『――これ一本で毎日のお洗濯がらっくらく~!』
『真っ白爽やか、透明感~っ』

 隣のリビングに設置しているテレビから男の元気な声が聞こえてくる。

 自分の座っている場所はテレビ画面が見づらいので手もとにある朝食のパンとスープに視線を落としていたが、最近人気の若い男性俳優が溌剌とした笑顔をふりまいている洗濯用洗剤のCMなのは知っていた。

「賢也、これもね」

「……ああ」

 紗英がダイニングテーブルの中央にサラダの器を置いてすぐさまキッチンへ戻り、忙しなくシンクの掃除を始める。

 バターだけが塗られた食パンは完璧なキツネ色をした絶妙な焼き加減なのに、綿を囓っているような味がする。オニオンスープも鉄をすすっているみたいだ。

 テレビはCMからニュースに切りかわり、昨日起きた電車内での口論の末の暴行殺人事件について報せ始めている。そこに、紗英が立てる水道水の音が被る。

 騒がしい。
 また今日も長い一日が始まってしまった。



「行ってくるよ」と声を投げると、ダイニングのほうから「行ってらっしゃーい」と紗英の返事が届いた。

 靴を履いて玄関扉を開き、外へでる。
 路地をまがって時間通りに到着しているバスに乗りこみ、空いている中央の席へ腰かけてガラス窓越しに外の景色を眺めながら、左手の薬指に絡まっている指輪をはずす。

 空が青く晴れ渡っていて美しい、と気がついた。
 今日は晴天か。

 ただ青いだけの空より、白い雲が適度に伸びあがっている晴れ空のほうが綺麗だと感じるのはなぜだろう。

 若いころはああいう空の下を駆けまわって、よく遊んだものだった。

 バイクや車好きな友だちの影響で、高校生のころからツーリングにも頻繁にでかけた。
 ちょうどいまごろの冬が始まったばかりの時季は、空気も透き通っていて紅葉が見頃だ。

 瀬谷に、津田に、石川……友人の笑顔と思い出の映像が頭のなかに蘇ってくる。

 水が沸騰していくように熱を帯びて、楽しかった過去の記憶が次から次へと溢れてくると、胸も小さく弾んでいささか高揚した。

 バスに揺られながら、はたと掌にある指輪の存在に我に返り、鞄から財布をだしてしまって息をつく。

 薬指が軽くなったかわりに、財布が重たくなったような錯覚をした。

 バスが停車してまた新しい会社員や学生を乗せ、駅へ向かって走りだす。
 長四角の狭い箱に詰めこまれて人間たちの社会へ、皆ゆらゆらと運ばれて行く。

 駅に着くと電車に乗りかえて、さらに大勢の人間たちと共に箱のなかでぎゅう詰めになった。
 東京住みじゃなければもっと楽に通勤できるんだろうか、と毎日うんざりする。

 電車の振動と人間同士の圧迫で身体が傾いても、下手に身じろぎせず無心で委ねる。それが満員電車をやりすごすコツだ。

 ため息を噛み殺し、視線を遠くにやって、ひたすら目的の駅名がアナウンスされるのを待つ。
 他人の体臭や生温い体温に不快感を覚えて小さく咳払いしたとき、左腰のあたりから細長い掌が脇腹をたどってきた。

 気のせいか、と思ったが、そうでもない。

 ひとしきり腰と脇腹を撫でまわしてから、骨張った繊細な手は股間のほうへのぼってくる。

 ……今朝もか、と納得した。

 半年ほど前から、俺はこの手に痴漢をされている。
 なにが楽しいのか、三十七のおやじの尻や股間を数分間まさぐって、こちらが下車するころするりと離れていく。

 掌の大きさや感触からして男だろうとすぐにわかったが、その後さりげなく探ってみたところ、相手は大学生ぐらいの若い男だと知った。それも結構な美青年で、二重の目が特徴的な、リスみたいな子。

 本当にこんな子が同性相手に痴漢を? と疑念を抱き、目線やしぐさで何度か確認したけれど、視線も指先も、必ず彼にたどり着く。

 なにが楽しいのか、それとも、なにも楽しくないのか――彼の真意はわからない。

 電車は走り続けている。

 陰った場所に不可解な非日常を隠して、人間たちがつくる堅実で常識的な社会へ向かって。



「――杉浦さんってお子さんいないから自由でいいですよね」

 今年入社した新人の大岩は、歯に衣着せぬ若者だ。

「まあそうだね」

「来週の急な出張も、奥さんべつに怒らないんでしょう?」

「まあ」

「お子さん、欲しくなかったんですか? 正直わたしは子ども以前に結婚もどうかなって感じなんですけど」

 昼食の弁当に添えられた鮭と白飯を頬張りながら、大岩が大きなため息をつく。

 営業部に元気で若い女性社員が必要だ、と上の人間たちが求め続けて、満を持してやってきたのが大岩だった。

 たしかに元気で若い。
 だがこの鉄砲玉みたいな無遠慮で攻撃的な人間が営業でやっていくとなると、なかなかに教育が難しい。

 若さとかゆとりとか、原因はそこでもないんだろう。
 これはもっと根深い、彼女の性格で、個性に違いない。

「子どもが欲しくなかったというか、……気づいたらいなかったというか」

 彼女の軽い口から社内に余計な噂がひろまることも懸念しつつ、曖昧な返事をした。

「なんですかそれ。奥さんのこと愛して、愛しすぎて、ふたりでいるのが幸せすぎて、子ども云々みたいな将来設計する暇もなかった~みたいなことですか?」

「大岩は発想力が豊かだね」

「えー、違います?」

 大声で話す大岩の発言は食堂中に響き渡るせいで、傍に座っているほかの社員から驚愕や哀れみの視線をちらちら感じる。

 厄介事には触れるなかれ。
 社会っていうのはこういうものだ。

 大岩のような人間は放っておかれる。そしてまたあちこちで暴れまくる。

 誰かが叱って指摘してやらない限り、自分が怪獣めいた言動をして周囲から浮いていることに気づきもしないのだろう。

 指導して食い止めてやらなければいけないのは教育係の俺か。……嫌だな。

「大岩はどうして結婚願望がないの?」

「他人と生活するのが面倒だからです。人にあわせるのってわたし無理なんですよねえ……」

 ふっ、とつい吹いてしまった。

「なんで笑うんですかー? 杉浦さん酷い、〝らしいな〟って思ったんでしょー?」

「いやいや、……まあまあ」

「ごまかしかたもテキトー」

 嫌だな、とたくさんの人間たちに放置されてきて、いま、彼女は俺の正面で自由に火を吐き散らし、暴れている。そう思うと大量の私怨みたいなものまで彼女越しに見えてきて、背筋が冷える。

 正してやる義理もないわけだが、仕事で彼女がやらかせばこっちに跳ね返ってくるのが困るところだ。

「うちはね、俺のせいで子どもができなかったんだよ。男性不妊ってやつ」

「え……マジですか」

「結婚や子どももそうだけど、他人にプライベートな事柄を訊くときは慎重にね」

 唇の端から米粒をひとつ落として、大岩が「すみません」と謝罪し、頭をさげた。

 ストレートに指摘して説教くさかったかと後悔したが、とりあえず大岩の心に刺さったようで安心した。

 いくら傍若無人でも、女性である大岩にとって〝不妊〟という言葉や症状は、やはり深刻に響くのだろうか。



 偉そうに諌めたが、そもそも大岩に落ち度はない。
 落ち度は、うしろ暗いプライベートを抱えているこちら側にある。

 紗英とは友人同士の繋がりで知りあい、二年ほどのつきあいを経て結婚した。

 ちょうど十年前になる。俺は二十七で、紗英は二十三だった。

 ――〝行ってらっしゃい〟ってなんか軽薄じゃない? 〝行け行け〟って追いだしてるみたいでわたしずっと嫌いだったんだ。

 恋人同士だったころ、紗英は毎日幸せそうに笑っていた。

 ――わたし賢也と結婚して奥さんになっても〝行ってらっしゃい〟って言わないよ。〝金稼いで来い~〟〝辛くても働け~〟みたいな、そんな送りかたしたくないから。

 他人の心を常に注視していて、些細な傷にも敏感で聡明な一方で、明るく快活で、大胆な面もあった。

 紗英となら一生添い遂げることができる――……息をするより自然とそう信じられたのに、ただひとつ、子どもの存在が、俺たちの関係も結婚生活も壊していった。

 ――先生がすすめてくれたとおり、生活習慣から見なおそう。

 ――運動して、しっかり寝て、漢方飲んで……わたし、料理も工夫してみるから。

 ――ねえねえ賢也、外国ではクレソンが乏精子症に効くって言われてるらしいよ。

 ――次の検査楽しみだね。きっと症状もよくなってるよ、大丈夫。

 ――……ごめん、今日母さんに呼びだされて夕飯、外で食べてきちゃった。

 ――賢也さん、まだ身体よくならないの? 嫌よねえ……昔は子どもができなくて責められるのって女のほうだったのに、いまは旦那さんなのね。あ、責めてるわけじゃないのよ、賢也さんと紗英が幸せなのがいちばんだものね? でも子どもがいなくて賢也さんは幸せ?

 義母が言うとおり、なかなか子どもができずに女性側が虐げられる話は、ドラマなんかでもよくあった。

 女性が追い詰められていく辛さはこういうことか、こういう精神状態なのか……と、紗英が用意してくれるクレソンや漢方を口に押しこみながら日々、着々と心は死んでいった。

 子どもはそんなに必要だったのだろうか。

 俺たちの生活に、人生に、そんなにも重要な存在だったのだろうか。

 ふたりだけでも幸せだったじゃないか。

 毎日笑っていられたじゃないか。

 どうしてもべつの命が欲しいのなら犬や猫と暮らそう。

 そりゃ犬や猫は俺たちの老後の面倒を見てはくれないよ。

 だけど子どもも、自分たちの面倒を見てもらうためにつくるものでもないだろう。

 愛情を注いで育てたって、円満とも限らない。絶縁している可能性だってあるんだよ。

 ふたりだけで生きていこう。

 もういいじゃないか。

 子どもは、いらないよ――涙を押し殺して痛む喉で嘆いて情けなく訴えたのが最後だった。

 会話がないのに、生活音だけがやたらと大きい家。
 指輪をはずすと、視界に戻ってくる世界の色彩。

 縋るのは過去の楽しかった思い出ばかりで、友人すら、現在のくたびれた会社員姿なら会いたくないと逃げてしまう。

 満員電車に乗って仕事へ行く毎日にうんざりして、心のなかで文句を垂れるだけで、生活を変える勇気も気力もない。

 三十七か……、と胸のうちで呟きながら、朝と同様に改札口でカードを当てて駅のホームへ向かった。

 紗英が子どもを望むなら、年齢を考えても早々に離婚したほうがいいのだとわかっている。

 ――行ってらっしゃーい。

 紗英の冷めきった気持ちを見て見ぬふりして過ごすのも、そろそろ限界だろう。

 俺が切りだすか、きみが切りだすか。

 ホームの端に立って、黄色い点字ブロックの外側へつま先を並べて立った。
 もうここまで来ているのに、どうして俺は、……紗英は、一歩を踏みださずに怠惰な冷たい日々をくり返しているのか。

 ふいに、けたたましいメロディが鳴り始めて電車が入ってきた。

 ふわ、と一瞬強い風が吹き、身体ごと持っていかれそうになったが連れて行ってくれるわけでもなくいつものように扉が左右に大きくひらいてしまい、いつものように観念し、乗車した。

 時間帯が悪かったようで帰宅ラッシュに巻きこまれた。

 朝は朝で、夜は夜でこのざまだ。

 うしろに並んでいた人たちに圧されるようにして反対側の扉前まで詰めこまれ、再び人間たちにがっちり拘束されながら、走りだす電車に揺られる。

 帰宅時は他人の会話も多い。
 学生の騒がしい話し声と人間の体臭とぬるい体温に押し潰されつつ、げんなりして外の景色を眺めていると、やがてあの手が、腰から前へゆっくりまわってきた。

 ……あれ、今日は帰りも一緒になったのか、と不思議に思った。

 朝はともかく夜は初めてだ。
 別人かと疑ったが、見おろしてみると手は彼のもので、視線をこっそり横にずらして盗み見ても、……たしかにいる。

 する、と下から撫であげてきて、かたちをたどるようなしぐさでやんわりまさぐられた。

 男だから性器が変化してしまうと困るのだが、彼はその手前で巧みに止めつつ、悶えるほど激しくもない快感を器用に与えてくる。

 ……俺の気持ちを誰より理解してくれているのは、この子なんじゃないだろうか。

 痴漢なんて犯罪行為をされながらも、脳天気に感動していた。

 こんな枯れ果てたおやじの股間を触ってきみがなにかから解放されるなら、それもいいかもしれないな。

 紗英から幸せを奪うだけの毎日だった。
 それでもこの子を受け容れて、なんらかの救いを返せていたなら、人助けをしていることになるだろう。

 そうだな、これは人助けだ。

「……ぁ、」

 突然電車が激しく揺れて、俺の下半身を触りながら倒れてきた彼の身体を咄嗟に支えてしまった。

 息が止まるほどの、逃げられない至近距離で目があう。

「――……。……どうも」

 綺麗な幅で半円を描く美しい二重と、見開かれた大きな瞳に意識を吸いとられていた。

 整然と並ぶ睫毛がぱちぱちと上下する。
 見る間に真っ赤に染まっていく彼の両頬も鮮やかで綺麗だった。

 視界に、世界に、薄紅色の愛らしい色彩がひろがっていく――。







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