「イムジン河」50年目の真実

(5完)ナゾに包まれた幻の3番

【「イムジン河」50年目の真実(5)】ナゾに包まれた幻の3番
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「リムジン江(ガン)」のタイトルで1957年に北朝鮮でつくられた原曲の作詞者は朴世永(パク・セヨン)(1902~89年)という。北朝鮮の国歌(愛国歌=47年)をつくった人物で、北の文学家同盟書記長や、朝鮮作家同盟中央委員会常務委員などの要職を歴任している。

朴は現在の韓国・京畿道出身。終戦後の46年に北へ渡っており、歌詞には「南の故郷を懐かしむ」フレーズが登場する。本来なら北朝鮮としては到底、容認しがたい内容。たちどころに粛清されてしまうところだが、「国歌の作詞者」という特別な立場のおかげで黙認されたらしい。

ところで、朴が書いた原曲の歌詞は2番までしかない。1番が南への郷愁、2番は北の優位性を示唆するプロパガンダ臭が強いものになっているが、「結論」にあたる部分がない。

2001年、韓国の歌手、キム・ヨンジャの訪朝公演をプロデュースした在日コリアンの音楽プロデューサー、李●雨(チョルウ)(77)はそのとき面会した原曲の作曲者、高宗煥(コ・ジョンファン)(1930~2002年)から「実は3番があったらしい」ことをほのめかされた。

ところが翌年、2度目のキム・ヨンジャ公演で李が訪朝する直前に高は亡くなってしまう。李は北の当局者に「高との話」を打ち明け、3番の歌詞を探してくれるよう依頼したが、返事は「見つからなかった」。

代わりに「これを日本で広めてほしい」と当局者から渡された別の3番はもっとプロパガンダ臭が強い内容で、李も使う気になれず、そのままお蔵入りになった経緯がある。「原曲の3番」の存在は今もナゾに包まれたままだ。

一方、1960年代に朝鮮学校の友人から1番の歌詞をもらい、日本語に翻訳した松山猛(たけし)(69)は今から50年前、「イムジン河(がわ)」としてザ・フォーク・クルセダーズが京都のステージで初めてかけるため、オリジナルの2、3番の歌詞を書いた。

ベトナム戦争や南北問題を思い浮かべながら、「いま世界で起きていることを同世代の若者に知ってほしい」と作った歌詞は文学的格調が高く、とりわけ、故郷を離れた在日コリアンには強い感銘を与えた。

やはり在日コリアンで世界的な指揮者、金洪才(キム・ホンジェ)(61)は1987年に京都市交響楽団と訪朝公演を行ったとき、自らが管弦楽曲に編曲した「リムジン江」を披露している。客席には幼いころに別れたきりの祖母がいた。約9万3千人が参加した帰国事業で北へ渡った祖母は日本にいたとき、よく聞いた懐かしいメロディーに触れ、涙が止まらなかったという。

以来、金は世界各国のコンサートのアンコールでこの曲を演奏(指揮)している。「もう何百回やったことか…今や私の分身みたいな特別な曲ですね」

つくった人、歌う人、聞く人…それぞれの胸に刻み込まれた「イムジン河」がある。(喜多由浩)

=敬称略

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