下がった目もとだと思う。

 甘やかな垂れ目が温厚そうな雰囲気をかもしだしている。事実、知れば知るほど穏和で優しくて、大らかで、……寂しい人だった。

「さっきの犯人、このあと勾留されて罪をきちんと償うまで解放されないかもしれないんだよ。……素直がそんなことにならなくてよかったよ」

 うなだれて、杉浦さんが、はあ、とため息をつく。

 驚いてしまった。
 俺が杉浦さんに痴漢していた話をしてる、のかな?

「あ、ありがとうございます、杉浦さん……でも、今回危なかったのは俺じゃなくて、杉浦さんですよ」

 やわらかい目が二度またたいて、眠りから覚めたみたいに俺を見返してくる。

「たしかにそうだ。焦ったな……あれは。痴漢で訴えられたら逃げられないものね」

「はい」

「でも明日から電車の時間帯と車両は変えるべきかもしれないな……」

 杉浦さんが瞼を細めて、ちょっと意地悪で、恐ろしく色っぽい表情をして苦笑する。

「……すみません」

「とりあえず、指輪をはずしておいてよかったとは思うよ」

 苦笑すると、下唇だけすこし厚みのある唇がふくらかな半円を描く。

「……痴漢君が、今度は彼氏君になったね」

 どうしてこの人を――こんなに温かくて寛容で寂しい人を、傷つけた人間がいるんだろう。



 杉浦さんは俺の大学がある駅までつきあってくれて、「俺はこの次で降りるよ」と見送ってくれた。

 いつも降りるのは俺の二駅前。なんの仕事をしているのかは知らないけど、都会のど真ん中だから、営業さんの仕事もいくらでもあるのだろうか。

 俺を送るために遠まわりしてくれた、……なんてことはないよね。

 他人を思って苦労も厭わず当然のように心を遣いそうな人だから、迷惑をかけたんじゃないかと考えると焦る。

 半年も痴漢なんてして甘え続けてきていまさらだけど、だからこそもう……いまは、負担をかけるのが嫌だ。

 昨日の夜、駅のホームで黄色いラインのぎりぎりの位置に立ってぼうっとしていた杉浦さんの横顔が脳裏を過る。

 あれが初めてじゃない。

 俺が上京してきた三年前から、あの人は生気のない抜け殻みたいな風貌で奈落の手前に立っていた。

 ……ふいに、コートのポケットのなかでスマホが震えた。とって見るとメッセージだった。

『素直、荷物届いた?
 ご近所さんとお客さんがくれた野菜とお菓子、いっぱい入れておいたからね。
 昭之君にも分けてあげて、ふたり共健康にね。
 就活、まだ大変そう?
 あまり悩まないで、どうしても無理なら帰っておいで。ね?』

 母さんだ。
 スマホの上部に表示されている時刻はすでに十時を過ぎている。

 卒論のために大学へ行くつもりでいたけれど、朝からいろいろ起きて気分が淀んでしまった。

 どこか店に入って作業しながら午後の予定を立てなおそう、と身を翻し、なじみのファミレスへ入って飲みものとサンドイッチのセットを注文すると、ノートパソコンをひらいた。

 ――きみはどうして俺を触ろうと思ったの。

 卒論の原稿に並ぶ黒い文字のむこうに、杉浦さんの表情と声が見える。

 ――ゲイで、恋愛に飢えていただけなの? それともなにか自棄を起こしたくなるような嫌なことがあった? ……って、俺が立ち入ることでもないかな。

 ――きみはさっき、俺がもっとも辛かったときに欲していた言葉を、全部言ってくれたんだよ。決して救われていい人間じゃないのに、きみは救ってくれた。それはきみにとって存在価値にならないかな。

 ――痴漢じゃなくて、撫でてもらってたんだと思うことにするよ。俺の身体の欠陥を。

 まだ全然、感情が整理できていない。

 一晩経っても杉浦さんが見せてくれた笑顔や痛みや哀愁や、言葉が、俺の心のなかに空いた傷穴を埋めて疼くばかりで、自分がなにをどう思っているのか、どうしたいのか、わからない。

 ただとにかく、杉浦さんと一緒にいられたあの時間が幸せだった。そんなあやふやな印象と感触だけが明晰で、胸の奥で温かく、きらきら光っている。

 通勤通学の電車はほとんどの人が毎日おなじ時間と車両を選ぶから、おのずと顔見知りになる、というのは、東京に来てすぐに理解した。

 そして何人かいるなじみの顔のなかで、俺がいちばん惹きつけられたのが杉浦さんだった。

 空を見あげるぐらい仰け反らないと顔が確認できない高身長で、スタイルもよくてスーツも似合っていて格好いい。それだけで目立つのに、空洞みたいな無力さがなにより印象的だった。

 目の前の現実を見ているようで、なにもうつっていない感じの目。
 いつも若干、下がり気味の肩。
 忙しない周囲の人たちに避けられながら進む、ゆっくりとした足どり。

 初めてあの人の身体に触ったとき、耳鳴りがするほど緊張して、怯えて震えていた。

 かたくてかたちのいい腰、なめらかな脇腹、その先の……彼が欠陥だと言ったところ。

 心臓が破れて吐きそうで、このまま死んでいいと思った。殺してください、と祈った。

 ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃに崩壊した生活や夢や将来が、やっとどこかへ行ってくれる。

 もう見なくてすむ。

 捨てられる。忘れられる。

 ノンケの大学生を演じて生きる日常の、底のほうでわだかまっている息苦しいだけの毎日が、やっと断ち切れる。誰にも言えずに溺れていたどす黒い沼から抜けられる――そう思っていた。

 けれど彼は身じろぎして俺の手から逃げることもせず、ただ受け容れて電車を降りていった。

 ふざけるな、気持ち悪い‼ 男が男に痴漢してなにが楽しいんだ‼ ――と怒声をあげて、嫌悪されて終わるんだと思っていたのに、あの人はそうしなかったばかりか温かな声をかけて俺を許してくれた。

 ――店で夕飯をごちそうしてよ。それで終わりでいいから。

 欲しい言葉をもらったのは俺のほうだ。

 俺は本当は、激しく怒鳴りつけて人生を壊してもらいたかったわけではなく、優しい言葉で擦り切れた心を掬いあげて撫でてほしかったんだ――と、気がついてしまった。

 俺には理解できない。……子どもってそんなに重要なものなのかな。

 子どもの命を得るために、旦那さんの心を殺すのはなんで罪にならないのかな。

 限界まで頑張ってくれた旦那さんを裏切って不倫するのはどうしてなの。

 杉浦さんは〝離婚を切りだせない自分の気持ちがわからない〟と言っていたけど、傍から見れば当然だろうと思う。

 だって男性不妊で散々迷惑をかけてしまった、と罪悪感を抱いていまだ縛られている彼から〝夫婦関係も断ち切りたいです〟なんて不義理を重ねるようなこと言えるはずないじゃないか。

 奥さんはまだ子どもを諦めていないのかな。
 不倫までしているのに?

 杉浦さんを生殺しにし続ける理由ってなに。
 憎しみ? 未練……?

 彼は情が残っていると言ったけど、そういう温かみのある思いじゃない気がしてしまう。

 ――……ありがとうね、味方になってくれて。

 奥さんには奥さんの言い分があるだろうし、俺は部外者だから口をだす権利もないとわかっている。
 ゲイの自分には一生理解できないことだからはなから黙っているべきだと自戒もする。

 ごめんなさい。

 ただ俺は――杉浦さんに許されて救われて、抜け殻に変わり果てた事情を知ってしまった俺は、彼に幸せになってほしい。

 乗り越えるのはまた心に傷を塗り重ねるぐらい辛くて心を痛めつけることかもしれないけど、どうにか抜けだして、自分の幸せのために生きる日々を始めてほしい。

 昭和生まれのおじいちゃんだなんて変な謙遜しなくていい、杉浦さんほど素敵な人なら女性も放っておかないから。

 生きて、笑っていてほしい。
 俺にはあなたが神さまです、杉浦さん。

 駅のホームは黄色い線の内側に立つものだって、教えてくれる誰かがあなたには必要だよ。



「――……あれ、昭之?」

 結局、午後に大学へ行って卒論を進め、夕方からコーヒーショップのバイトに入った。

 夜十時に仕事を終えて店をでたら、そばの電柱横に昭之が立っていた。

「……ああ」

 スマホを眺めたまま駅のほうへ歩きだして行く。

 ぶっきらぼうな態度は、一緒に帰るぞ、という意味だろう。

 昭之もコンビニのバイトを終えて来たんだろうな、と察しがついた。けど恋人を迎えにきたとかいう甘ったるい状況ではなくて、これは監視だ。

 昨日俺がいきなり外食して相手も教えなかったから、こいつは腹を立てている。

 反対方向へ逃げだしたくてもどうせ向かう家はおなじだから、諦めて一メートルほど距離をあけたままうしろをついて歩いた。

 昭之はずっとスマホをいじって、うつむきながら進んでいく。

 最近金色の短髪にした昭之の後頭部が苦手だった。

 俺はさらさらの黒髪をした男が好きで、しばらく散髪をせずに耳が隠れるぐらい伸びると、もっと色気を感じる。

 昭之は髪が伸びるのを嫌う質で、すこしでも伸びるとすぐ刈りあげの短髪にする。うなじを撫でるとぞりぞりして気持ち悪い。

「なあ、横歩けよ。変だろ」

 駅に着くと、改札を通る前に睨まれた。
 人目ばかり気にする外面のよさも卑しさを感じる。

「どうせスマホ見てるじゃんか」

 ちっ、と舌打ちしながら、昭之が乱暴にスマホをポケットに放りこんだ。
 昭之の斜めうしろを歩きながら、俺の妥協点はここだ、と思う。

 階段をあがってホームに行くと、ちょうど電車が来てすぐに乗りこんだ。
 すると昭之が向かっていった扉横の、シートのところに、杉浦さんが座っていた。

 目があって、杉浦さんが優しい柔和な目をすこし見開く。
 俺は咄嗟に、昭之の隣へ近づいて杉浦さんに背中をむけ、「空いててよかったね」とわざと声をかけた。

「……。ああ」

 昭之がこたえる。

 扉がしまって、電車が走り始めた。

 俺に連れがいるんだと、杉浦さんは気づいてくれただろうか。杉浦さんと知りあいだって、こいつにバレたくないことも察してくれたかな。

「そういえば今日、おまえのババアから荷物届いてたぞ。なんかくるんなら先に言っておけよ、寝てるの起こされっとダリぃだろ」

 あまり会話も聞かれたくないのに、苛立ちが声になる。

「人の親、ババアって言うのやめろよ」

「は? どうでもいいわ、こっちは荷物の話してんだよ」

「荷物くるのっていつも十時か十一時だろ。起きるのにちょうどいい時間じゃねえの」

「ふざけんな、こっちは徹夜で卒論やってたんだぞ」

 口を噤んで、それ以上の反論は押しとどめた。

「つーか、おまえのババアに大量に野菜送ってくるのやめさせろって。どうせ食べられなくて困るんだから。おまえもいつまで親に甘えてるガキなんだよ」

 昭之は暴力を振るわない。手をあげて殴りつけたり、足蹴にしたりはしなかった。

 だけど口で攻撃してくる。

 俺の親も、俺自身も、貶して見下してばかにして、王さま気取りでふんぞり返っている。

 たぶんこういうのがモラハラっていうんじゃないだろうか。杉浦さんもハラスメントだねと同情してくれていた。

「――で、内定とれたの? このあいだ面接行ってた会社は?」

 嘲るような昭之の声が続く。

「ぜってーちゃんと働けよ。俺に家賃全額払わせるつもりじゃないよな? 親が仕送り続けてくれんならいいけど、それじゃおまえマジでガキのまんまじゃん」

 心臓が痛い。うつむいて手すりを掴んで、唇を噛んで、聞かないで杉浦さん、と祈る。

「やっぱおまえが女みてえな顔でナヨナヨしてっから内定とれねえんじゃね? 仕事なんかまかせられねーって面接官も思うんだろ。ほんと男らしさゼロだもんな」

 昭之が変わったのは東京で派手な友だちをつくってからだ。

 明らかに人種の違う陽キャと酒を呑んで夜ごと遊んで、髪色も服装も口調もおかしくなった。

 夜七時を過ぎたって明るくて、朝まで街に人が溢れているような都会だ。

 お店もおしゃれなところばかりででっかいホームセンターなんかないし、あっても農機具や害獣駆除グッズが充実している地元とは全然違う。

 はしゃいでしまう気持ちもわかったから、『あまり羽目をはずさないようにね』と忠告しつつも、俺は昭之の変化を怖く感じるようになっていった。

 そのころ俺も新しい友だちをつくったり、杉浦さんを目で追いかけるようになったりしていたのが、溝の始まりだったんだと思う。

 ――昨日なんで帰らなかったんだよ。一緒にいたの誰? 俺が知ってる奴?

 俺が昭之を怖がって、心が離れかけていることに、たぶん昭之自身も気づいていた。

 だけど昭之も変化した自分や人間関係や環境から後戻りすることができなくなって、焦っていた。

 ――……昭之も帰らないことあるじゃん。

 焦る昭之の弱さも知っていたけれど、自由に生きている昭之に束縛される理不尽さが不快で、俺も言い返した。

 ――俺の話はしてねえだろ、おまえのこと訊いてんだよ。

 ――俺だけ報告義務があるのおかしいだろ。

 ――義務とかじゃねえよ、ただ訊いてるだけだっつの。

 ――昭之も誰とでかけたのか教えてくれるんなら言う。

 ――は? 面倒いんだけど。つか浮気してっから俺に言えねえんじゃねえの。

 ――いい加減にしてよ。

 くだらなくて、おたがいが幼稚でばかな言い争いだった。
 でも溝は、心と心のあいだに確実に刻まれて、深まっていった。

「なあ、聞いてんの?」

 昭之が俺の腕を掴んで揺さぶってくる。

「帰ったら聞く」

 地獄みたいな時間もあと数分で終わる。

 次の駅で降りれば、杉浦さんにこんな恥ずかしい会話を聞かれる恐れはない。



 狭いアパートに帰り着くと、ベッドに組み敷かれてジーンズを引きずり下ろされた。

「やだっ、……ちょっと、まだ風呂にも入ってないよ、やめろよ……っ」

「うるせえな黙れよ」

 愛撫もなしに、尻に冷たいローションを塗りたくられて、強引に押しこまれる。

「や、っぁ……」

 こっちは嫌だ嫌だと抵抗しているのに、昭之がしっかり勃起していることに呆れた。

 女みたいだ、とさっきもばかにしていたくせして昂奮してるじゃないか。

 ひっぺがされて床に転がっているコートとバッグを見おろしながら、背後で腰をすすめて、息を乱している昭之にうんざりした。

「なあ、今日届いたにんじんでも挿入れてみねえ……? たまには違う愉しみかたしたいだろ、おまえも」

「ふざけんな」

 俺の母さんをババアと呼ぶようになった昭之に、実家から届いた野菜は絶対に食べさせたくなかったからいつもひとりでたいらげている。だからなかなか減らない。

 視界の隅に、無造作に置かれた段ボール箱がある。あれが母さんのくれた荷物かな。

 それを尻に挿入るって?
 冗談じゃねえクソが。

 ――ちょっと、クサいかもだけど……たぶん、愛しあうだけのもの、かな。

 ばかじゃないか。
 こんな行為に愛なんかない。

 ……そうか。このセックスは〝暴力〟って言ってもいいのかもしれないな。

 昭之が必死で俺を繋ぎとめようとしてくれているの、わかってるよ。

 昔みたいに、好きだよ、俺を見ていてよ、ごめん、離れないで、って、いまのおまえ、俺に言えないんだよね。

 本当は都会人の真似して悪ぶっている自分が嫌で、歯止めがきかなくて怖いんでしょ。

 自業自得だよ。
 それを正してやる義理なんか俺にはないよ。

 正してやりたい想いやりももうない。

 おまえが格好いいと思って偉ぶって俺をばかにして、モラハラし続けてきたあいだ、愛情はちゃんと冷めていった。

 おまえが俺の愛情を殺していったんだよ。

「あぁっ、でるっ……生で、……いい?」

「嫌だよっ」

 拒絶も虚しく、叫んだ直後に中に出されてしまった。

 ひとりで達して、ひとりで満足した昭之が俺の背中にしなだれてきて、はあ、はあ、と息を整えている。

「……ナオ……」

 疲れ果てた最後の呟きだけ、好きだよ、という甘い響きをしていたけど、耳の外側へ流れていって心には落ちてこなかった。





『慎重に選考を重ねた結果、まことに残念ながら――』

 何度見たか知れないお決まり構文の不採用通知が届いた朝、生きる気力は完全に失っていたけれど、いつもの時間に家をでて駅へ向かい、電車に乗った。

 一駅進むと、杉浦さんがやってくる。

 時間と車両を変えないと、と話していたから、会えないだろうかと不安に思っていたけど、扉がひらくとそこに杉浦さんがいて、唇でほんのすこし微笑んでから傍に来てくれた。

「……おはよう素直」

 向かいあうために身を捩って、周囲の人に押し潰されながら彼を見あげた。

「……おはようございます、杉浦さん」

 杉浦さんのネクタイが目の前にある。腹と脚もぶつかって、絡まっている。

 昨夜会ったときの気まずさが胸のなかに燻っていた。……なにか言われるだろうか。就活のこととか、家賃のこと……? だとしたら恥ずかしくて消えたい。

「……素直も、またこの電車を選んだんだね」

「ぇ」

 いきなり人混みの隙間から手が伸びてきて、腋の下をまわって背中を強引に抱き寄せられた。
 踵が浮いて、背の高い杉浦さんと顔がすぐそこまで近づいて、驚いて、息が止まった。

 杉浦さんの左手に抱きしめられている。

「すぎ、」

「俺の名前、憶えてる……?」

 左耳に小声で囁かれた。
 吐息がかかって顔が燃えて、意識が散りそうになった。

 声がでそうにないから、こくこくと二度うなずく。

「じゃあ呼んで」

 なに、これ。

 なんで。

 なんで……?

「け……賢也……さ、ん」

 かしこいなり、の賢也さん。

 免許証を見せてもらったとき、しっかり頭に記憶した。

「……うん。ここでは、なおは俺の恋人だからね」

 心臓と目の奥が、引き千切れるかと思うほど痛んだ。

 なお……――こんなまるい声で呼ばれたの初めてだ。

 杉浦さんの腕がさらに力を増して、俺の身体を抱きしめてくる。……慰めてくれているんだ、とわかった。昨日の昭之の言葉に憤ってくれている。

 この人も、俺のために怒ってくれている。

「賢也さんっ……」

 血液が枯れるまで心臓が縮んで裂けて、死ぬんじゃないかと思う。そしてどうしてなのか、大声をあげて彼の名前を呼んで泣きわめいてしまいたくなった。

 哀しかったんだな、俺。
 泣きたかったんだ。

 自分でも気づかない心の奥の、限界の寂寞は、もしかしたら俺より杉浦さんのほうがわかってくれているのかもしれない。

 でもこの人は俺の恋人じゃない。

 抱きしめ返すことができないかわりに、彼の胸に顔を押しつけて唇を噛み、溢れだしそうになる涙を必死に押さえこんだ。

 そのうち背中にあった杉浦さんの手が後頭部にのぼってきて、哀しみと傷をなだめるようにさわさわと撫でてくれた。

 電車が停車して、再び走りだす。

 我慢しきれなかった数粒の涙をこっそり拭って、洟をすすりながらまた顔をあげて笑いかけたら、杉浦さんは、おや、みたいに目をまるめた。

「……おでこに、俺のボタンの痕がついてる」

「え」

 ふふっ、と眉をゆがめてハンサムに苦笑されて、胸が震えた。

 このネクタイの奥の、ワイシャツの小さなボタンの痕か。

「……いいです。消えなくても」

 きっと別れるときがくる。

 たまたま電車で乗りあわせて奇妙な縁で知りあうことができたけど、この人と自分の人生がいつまでも繋がりあうことはないだろう。

 ちょうど進路に迷っている時期だから余計にそう感じる。この電車に乗らなくなればそれでおしまいだ。

 繋ぎとめようとも思えない。

 だって俺は、この人の傍にいたら絶対に好きになる。

 女性を愛するこの人を、必ず好きになってしまう。

 だから傍にいた証拠の痕ぐらい、残しておいて生きたかった。

「……変だよ。消したほうがいい」

 杉浦さんが俺の後頭部にあった手を正面に持ってきて、親指でボタンの痕をぐりぐり押した。

「いた、いいから、やめて」

「ふふふ」

 顔をそむけて指から逃げる。

 杉浦さんが初めて見せてくれる屈託のない幼げな笑顔をひろげて、俺を見てくれている。


 いまは。













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