「イムジン河」50年目の真実

(1)発売中止騒動 残ったトラウマ

当時「事実でないことも書かれ、悔しい思いをした」と話す松山猛氏
当時「事実でないことも書かれ、悔しい思いをした」と話す松山猛氏

それは新聞の社会面を揺るがす大事件となった。

昭和43(1968)年2月、「帰って来たヨッパライ」で300万枚近いメガヒットをかっ飛ばしたザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)の第2弾シングルとして予定されていた『イムジン河(がわ)』が朝鮮総連のクレームを受け、発売中止となったのである。

「帰って来た-」の作詞者で、この歌も日本語の歌詞をつけフォークルのメンバーに教えた松山猛(たけし)(69)はテレビでニュースを知った。「『エッ何で?』と訳が分からなかった。説明にきた担当者は『堪(こら)えてくれ』というばかり。『韓国で(関連会社製品の)不買運動が起きてしまう』とか『戦争になる…』なんていい出す人までいた」

南北分断の悲劇をテーマにしたこの歌は1957年に北朝鮮で「リムジン江(臨津ガン)」(朴世永作詞、高宗煥作曲)として誕生した。だが、本国では評判を呼ばず、約3年後、総連系の歌集に掲載されて在日コリアンに広まってゆく。松山少年が在日の友人から教えられ、美しいメロディーと歌詞に魅せられた経緯は、映画「パッチギ!」(平成17年、井筒和幸監督)のモチーフとなった。

ただ、松山は出自を知らず、新しい民謡だと思い込んでいた。「フォークルが演奏するのに(教わった)1番の歌詞だけでは短いので2番、3番を作った。売るつもりなどなく、帰国事業で北へ渡った友達の望郷の思いや、世界で起きていることを知ってほしいという純情な気持ちだった」

当時、総連・文芸同音楽部長だった李●(吉を2つヨコに並べる)雨(チョ・ルウ)(77)=現音楽プロデューサー=は「(総連側が求めたのは)作詞・作曲者の名前と正式国名をクレジットする2点だけだった」というが、レコード会社側は早々に発売中止を発表。政治的トラブルを懸念した親会社(家電メーカー)の意向だったとされる。以後数十年、歌はタブー視され、表舞台から消えてしまう。

復権は2000年代まで待たねばならなかった。今や日、韓、朝の多くのアーティストが取り上げ、英、仏語訳まである。

松山はいう。「当時、『盗作』と書かれたこともあってすごく傷つき、トラウマになった。ホントは僕が紹介したのになぁって…。いろいろあったけど今までよくぞ歌い継がれてきたと思う。驚くべき『歌の力』ですよ」(喜多由浩)

=敬称略

フォークルが昭和41(1966)年に京都のステージで初披露して50年。平和を願う歌として世界中で愛唱される「イムジン河」の数奇な運命をたどる。

(2)「将軍サマ」は不満だった?

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