「イムジン河」50年目の真実

(番外編)きたやまおさむ「ギャップが呼んだ奇跡」

【「イムジン河」50年目の真実】(番外編) きたやまおさむ「ギャップが呼んだ奇跡」
【「イムジン河」50年目の真実】(番外編) きたやまおさむ「ギャップが呼んだ奇跡」
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ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の『イムジン河』が昭和43(1968)年、朝鮮総連の抗議を受け、発売中止になってから間もなく半世紀になる。メンバーだった、きたやまおさむ(69)は意外なことを口にした。

「当時、確かに悔しい思いはしたけれど、歌うことまで止められたわけじゃない。それに、発売中止になったからこそ、話題になり、この歌が残ったとも言えるでしょ。『定番』がないから、いろんなバージョンがつくられ、好きなように歌詞を書き、広がっていったのだと思う」

『イムジン河』を知ったとき、「作者不詳の朝鮮民謡」だと思い込んでいた。「フォークルは世界の民謡を歌っていたけど、朝鮮民謡は初めて。足りないピースがはまったようなインパクトがあった。南北分断を悲しむ名もなき民衆が人知れず歌をつくり、口伝によって伝わってきた-これぞフォークソングなんだって。曲が持っている力ではダントツ。持ち歌としてすぐ前面に出しました」

50年前、初めてステージで歌うとき、歌詞が1番しかなく(知らず)、それじゃ短すぎる、と2番、3番をつくったのは、フォークルの大ヒット曲『帰って来たヨッパライ』の作詞者でもあった仲間の松山猛(たけし)(69)である。

きたやまは「猛の素晴らしい歌詞も(原曲の存在を)知らなかったからこそ生まれた。見えないから飛べたんですよ。ギャップが呼んだ奇跡かな」

ステージで司会を務めることが多かったきたやまは、『イムジン河』を紹介するとき、南北分断の悲劇だけではなく、いたるところに「溝」はある、と伝えてきた。世界平和への願いや望郷の念を込めて、この歌を歌う人もいる。

「勝手に歌えばいいんですよ。私は、替え歌の精神が好きなんです。自由に思いを込められるから」

さまざまな人が書いた歌詞の中には日本語、朝鮮・韓国語はもちろん英語、フランス語版もある。演奏のみのバージョンや踊りにしたアーティスト。きたやま自身が書いた詞も。

それぞれの『イムジン河』を一堂に集めたコンサートを開いたことがあった。「もっともっと集めたい。どんどん変わってゆく『イムジン河』。きっと日本の『WE ARE THE WORLD』になりますよ」(喜多由浩)

=敬称略

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