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2012年5月

2012年5月26日 (土)

思考のポイエーシス155

《私はあくまでも主張する――哲学的労働者や一般の学問的人間を哲学者と取り違えることを、いい加減にやめるべきだ、と。》とニーチェは『善悪の彼岸――未来の哲学の序曲』で書いている。どういうことかと言うと、哲学者とは《自らおそらくは批評家であり、懐疑家であり、独断家であり、歴史家であり、そのうえさらに詩人であり、収集家であり、旅行家であり、謎の解答者であり、道徳家であり、予言者であり、「自由な精神」であり、つまり、ほとんすべてのものであったことがなくてはならない――人間的な価値と価値感情の領域を遍歴して、多様な眼と良心をもって、高みからあらゆる遠方を、深みからあらゆる高みを、片隅からあらゆる広さを、眺めることが_¨できる¨_ようになるためには。しかし、これらすべては、彼の任務のほんの予備的条件にすぎない。この任務そのものはある別のことを欲する、――それは彼が_¨価値を創造する¨_ことを要求するのだ。》(「第6章 われら学者」211節)
 これは〈哲学者〉のひとつの定義である。すこしあとで、「真の哲学者は命令者であり、立法者である」(原文傍点)とも言っている。ここで哲学者はある意味で詩人でもあるが、それならばこの定義はもっともすぐれた詩人にもあてはまる。ここにおいてはじめて詩人が哲学者でもありうるという逆説が成立しうるのは、真の詩や哲学が「哲学的労働者や一般の学問的人間」とは一線を画することができるほどに創造的でありうるからである。
 ちなみに「哲学的労働者」とはどういう種族かと言えば、《何らかのある大きな価値評価の事実を――すなわち、すでに支配的となって、しばらくのあいだ「真理」と呼ばれる、従前の価値_¨定立¨_、価値創造の事実を――確定し、そして_¨論理的なもの¨_の領域においてであれ、_¨政治的なもの¨(道徳的なもの)や_¨芸術的なもの¨_の領域においてであれ、これを定式におしこまなくてはならない。これらの研究者たちにとっての義務は、これまでに生起した事柄や評価された事柄をすべて概観し、熟考し、把握し、取りあつかうことができるようにすることであり、すべての長いものを、いや時間そのものさえも短縮して、過去の全体を_¨圧倒する¨_ことなのだ。これは一つの巨大な、すばらしい任務であって、この任務につくと、どんな微妙な誇りも、どんな強靱な意志も確かに満足することができる。》(同前)
 こういうわけであるから、哲学的労働者や一般の学者はすべての哲学的言説に精通していなければならない。にもかかわらず、かれはこれらの知をさまざまに変奏し、結合し、並べ替えることはできても、価値を創造することだけはできない。かれは与えられたものを整理し、定式化することはできても、命令し、法を生み出すことはできないのである。さらに言えば、ここまではまだしも質の高い学者について言えることであって、どこの世界にもこのレベルにも達しない二流以下の学者や評論屋がいて、かれらは知に通暁しているふりをしているだけで、借り物の知識をいい加減に並べてみせているだけの大道香具師なのだが、当人は自分が誰よりも優れていると勘違いしている。
 ベンヤミンが『ドイツ悲劇の根源』のなかで「哲学者は、学者と芸術家の中間に位する高い存在である」と認定した位置づけ(「思考のポイエーシス144」参照)とどこか通じるものがあるが、ニーチェのほうが学者存在への異和が強いだけにその描きだす像にもそれだけ嘲笑の度合いがきついと言えようか。(2012/5/26)

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2012年5月13日 (日)

思考のポイエーシス154

 ニーチェは『善悪の彼岸――未来の哲学の序曲』の冒頭でいきなりこんなことを書いている。《真理が女である、と仮定したら――、どうだろう? すべての哲学者は、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女たちをあまりよく理解していなかったのではないかという疑惑が、根拠あるものになるのではなかろうか? 彼らはこれまで真理に近づこうとするときはいつも、恐るべきまじめさと無器用な厚かましさをもってしたものだが、これこそはまさに、御婦人をものにするには下手くそで不適当な方法ではなかったか? 女たちが陥落しなかったのは、あたりまえの話だ。》(吉村博次訳)
 そしてその独断論者の例としてやり玉にあがっているのがプラトンだ。《これまでのあらゆる誤謬のうちもっとも悪質で、もっとも退屈で、もっとも危険なものが独断論者の誤謬であり、すなわちプラトンによる純粋精神と善それ自体の発明であった……》と。
 それにしてもニーチェという男は、自分だって不器用にルー・サロメに求婚して拒絶されたりしているくせに、哲学書の冒頭によくもこんな大胆な書き出しができるものだと言わざるをえないが、言ってることはあたっているだけにちょっとアイロニカルである。もっともニーチェからすれば、独断論者プラトンよりもそのプラトンを堕落させたソクラテスのほうが許せない存在のようだ。最初は詩人志望だったプラトンを詩人嫌いにさせたのもソクラテスの詭弁術の罠にかかったからだ、というように。プラトンは「詩人の創造的能力などは、予言者や夢占いの天分に類するものだ」とまで言いだすことになってしまったらしい。
 ニーチェの『悲劇の誕生』によれば、「美学上のソクラテス主義」というものがあり、つまりは「美しくあるためには、すべては、理知的でなければならぬ」という知識と認識への「意味深遠な妄想」にとらわれたソクラテスのような「理論的楽天家」の反誤謬的立場であるが、それこそ理知を超越した世界であった古代ギリシア悲劇を滅亡させた「殺人的原理」であったとさえ言う。プラトンもその被害者のひとりであった。結果としてプラトンは詩人の能力を害悪とみなし、ソクラテスを彷彿とさせる哲人政治を国家論の中軸に据えることになったり、純粋精神という独断に陥ったとされるのである。
 真理が女であるとすれば、このような理知一点張りでは女としての真理をとらえることはできない。だとすれば、女とは豊かな真理も誤謬もふくんだ尽きせぬ謎だと言うべきなのかもしれない。(2012/5/12)

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