【同人女の戯言】小説が上手いってどういうことだろう
うたプリで缶バッジ売ってたら麻薬の売人に間違えられたnoteで一躍フォロワーさんが増えました。ありがとうございます。あそこまで愉快なnoteはそうそう書けないので、期待はずれになってしまったら申し訳ないなあと思いつつ、今日もマイペースにダベります。
今日の問題提起は、小説が上手いって、どういうことだろう。っていう。
小説書いてたらたぶん誰しも考えたことがあると思う。「絵が上手い」はなんとなくわかるけど、「小説が上手い」がわからない。絵なんて描かないくせにね。小説ばっかり書いてるわりに、小説の上手い下手がよくわからない。小説には明確なデッサンの崩れもないし、一見して判るような色彩のセンスもない。個性だって出るものではあるんだけど、パッと見は個性がある小説もない小説も全く同じ、明朝体の羅列である。で、「上手」の定義がわからないから、自分が書く小説が上手いのか下手なのかも判然としない。
語彙? でも難解な熟語や慣用句を使えばいいってもんじゃない。児童文学には、平易な言葉を使った名作がいくらでもある。なんかこう、ないものか。小説にもわかりやすい「これができれば上手い!」みたいなものが。たとえば改行を多くしたらカッコいいとかさ。無理? 無理かあ……。
いやわかんないけど。私は絵を描かないので、絵を描く人の気持ちはわからない。絵を描く人もやっぱり「私って絵が上手いんだろうか…? わからんな…?」って思ってる可能性は大いにある。大いにあるが、しかし、鑑賞者として絵を見た時、我々は何の造詣がなくとも「この絵は上手いな!」ということがわかり、そして「この部分がすごくいい」と述べることができるのである。だが小説はどうだ。鑑賞者として見た時ですら、「え、えーと……」ってならないだろうか? 文章表現って好みもあるしさ……。 いわんや、自分の作品をや。
昨今のネット界隈では、小説の書き手は「感想を貰いたい」と思っている……というような言論をよく見るんだけど、そう言われてしまう理由の一端を担うのが、小説の「人に評価して貰わないと自分のレベルが判別しづらい」という特性にあると思う。
作者がリンゴを意図して「赤くて丸くて瑞々しい禁断の果実」と書いてみたところで、読み手に「リンゴの描写よかったです!」と言って貰わないことには、「リンゴ書けてた!? リンゴに見えた!? リンゴだって伝わった!?」と至極基本的なところで足踏みしてしまうのだ。
ぼんやり悩みながら同人小説を書いて十何年、他人の評価を頼りに、私は「そこそこ小説が上手な人」らしい、という自己評価にたどり着いた。どこへんからそう思うって… pixivのブクマ数とか…(あれほどアテにならんものもそうないと思うんだけどね。すんばらしい作品が埋もれてることもあるし)同人誌の頒布数とか…(ゆーてジャンルの人気に左右されるからうすぼんやりとしたもんだ)あと、ツイッターのフォロワーに言われた「アカウント見た時、これは名のある書き手の転生アカウントだとピンときた」みたいな評価とか…そういう…。うん…曖昧だな……。よくわからんけど、誰も見向きもしない存在ではないからにして、「まあそこそこ…くらい…?」だ。
なお、別に自分が小説が上手いと思っているわけではない。気分としてはすみっこ暮らしのド底辺なのだが、イベントで誕席座っといて、過剰に「ド底辺です」みたいにへり下り過ぎてしまうと、嫌味とかそっち方向に受け止められてしまうかもしれないし……、よし、やっぱ「そこそこ」みたいな顔しとこ……。みたいな感じのアレである。多分私と同じことを考えている小説書きはこの世界にいっぱいいる。
そんな私が同人ライフを送っていて、ふと気づいたことがある。
「上手い小説と下手な小説、プロットが全然違う」問題である。
プロットを書かない書き手もいるので一概には言えないとわかっているのだが、ともかくプロットを書く、という大前提がある場において、「小説が上手いと思える作家のプロットはプロット段階で面白い」……まあそりゃそうだ。しかし続く言葉はこうだ。「そうでもない作家のプロットはプロットなのに何も書かれていない」
違うのだ。上手い作家とそうでもない作家にプロットを書かせると、密度が全然違う。同じくらいの文量を想定した、同じくらいの文字数のプロットなのに、内容の濃さが全然違うのだ。マジでこれびっくりした。
なんでそう思ったかとうと、私は複数ジャンルに渡って他の作家と「プロット交換」という企画をやるのが好きだからだ。複数の作家がプロットを作り、他の作家に渡して完成させてもらうというお遊びで、イラストだったら線画交換とかラフ交換に当たると思われる。
で、だ。何度かやってみた経験則なのだが、
小説でプロット交換をすると、「上手い書き手が下手な書き手を食う」という現象が起きる。
上手い書き手のプロットは、基本プロット段階で面白い。見せ場もどんでん返しも裏設定もキーポイントとなる情緒の動きも全部メモしてある。それをなぞると、そんなに文章が上手くない人であってもいい感じの小説が書ける。仕上がるのもちろん上手い書き手の世界観が全面に押し出された作品だ。
それに対してあまり上手くない書き手のプロットには、なんか知らんけどなんも書かれていないという印象が否めない。もちろん、表面上のセリフとか山場とか心の動きとかは一通り書いてあるのだが、「物語の芯の部分」とでも言うべきものが不明瞭だったりする。物語というものの、表面をなぞっているだけ、という表現が適切かもしれない。こういうプロットが上手い人の手に渡ると「短くてスカスカの話になってしまう」。これが企画ものだったりして字数制限があったりすると、上手い書き手は頭を悩ませた末に「なんも書いてない部分に勝手に設定付け足しちゃおうっと」という発想になるらしく、結果的には上手い書き手の作風・世界観寄った作品が出来上がる。
いずれにせよ、完成するのは上手い書き手ワールドの作品なのである。
プロット交換をしていて、私は如実に「そうか、小説にも上手い下手ってあるんだ」と実感した。上手い人間の技術は下手な人間を引き上げもするし、不十分さを補完することもある。具体的な「上手い」のポイントはわからないのだが、もしかするとそれは、一つの物語に「重厚な一本の芯を通す」という技巧なのかもしれないし、「要素がみっちりした話を綺麗にまとめ上げる」能力なのかもしれない。もちろん、小説には他にもいろんな要素があって(描写の綺麗さとかね…)一概にそれだけだとは言えないと思うのだが、これもまた一つの指標だと思う。あくまでストーリー構成力とかの話かな、これは。
まあ、プロット交換は面白いので、よかったらやってみてほしい。ふとした瞬間に「あ、私って思ったより書けてるんだ」って思うかもしれないし、「なんだこの濃いプロット!すげー!おもしれー!」と思いながらステップアップできる瞬間がくるかもしれない。
あと蛇足っていうか、ただのオチのないボヤキなんだけど、小説作家にせよ漫画作家にせよ、「すげー」って思える人ってそもそもの着眼点が違うこと多いよね。ツイッターで「新人賞に投稿される作品には主人公が虐待されている設定が多いけど……」みたいなツイート見かけたけど、主人公が虐待されている設定って、解りやすく劇的にできる一方で扱いが難しいし、そのくせ陳腐化しやすいんだよね。上手い人ってそういうわかりやすい劇的さに軽率に手を出さない印象がある。そういう、主人公の設定とかバックグラウンドの書き方みたいなのもプロット交換すると剥き出しになる。プロット交換は本当に面白い。


コメント
1二次小説、上手い下手はともかく「読んでて目が滑る…」と思うものは、とにかく描写のみに執着していて話の展開がほぼないor遅効性の話ですね…
(これは私の好みも入ってきてるので、上手い下手とは別のベクトルかもしれません)
で、文字数は稼げるので本人的には新刊●ページになっちゃった♡と満足しがちに見える…
面白い小説はとにかくプロット、核の時点で面白い、これはめちゃくちゃ真理だと思います。
描写も効果的に働いていれば”効く”んですが、そうじゃなく、ただいたずらに描写を重ねている小説、数字が跳ねていない作品に多い気がします…