動揺した彼が、慌てて体勢を整えた。

「……すみません」

 声も初めて聞く。
 やや高めの、澄んだ心地いい声だ。

「いや……、うん」

 こちらもすこし狼狽えて、惚けた相づちになる。

 親近感というか、なんというか……彼の人格を勝手に想像して妙な情を抱いていたせいで、本物の彼とどう対峙するべきか悩ましい。

「……俺です。……してたの」

 しかも正直に自白してきた。ここで。

「や、まあ……うん」

 先ほどの揺れのせいで、おたがいの身体は向かいあった状態でぴったり重なりあっている。

 痴漢していた子と、されていた自分――ではあるが、俺の右手はまだ彼の腰を支えて倒れないよう抱きしめるような格好をしている。いまは自分も、痴漢だと叫ばれたら否定できないんじゃないか。

「……次の駅、一緒におりてください」

 胸もとにある彼の唇が小声でそう誘ってきて、やがて電車が停車した。

 家がある目的の駅まではまだ三駅ほど遠い街で、なじみはあるがあまり詳しくはない。

 彼に腕を掴まれて引き寄せられ、ホームへ降り立った。人混みをよけながら誘導されるままホームの隅へ移動する。
 そしてまた向かいあった。

「警察、行きましょう」

 彼は俺を見あげて、真摯な眼差しでうながしてきた。身体に斜めにかけたショルダーバッグの持ち手部分を握りしめて、背筋を伸ばして凜と立って。

 やけに堂々としているけれど、声は微妙に引きつっていた。

「警察か……」

 そういえば最近では男も痴漢被害を訴えていいんだったな、と感心した。

 昔なら嗤われただろうし、うちの会社の年輩上司たちも、知れば大笑いして『三十七のおっさんを痴漢してくれる奴がいたのか、なに相手は男?』『気持ちよかったんじゃないのか?』と囃し立ててくるのは目に見えているが。

「きみはどうして俺を触ろうと思ったの」

 好奇心にも背中を押されて訊ねてみた。

 彼はまた目をまるめて、それから瞼を伏せて困ったように下唇を噛んだあと、いま一度俺を見あげてくる。

「……好み、だったからです」

 このみ。

「父親が恋しいの? 甘えたかったとか……?」

「ちっ、がいます。俺、ゲイなんです。……わかってください、そこは」

 頬とおなじぐらい耳まで赤くなっていく。焦りや緊張もありそうだった。

「申しわけない。ゲイの世界は勉強不足だけど……きみみたいな子でも痴漢なんて危険なことをしないと飢える世界なんだね」

「ぇ……どういう意味ですか」

「すごく可愛いから。顔も容姿も、全体的に」

 見開かれていた瞳が、さらに大きくひらいて口もぽかりとあいた。
 まばたきもせずに停止しているせいか、瞳の表面が徐々に潤んでいく。

「……犯人、俺って……知ってたんですよね」

「……うん」

「許してくれてたのって……それが理由だったんですか」

 可愛さが?

「そう、だね……まあ、気色悪いおじさんならさっさと警察に突きだしていた可能性はある、かな。でもどちらにしろ事情聴取で拘束されたり、勤務先やら家族構成やら、いろいろ訊かれたりするのが面倒だから、実際はやっぱり放置かもしれないな」

「面倒って、」

「やった、やってない、で揉めて会社を遅刻するのも嫌だね。上司に説明するのも億劫だ」

 彼がうつむいて目もとを拭い、「……すみません」と頭をさげてきた。

「やっぱりいろいろ悩ませて、困らせてましたよね」

 不思議な子だと思った。

 捕まる覚悟をして痴漢をしていたのにやたらと控えめで、謝罪をする常識的な感覚も持ちあわせている。少なくとも不良とかチンピラとか、そういう類いの子ではない気がした。

「ゲイで、恋愛に飢えていただけなの? それともなにか自棄を起こしたくなるような嫌なことがあった? ……って、俺が立ち入ることでもないかな」

 うつむいたままの彼の黒い髪が、夜風にさらさらと流れた。

「……お兄さん、優しすぎませんか。俺、痴漢ですよ」

「〝お兄さん〟って呼んでくれるのか、驚いた」

「真面目に話してるんです、俺」

「こっちもしごく真面目だよ」

 鞄のなかにしまっていた財布から免許証をだして彼に向けた。

「杉浦賢也です。三十七歳の昭和生まれ。きみからしたらおじいちゃんでしょう」

 会社の名刺を渡すのはまだ抵抗もあったが、免許証ならかまわない。本名や住所を晒せば信頼を示すにも充分だろう。

 案の定彼も驚いたようすで免許証と俺の顔を交互に眺め、しばらく沈黙した。

 それから意を決したようにバッグからカードケースをとりだし、一枚抜きとって彼も俺に向けてきた。

「……松井、素直です。二十一歳の、平成生まれ」

 それは大学の学生証だった。顔写真も本物で、年齢にも嘘はない。

「素直か……名前どおりの子だね」

「な、……なんで」

「痴漢だ、って正直に言って謝ってくれたでしょう」

 彼が眉をゆがめて、困惑気味に顔をしかめる。

「痴漢は、隠れて相手を傷つける……卑劣な犯罪じゃないですか」

 ふふ、と苦笑いしてしまった。
 それをきみ本人が言うから正直で素直なんじゃないか。

「もうすこし、どこか店に入って話そうか。素直君の時間が平気なら」

「えっ」と彼が声をあげて動転した。

「杉浦さんは時間、いいんですか。っていうか、警察……、」

「店で夕飯をごちそうしてよ。それで終わりでいいから」

「終わりって、」

 彼の肩を叩いて改札口へ歩きだした。

 特別栄えてはいないが寂れた街でもないので、スマホで検索すればそこそこ美味い店も見つけられるだろう。

 駅をでると、『今夜は急な用事が入ったので遅くなります』と紗英にもメッセージを送った。
 すぐに『了解です』と簡素な返事が届く。

 来週の急な関西出張も、突然の外食も、俺と紗英のあいだではなにひとつ問題にならない。



 ふたりで探して気に入った、小洒落た個室居酒屋の一室に落ちつくと、まるで旧知の間柄のような気安さで料理を選び、酒まで注文した。

 半年もの長いあいだ無言の交流をしてきた仲だ。しかも疚しい罪と欲望をぶつけ、受け容れ、おたがいにしか理解し得ないバランスで精神に安らぎと解放を与えあってきた。

 薄い壁を一枚取り払って傍に近づいてしまえば、親友以上の関係になって当然だったのかもしれない。

 しかし食事を始めて会話を交わしていると、やはり双方共に、初めて知る事情や経験ばかり背負っていたこともわかった。

「――……俺、一応彼氏がいるんです。地元の北海道で知りあってつきあい始めて、一緒に上京してきて、同居しながら大学に通ってる……そういう人」

「……。そうなんだ」

 彼氏、と彼の口から聞いた言葉に一瞬、心が躓いた。

「一緒に上京ってことは、相手は歳上のおじさんではないんだね」

 グレープフルーツサワーを呑んでいた素直が、ぷふっ、と吹いた。

「やめてください、鼻まで飛んだ」

 苦笑しながらおしぼりで鼻先を拭くしぐさが可愛らしい。

「なんか、その……杉浦さんだから内緒で言うんですけど……俺のいたところって北海道でも結構な田舎で、ゲイとか、同性愛とか、たぶん東京よりもっと、カミングアウトしづらい土地なんです。男女の恋愛だってバレたらご近所中に噂されて大変なんですよ。そういうところでゲイっていう秘密を共有できて、思春期のころ憧れるようなこと全部ふたりだけでこっそりやってきたから、純粋な恋愛とはすこし違う、特別な仲間意識みたいな、絆みたいなのが芽生えちゃったんですよね……きっと」

「恋愛感情ではないの?」

 彼の視線がちらと俺をうかがってから、やんわりたわんで魅力的な苦笑をひろげた。

「……一緒に暮らしているうちに、余計に遠退いちゃいました。熟年夫婦ってこんな感じなのかなとも思うけど、最初からおたがい違ったんだって、いまはわかってます。だってあっちも〝ガチムチマッチョが好みだった、おまえじゃない〟とか怒鳴るんですよ、酷いでしょ?」

 大きなホッケを綺麗に裂いて、彼が桃色の小さな唇の奥へ運ぶ。

「楽しかったのも、ときめいたのも本当なんだけど……恋に恋してる時期を過ぎると、だんだん相手の嫌な面も見えてきちゃって。もちろんおたがいさまなのも知ってるんです。でも許しあうってことができないまま溝ができて、喧嘩が増えてね。こう……うまく言えないんだけど、ああもう戻れないんだろうなあって、おたがいわかってるのに別れようって言わないんです。……寂しいから」

 俺もビールを呷って厚焼き玉子を口に入れた。

「好みってきみに言ってもらえたのは、すごく光栄なことだったんだね」

 素直の頬が赤く色づく。

「光栄じゃないですよ」

「光栄でしょ」

「ゲイなのに?」

「平成生まれのきみが多様性を無視してくるのも面白いな」

 フン、と鼻を鳴らして、素直が唇を尖らせる。

「本気で迫ったら逃げるくせに。俺、ノンケは信じませんよ」

「本気で迫って来てくれるの」

 素直が息を呑んだ。こちらはビールグラスを傾けながら目を見つめて、そらさずに追及する。

 心臓をどきどき鼓動させて、素直が狼狽してくれているのがわかる。
 自分の胸も恋の匂いのする甘い攻防に浸って、くすぐったく騒いでいるのを感じる。

「……杉浦さんって悪い人なんですね」

「痴漢君にそれを言われるのもどうなんだろう」

「もちろん痴漢は俺が悪いですけど、杉浦さんはゲイを拐かそうとしてるじゃないですか」

「拐かせてるのか」

「狡いよ、そういうこと言うの」

 いー、と歯を食いしばって、素直がおしぼりを握り潰すから笑ってしまった。

 この歳になって、またこんな初々しい高揚感を味わえるとは思いもしなかった。

 懐かしい。
 恋の駆け引きっていうのはこういう感覚だったな。

 彼氏、とさっき素直が言ったとき心に引っかかったのは、嫌悪感や違和感ではなく嫉妬心だったのだ。

 自分だけを想って、自分だけを触って満たされてくれている子だと思っていたのに、他人のものだった。その事実に、俺は裏切られたような寂寥を覚えてしまった。

 だけど俺も、彼のものというわけではない。

 ビールを一口呑んでから隣の席に立てかけていた鞄を手繰り寄せ、財布をだした。
 ひらいてなかから鈍く輝く輪をとりだし、素直の前に置く。

「すまない。俺は既婚者なんだよ」

 素直の目が、遠く、触れてはいけない光を見るような眼差しで、指輪と俺を捉えた。

「……寂しいからおたがい別れを切りださない、ってきみは言ったけど、それは結局のところとてもいい恋愛だったんだろうと俺は思う。熟年夫婦だと感じるほど、いい面も悪い面も晒しあって、どんなに冷たかろうとおたがいのあいだにしかない絆で結ばれあったのならね」

 着飾って外へでかけてロマンスに酔うのとは違い、生まれも育ちも違う環境で生きてきた者同士がひとつの狭い空間で裸で生活を重ねあえば、無論ズレや不満は次々溢れだしてくる。

 それでも素直は〝寂しいから別れない〟と言った。

「うちは俺のせいで子どもができなくて、心が離れて修復不可能になった。女性が子どもを望むなら年齢も大事だから、彼女のためにも別れてあげたいと想う。だけどどうしておたがいに切りださないのか、彼女の考えも自分の気持ちもよくわからないんだよ」

「まだ好きだから、っていう……単純な理由じゃないんですか」

 純粋な素直の眼光が眩しかった。

「彼女は数年前からべつの男と不倫してる。そういう感情はおたがいとっくに失って、情しか残っていないよ」

 職場の後輩なんだ、と最初に山内という名前を聞かされた。

 自分の下についたから仕事で一緒に行動することも増えるの、とやたら詳細に言い訳めいた口調で教わって、不信感も抱いた。しかし当時すでに〝浮気するなよ〟などと軽口を叩けるような関係でもなくなっていたから、短い相づちで受け流した。

 数ヶ月後、脱いだ靴下を洗濯かごにすぐ入れろ、といった言い争いを発端におたがいの鬱憤が限界に達し、紗英に『山内君なら可愛い子どもだってつくってくれるのに!』と怒鳴られた。

 不倫しているんだな、と確信したが、その後は紗英も開きなおったのか、むしろ見せつけるような態度で彼とのつきあいを続けている。

 今夜も俺が外食すると告げたあとすぐ、紗英も彼に声をかけてでかけていっただろう。

「……この指輪が重いんだよ。家と家を繋いだ婚姻届と、この指輪が……重たくてしかたない。子どもができなくて、向こうの家族に散々責められたのが辛くて、怖くてね。情けないけど、今度は離婚しますって……頭をさげてまた怒鳴られに行く勇気がないんだ。彼女を傷つけて、人生に汚点をつくった自分の責任だっていうのに」

 子どもをつくればすべて解決する。紗英も、両家の親や親戚たちも喜んで、昔ここにあった幸福がまた戻ってくる――そんな、とうに諦めた希望に指先を引っかけて、逃げ続けている。

 精神が疲弊しきって、紗英も自分もなぜ一歩踏みだせないのか、ださないのかわからない。

 思考する気力ももはや残っていない。

「……奥さんは、なにを愛していたんですか」

 問うてくる素直の表情が怒りに満ちていて、唇に笑みが浮かんでしまった。

 俺は目を伏せて頭をふる。

「……違うよ素直君。それは違う。全部俺のせいだよ」

 紗英はちゃんと俺を愛してくれていた。子どもだけが欲しかったわけではない。

 俺が悪い。
 紗英を変えたのも俺だ。

 だけど乏精子症と診断された自分の、欠陥品である心身を悔いて底の底まで責めて反省して、頑張ろう、と奮い立つのも、駄目だった、と落ちこむのも、それをくり返して何年も心を削って擦り切って生き続けていくのも、もう疲れてしまった。

 ……疲れた。

 疲れたんだ。

「そんなに、杉浦さんだけが背負わなくちゃいけないことなんですか。夫婦の問題なのに」

 素直が俺のために怒ってくれている。

「……ありがとうね、味方になってくれて」

 不妊に悩む男性と話してみたかった。
 苦しみやコンプレックスを分かちあえる相手がいれば、また前向きに努力することもできるんじゃないかと希望を持った。

 しかしネットで検索してみても病症や治療法の情報ばかり滝のように流れこんできて、その堅強で威圧感のある字面を見ているだけで溺れふためいて、個人が運営している体験談や日記があるのかどうか……たどり着く前に息が詰まり、スマホを投げる毎日だった。

 すべてが俺を責めていた。
 そう見えた。
 紗英も親たちも医者も、化物みたいに恐ろしかった。

「奥さんも、相手の家族も、杉浦さんがこんなに辛いこと知らなかったんですか? どうして子ども子どもってばっかりで杉浦さんのこと追い詰めたの? 離婚まで、杉浦さんの責任なの? 本当に? 奥さんだって杉浦さんを傷つけたのに? 変ですよそれ」

 酷い夫だとわかっている。
 なのにこうやって味方になってくれる人が欲しかった。

 ――賢也は悪くないよ、大丈夫。わたしも努力するからまた頑張ろう。

 頑張りたくない。
 もうやめたい。

 紗英を、親たちを、……止めてくれる誰かに会いたかった。

 そんな救世主のような存在に、自分の傍まで来て〝頑張ったね〟と抱きしめてほしかった。

「……ありがとう素直君。あのころきみがいてくれたら、あと数年頑張れたかもしれないな」

 甘やかされていい人間ではない。それに、充分逃げた。

 夫という立場からも、夫婦という絆からも、家族をつくる、紗英を幸せにする、という誓いからも、逃げて逃げて、壊して、壊れて、俺自身がこの現状をつくったのだ。

「頑張るって……怖いことですよ」

 素直が小さく呟いてから顔をあげた。

「……俺も、もっとはやく杉浦さんと会いたかったです」

 苦々しく微笑んで頬を引きつらせる表情も、稚く尊くて、とても眩しい。



「――俺、杉浦さんに人生を終わらせてほしかったんです。だから痴漢してました」

 線路沿いにある小さな公園のベンチの右隣で、素直がしずかに話している。

「痴漢は死刑にはならないよ」

 俺がこたえたら、ふふ、と口角をあげて笑った。

「そうだけど、いまの生活を一度全部リセットできるだろうって思ったんですよ。……変わりたかったんです。でもどうすればいいのかわからなくて、杉浦さんに縋ってました」

「だから〝警察に行こう〟って堂々としてたんだ」

「はい」

 食事を終えて店をでて、帰ろう、と駅へ向かって歩いていたはずなのに、どういうわけか、ふたりしてそばの公園へ入り、まだしゃべっている。

 離れがたかった。

 奇妙な縁が生んだ奇跡に似たこの夜を、たぶんおたがいに、終わらせてしまうのが嫌だった。

「素直も、彼氏との生活が辛いの」

「んー……それもあるし、就職活動で落ちこんでたのもあります。全然内定とれなくて〝おまえはいらない〟〝無価値だ〟〝生きてる意味がない〟〝死ね〟〝消えろ〟〝どっか行け〟って言われてるような気がしてきちゃって。……実際なにか才能があるわけでもないんです。学力も人並みで平凡で、おまけにゲイで」

 ふふ、と今度はいたずらっぽく苦笑して、肩を竦める。

 就職活動はたしかに大変だろうな、と自分の経験と、社内の事情をふり返りながら相づちを打った。

 かけてあげられる言葉はいくつか過るけれど、どれも時代意識のズレや説教くささを感じて躊躇ってしまう。それに結局、自分自身と向きあって将来に迷っている二十一歳のこの子に、他人の俺が寄り添えるわけないんだろう。

 ならばこちらも、素直に率直に、ありのままの想いを返すしかない。

「きみはさっき、俺がもっとも辛かったときに欲していた言葉を、全部言ってくれたんだよ。決して救われていい人間じゃないのに、きみは救ってくれた。それはきみにとって存在価値にならないかな」

 ふりむいた素直が瞳と唇を小さくひらいた。

「……俺、杉浦さんのこと、救えたんですか」

 目を見つめ返しながら深くうなずいた。

 素直の視線は、そろりと横へ逃げていく。

「……でも俺、子どもをつくるセックスは知らないから。すごく、無責任でしたよ。偉そうに、すみませんでした」

 子どもをつくるセックス、か。

「素直のセックスはどういうものなの」

 素直の瞳が揺れて、淡い夕日色の外灯の下でも赤く照れているのが見てとれた。

「ちょっと、クサいかもだけど……たぶん、愛しあうだけのもの、かな」

「……ああ、それは羨ましいね」

 たしかに、同性同士の性交渉は繁殖行為に繋がらない。

 それでも裸で、素の自分のままで抱きあいたい、愛であいたい、という衝動に駆られるのは、純粋な愛情表現でしかないわけか。

 子どもをつくるために、と必死に懸命に、一心に奥へ放出することのみに集中していた数年間のセックスを思うと、同性同士のセックスに神々しいほどの憧憬を覚えた。

「……セックスっていうのは、本来そういうものかもしれないよね」

 男女でも避妊して相手を求めたりする。

 子どもをつくるためではなく、欲しくてしかたがない欲求をぶつけあって、ただそれだけの愛情と激情で、どうしようもなく抱きあったりするんだよな。本当は。

「忘れてたな……」

 さらさらと夜風が流れていって、横の銀杏の木から黄色い葉が落ちてきた。
 ぞくりと背筋が冷えて気温が下がってきたのも感じるのに、俺も、素直も、ベンチを立とうとしない。

「――あ、すみません」

 ぴぴ、と素直のスマホが鳴りだして、彼がジャケットのポケットからとって確認した。

 目にゴミが入ったような痛そうな顔をするのを見て、「彼氏?」となぜか口を衝いてでた。

「……そうです。どこにいるんだ、って」

「心配してくれるんだ」

「違いますよ、単なる独占欲です。自分の所有物だとでも思ってるのか、相手が友だちでもなんでも、俺が誰かといると嫌がるんですよ」

「それは愛情があってもハラスメントだね」

「うんざりでしょ」

 はあ、とため息を吐き捨てて、素直がベンチから立った。

 さわわ、と音を鳴らして銀杏の葉が俺たちの足もとを転がっていく。
 黄色い葉は外灯の橙色に染まっていて美しくて、鼻先には冬の透明な香りが掠める。

「そういえば、来週の水木は出張するよ。再来週も社員旅行がある」

「え?」と素直が不思議そうにふりむいた。

「突然朝の電車からいなくなったら、俺が拒絶してるって、素直が勘違いするかと思って」

 眉をさげて、「ふふふ」と素直は切なげに笑った。

「いままでだって毎日会ってたわけじゃないでしょう?」

「いままでとは違うからだよ」

 素直の笑みがやわらかく止まった。
 この子の傍には色彩も、四季の香りも満ちているんだなと思った。

「……そうですね。わかりました。でもさすがにもう痴漢はしませんから」

「べつの男にするのか」

 俺もベンチから立ったら、「しませんって」と軽く腕を叩かれて、ふたりでくすくす声を殺しながら笑った。

「痴漢じゃなくて、撫でてもらってたんだと思うことにするよ。俺の身体の欠陥を」

 素直の掌と自分の身体が分かちあっていたものは、情欲ではなかった。

 人生をリセットしたくて縋りついてきてくれたきみと、人生を捨てていた俺――おたがいの傷を撫であっていただけで、発散できた欲望などなにもない。

 他人に話せば嗤い話なんだろう。
 でも他人の理解は必要ない。

 素直を救えたなら嬉しいし、俺も、たしかにこの子に救われた。

「そんなこと言われたら、もっとしてあげたくなっちゃうじゃないですか」

 おどけた素振りで、素直が右手をわきわき動かした。

「素直は巧いよね」

「……それ、杉浦さんが真顔で褒めることじゃないですよ」

 俺が歩きだすと、素直も隣に並んだ。

「巧いなって思ってたよ」

「嫌がるところだから、そこは」

「彼氏に教わったの」

「その質問、俺が嫌です」

 帰らないといけない。
 駅まではあと五分ほどだろうか。

 おたがいに帰るべき家がある。長い一日も必ず終わりがくる。

 向かう先は重苦しく暗くて、隣を歩く素直は別れが近づくほどに輝きを増していく。

 そんな思いを意識の隅に追いやって、また目の前の現実へ進んでいく。



 毎日会っていたわけじゃない、と素直は言ったが、たしかに痴漢される日に規則性のようなものはなかった。

 それは素直が大学生で、就活中でもあったからだと知ったが、今朝もいるんだろうか、となにげなく考えながら電車に乗ったら、いつも俺が立っている扉横に素直がいた。

 俺を見つけるとにこと無邪気に笑い、小さく手をふる。

 毎朝のことながら、俺もほかの乗客に押されるようにして奥まで詰めこまれ、面白いほどぴったりと素直のところまでたどり着いた。

「……なるほど、毎日こんなふうに傍に立ってたんだね」

 小声で言ったら、素直が楽しげな表情でうなずいた。

 背中を誰かの肩に圧迫されて上半身が傾き、咄嗟に扉に手をついて、素直を胸のなかに抱くような格好になる。

 電車が走りだすと、手すりもなにも掴んでいない素直が不安定に揺れるものだから、しかたなく背中を支えた。

 男性にしては華奢で、小柄で、頭のてっぺんの髪が唇をくすぐってくる。

「……満員電車だと素直は埋もれるね」

「百七十センチありますよ」

「十センチ嘘ついてるでしょ」

「な、んでですか」

「うちの奥さんとおなじぐらいだから」

 紗英は百六十センチで、抱きあうと頭や肩の位置がちょうどこんなふうだった。

「……杉浦さんは何センチなんですか」

「百八十三だよ」

「……。俺はそんな大きい人、知らない」

 拗ねたような素直のくぐもった声に心臓が反応してしまい、動揺したときだった。

「――……いや、やめてくださいっ、この人、痴漢です!」

 突然右手を掴まれて、隣にいた女子高生に怒鳴りつけられた。

 あ。

 これはマズい。

 周囲もざわついて、窮屈な人混みのなかで殺意に似た視線がぶつかってくる。
 女子高生も怯えながら興奮している。

 絶句した自分と、見あげてくる素直のまんまるい目と目があった。

 おたがい混乱して、息を詰めている。

 どうする。

 どうすれば。

「ち、……違います! この人痴漢じゃありません、俺の彼氏ですから‼ 女の人、触ったりしませんから‼」

 頭が真っ白になった。

 彼氏……。

 彼氏、か……。

 素直の頬がまた赤く染まって、唇を震わせているのだけが鮮明に見える。










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