《現役時代、名を遂げた選手らの多くはその後、指導者への道をたどった。張本さんは…》
監督要請は4回ありました。最初は現役を辞めた昭和56年のオフ、ロッテです。重光武雄オーナーから(東京)代々木の自宅に呼ばれました。「監督をやってくれないか」という。当時の監督は山内(一弘)のおじさんがやっていた。私の性格で、山内さんを押し出して監督になりますか。それはない、できないですよ。義理と人情でずっと生きてきたんですからね。
「いや、ちょっと旅に出させてください。監督になるには未熟ですから」と丁重にお断りして、山本一義さん(広島商OBで当時近鉄コーチ)を紹介しました。2年やった。だめだったね(※57年5位、58年6位)。オーナーに再び呼ばれた。58年のオフです。
「まだまだ勉強が…」とお断りすると、重光オーナーは候補者のリポートを出せという。日拓時代に監督経験がある土橋正幸さんと稲尾和久さん(※西鉄黄金時代の投手、45~49年西鉄、太平洋監督)の2人を紹介した。土橋さんに二重丸を付けて出したけど、土橋さんはすでにヤクルトの投手コーチに決まっていた。で、稲尾さんになった(※59、60年2位、61年4位)。
3回目は平成元年のオフ、金田正一監督復帰のときです。金田さんは当時、球団役員でした。オーナーの息子(重光昭夫さん)が「張本にお願いしようと思っています」と役員会で発言すると、金田さんが「やめとけ。あいつはやらない。俺がやる」って言ったそうです。それで監督復帰した。後で聞いて「何で私にひと言ないんですか?」って。もちろんやらないけど、ひと言あって然(しか)るべきでしょ。金田さんはあのとき、契約金5000万円が入ってホクホク顔でしたよ。当時お金に困っていたようでしたから。で、すぐ辞めてしまったよ(※2年5位、3年6位)。
4回目は日本ハムから打診があった。大沢啓二さん(元南海選手、日本ハム監督)が球団常務をやっていた。将来は本拠地を東京の後楽園球場から北海道に移すという。遠いところに行くのはねぇ…ということで立ち消えになってしまったんです。
《母の反対…》
監督をやらなかったのは球界の七不思議って言われてますが、一番の理由は母(順分(スンブン)さん)の存在です。生前女房に言ったそうです。「絶対に監督をさせちゃだめよ。やったら死ぬよ」って。ものすごく反対していたそうです。私の性格を知っている。打てないと眠れぬ夜を過ごすほど突き詰める性分ですから。それに監督というのはそんなに魅力がないですよ、束縛されて。私は自由気ままがいい。ま、もろもろあって、人それぞれでいいんじゃないかな。これまでの決断に後悔はないですね。
《コーチとしての存在…》
臨時コーチは巨人、中日、西武などでやったけど、直接には森祇晶さんからありました。長嶋茂雄さんが巨人監督に復帰した5年です。その直前、森さんら数人で韓国を旅行した。飛行機の中で森さんから「今度巨人の監督をやるんで打撃コーチを頼むぞ」って。ほぼ決まりだということだったけど、いろんな事情で潰されたらしい。
王(貞治)からは非公式でね。2人がお世話になっていた財界のある人から「今度、ワンちゃんが監督やるから」とコーチの話があった。王も直接、私に言えなかったのかな。7年にダイエー監督に就任するときです。それ以前、長嶋さんにも断ったことがある。王を受けたら長嶋さんに義理がたたない。そうでしょ。
その年、ロッテで広岡(達朗)さんがゼネラルマネジャーをやっていた。ヘッド兼打撃コーチで誘われましてね。監督がボビー・バレンタインだと聞いてお断りしましたけど。最近、広岡さんとは会ってないけど、よく電話でやり取りしてますよ。92歳です。〝口が元気〟で、長くて切れない(笑)。(聞き手 清水満)