第25話 燭陰

 クイーンズカフェの季節限定のカフェメニューの、一杯八百円もするようなストロベリー・スウィーティー・クリーム・フラペチーノよりも、毎朝五キロ走った後の水道水の方がずっと美味いし、水自体も宝石のように輝いて見えると思う暁人の感性は、決してまちがいではないとおもう。

 筋トレ後の、一リットルのタンブラーに入れて冷やしておいた水道水の美味さは何物にも変え難い。それはきっと、体を鍛えている者ならば激しく首を縦に振って同意してくれる自信が暁人にはある。彼も、激しく筋肉を痛めつけた後、程よく冷えたタオルを首に巻いて飲む水が、最高にご馳走に感じるからだ。

 だからといって、別段、苦労を賛美するつもりはなかった。だが、苦労のない人生などないと思っていたし、その苦労は、どこかで小さな幸せの芽を育てていくための水遣りのような作業だと暁人は思っていた。


 それでも。


 妹を傷つけられるという苦痛は、どんなに理屈をこねくり回しても、到底看過できるものではなかった。


 激憤という感情の波が妖力を爆発的に増幅し、跳ね上げる。

 術式は脳——前頭葉で回し、脳全体のリソースをそこに割いて使用するが、妖力はヘソ、臍下丹田せいかたんでんで練り上げる。ヘソの三寸下、そこにある先天的・後天的に得る器官で練る。

 へそで茶を沸かす、はらわたが煮え繰り返る、腹を探り合う、腹に据えかねる、腹に決める、腹を割って話す——日本人は特に、腹で相手の感情を探る術に長けるのは、妖力の流れから感情を読み取る術師が多かったことに由来すると言われている。割腹による自決——切腹も、妖力を練れなくすることで妖怪も人間も、隔たりなく潔く真の死を迎えるという捉え方ができる。本当にさっさと自決するなら、短刀を喉に滑らせるのが確実なのにそうしないのだ。


 暁人はまさしく業服。波打つ妖力はさながら蛇のようにとぐろを巻き、質量化されているかのように青黒く龍気を纏う。

 羅剛は防風と帯電を両立した両腕で迫る蛇腹剣を弾いて、金属弾を逸らしていく。狙いを外れた金属弾が壁面を穿ち、ハイパーコンクリートに弾痕を穿っていく。威力は機関銃弾並み。普通の溟人なら、たとえば三等級程度ならばあっという間に蜂の巣の威力である。


 ——素晴らしい。短期間で、よくぞここまで成った。

 羅剛は己の首に喰らいつく若き龍を睨み、戦士として高揚していた。彼は溟人であるが、戦士としての自覚も持つ。どうせ死ぬなら、己よりも強い術師の手で死にたい。傲慢でもわがままでもない。それが、戦士という生物なのだ。


 その凄まじい妖力を、輝子は暗い意識の中で懐かしいと感じていた。

 四年前もこうだったと、後悔が湧く。


 よくわからないこわいひとに攫われ、山に連れ去られた。兄が父のロードバイクを盗んで追いかけてきて、その時はまだ龍の力なんて使えないのに戦っていた。

 弄ばれ、半殺しにされた時——見たこともない恐ろしい形相の父親が、「殺してやる」と低く唸り、暴れ狂った。

 当時八人いた男女——今ならそれが、兄が追っている溟人集団だとわかる——の半数を祓葬ぶっ殺し、兄妹を救い出した。血みどろの父は当時から親交があった白銀禮子に兄妹を預け、なおも戦い、龍になって死んだ。


 ああ——同じだ。

 兄の纏う妖気は。龍気は、あの時の父と同じ。憎しみに支配された、龍神に、ヤマタノオロチに魅入られるドス黒い味をしている。

 自分はまた何もできない。またこの世に、龍の骸が横たわる、確信めいた予感。


 父も、兄も、健一郎も決して輝子を恨んでいないだろう。それはわかる。理屈でも感情でもわかっている。だが、自分が生まれたことで肉体に大きな負担がかかった、平凡な人間の母の命を奪ったのはどうしようもない事実で、父の死の原因を作ったのだって、自分だった。

 あの家で自分だけが誰の役にも立たず、時間と資産を蚕食していく、タンスに巣食う服喰い虫のような。


 ——人の優しさに応えるってのは、無性の愛や無償の好意に甘えるってことじゃないんだぞ。

 ——私を自覚しろ。私を受け入れろ。お前もまた、龍神の器だ。

 ——私の名を言葉に乗せろ。束の間、力を貸してやる。体を借り受け、お前を縛るものを断ち切って見せる。

 ——悔しいのなら、戦え。欲しければ、戦って、勝ち取れ。お前は、龍の末裔だろうが。いつまでも、負け犬に甘んずるな。

 ——臥龍輝子。貴様はいつまで、私を蔑ろにするのだ。いいか、一度しか言わぬぞ。我が名は……。


 どうにかして自力で脱出し、兄の冷静さを取り戻させねば。

 輝子は己のうちに感じる、光り輝く龍の姿を。その姿から感じる明瞭な名を、無意識に呟く。


燭陰しょくいん


 その時、輝子から光が溢れた。


 暫時、暁人も羅剛も動きが止まった。

 パイプ椅子に固定されて鎖で縛られ、項垂れていた輝子の気配が激変したのだ。

 椅子と鎖が弾け飛び、真紅の龍殻が輝子の全身を包み込み、その身を束の間龍に変える。龍神降ろしの完成系——全身龍殻化。

 両目は白銀に煌めき、三重のリング状の瞳孔が刻まれる。背中には己の尾を喰らう龍の法陣が浮かび上がり、凄まじい圧力に、ガレージが悲鳴をあげて崩落する。


「ちっ、光の龍神だと!?」


 羅剛は舌打ち。暁人は圧巻に、息を呑んだ。

 美しい生物だ。龍という、完成された生物の、その剥き出しの生命力。跪かなければ。だが、状況がそれを許さない。

 暁人はなぜか輝子は大丈夫だと認識し、ガレージから飛び退いた。

 崩落する瓦礫に埋もれた輝子の輝きが途切れることはなく、次の瞬間、瓦礫が爆散。


 羅剛は飛んできた鉄筋剥き出しのコンクリを拳で砕き、暁人は蛇腹剣で粉砕。

 輝子は暴走状態——ではない。その目には確かに理性がある。


「聞け、人の子よ」


 思わず、跪く。羅剛ですら、膝をついていた。


「この娘の身を借り受けている。私なら貴様如き捻り潰すのは容易い。指一つで事足りる。溟人も、せいぜい一割の力も出せぬヤマタ如きならばな。

 だが、それは少年の望む結末ではないだろう。故に、退いてやる。一分やる。山を登り、廃道へ行け。目覚めたばかりで機嫌が悪くてな。愛おしい人の子とはいえ目の前で羽虫の如くのたうちまわられると神経が逆撫でされて構わん」


「必ず、意に沿うことをお約束いたします。どうか、お怒りをお鎮めください」


 羅剛が恭しく言った。


「行け。一分だぞ」


 暁人と羅剛は駆け出した。

 その間ばかりは敵同士というより、気まぐれを起こした神から逃れたい弱者の群れに過ぎなかった。

 不思議と悔しさなんて感じなかった。圧倒的すぎるのだ。ピカソやフェルメール、葛飾北斎を見て嫉妬する画家なんていない。太宰治と芥川龍之介と比べて落ち込む作家も珍しいだろう。いずれも凄すぎるからだ。いっそ己の芸術と比べておこがましさすら感じ、中にはそれで筆を折る芸術家すらいる。

 あの感覚だ。

 圧倒的すぎる。

 格が違う。勝つとか、負けるじゃない。気まぐれに踏み潰されるか、必死に逃げ惑うかの二択しか許されないのである。


 やがて廃道が見えた。今でも使われているのか甚だしい。そういえば、心霊スポットだとかなんとかと梶原がオカルト研究部の井上とはしゃいでいた気がする。

 暁人は一般人のいう霊魂が、霊視さえしてしまえば見抜ける程度の霊障だと知っているので、恐怖など感じない。

 オカルトというと神秘に聞こえるが、陰陽師や妖怪は「オカルトはそういう名前の体系化されたシステム」として認識している。わかりきったことに恐怖を抱くなど、夜中に便所に行く時に階段の軋みや家鳴りに驚くのと同じくらい滑稽だ。


「凄まじいな。あれが、臥龍の龍か」

「俺も震えてる。光と闇、空——上位三原則属性の龍なんて、何代振りだ……?」

「今はいい。続けるぞ。この情報は、持ち帰らねばならん」

「一つはっきりさせたい」


 暁人はさっきのことと、妹が無事なこともあり、冷静さを取り戻していた。

 だからこそ、明確にしておきたいことが一つだけあった。


「お前らはなんなんだ。四年前に、親父を殺した一派だろ。ここまで来て誤魔化すなよ。お前には見覚えがあるんだ」

「然り。俺たちは四年前、四人の仲間と引き換えに臥龍彰久を討ち取った。影法師かげぼうし。吹けば散る、だが、人間あるかぎりそこに居続ける、幽霊スプークだ」

「なんで……父さんを殺した。今回もだ! 俺たちになんの恨みがある!」

「俺たちが欲しいものを、お前らがたまたま持っていただけだ。それだけだよ」


 それだけ、だと。

 欲しいから、じゃあ、奪うのか? 取引でも交渉でもなく、ひたすらに乱暴な暴力で。殺してまで。他人の幸せを、ぶち壊してまで。

 そんな不条理が、理不尽が、暴力によって肯定される世界が、なぜ——。

 こんな、屁理屈というにも無様で、妖怪的な本能というにも愚劣で、醜く、おぞましい連中のエゴのために、俺の家は壊されたのか。


 心臓が、あおぐろく、脈打つ。

 暁人の魂が、にわかに、そこに何かが絡みついてしがみついた。

 人龍渾沌じんりゅうこんとん。一体というには無秩序で、不定形な妖気と龍気。


 羅剛が青龍の龍殻で剣を形成し、握る。そこには明らかに濃密な瘴気が纏わりつき、青龍が穢され、その心臓が悲鳴をあげていた。

 暁人は白龍段平を右手に形成。左手は青龍、〈龍殻雷槍りゅうかくらいそうの術〉を纏う。

 そのどちらの腕も、青黒い。毛細血管が破れ、龍血が滲んでいた。その血が、赤ではなく、青に変質している。龍はヘモグロビンではなく、ヘモシアニンで血を運搬する。酸素濃度の低い高空で飛び回る関係上、鉄より銅を媒介した方が酸素の運搬効率がいいという理屈らしいが、実際は龍気活性を促す際の効率の関係で、未知の元素が血を青くしていると言われている。

 現存する龍はもちろんいるが、彼らは人間を基本的にどうでもいい、取るに足らない生物と見做し、関与してこない。もしも血をよこせ、なんて横柄に言えば、ならば生贄を百万人用意せよと平然と言うだろう。


 だからこそ臥龍家はプライドが高い。龍の末裔であるが、彼らはどこかで自分たちを「人外の化け物」と認識し、世間から距離を置いている。屋敷が秘境と言える龍骸山脈の村にあるのもそれが理由だ。


 踏み込み。アスファルトが砕け散り、風を置き去りにする衝撃波が駆け抜け遅れて空洞が開いた空気が爆ぜる爆裂音が響き渡る。

 羅剛の瘴気龍殻が暁人の八岐段平やまただんびらを押し留め、擦過。奴も左手を〈龍殻雷槍りゅうかくらいそうの術・穢れ〉に形成しており、瘴気を纏う赤黒い雷撃が、暁人の左の雷槍と激突。青黒い雷と混ざり合い、凄まじい放電を起こす。

 夜の闇を吹っ飛ばし、轟音、雷鳴音を轟かせ、羅剛は膝を曲げて蹴りを繰り出した。

 暁人はトラックに追突されたような激痛を感じ、ノックバック。だが、痛みは感じても不快感はない。アドレナリンの恩恵、闘争か逃走か——本能は、闘争を選択。過剰な闘争本能という究極の興奮状態が脳内麻薬を吐き出し、痛みを誤魔化す。


 冷たい夜風が吹き抜ける。

 暁人の頭に声が響いた。

 父の声だ。父と母の声。母は暁人が二歳の時に死んだ。なのに、その声を鮮明に覚えている。


 ——もしも暁人が、陰陽師を目指したら。私は応援してあげたい。

 ——俺は……止めるかもしれない。こんな仕事、俺の代で辞めるべきなんだ。臥龍の嫡流としての責任から逃げた俺が、いうべきではないんだろうけど。

 ——うん。でもね、私。暁人は陰陽師になると思う。この子の目は、あなたにそっくりで、理不尽や不条理を許さない炎を宿してるから。

 ——暁人にはもっと、自由な世界を知ってほしい。臥龍のしがらみに、その鎖に繋がれる必要はないんだ。


 場面が変わる。

 四年前。

 龍に代わっていく父を見て、初めて父を怖いと思った。ああ、あれはもう元には戻らない。そう悟ったからかもしれない。

 思えば父はヤマタノオロチを恐れていた。己の心臓を、捨て去りたいと願う節すらあった。何度か人工心臓を移植するための説明会に足を運んでいたが、結局摘出されたヤマタノオロチの心臓の奪い合いを恐れ、やめていた。

 けれど、本来であれば制御できたその力を、なぜ父は暴走させたのか。それも影法師の仕業なのか。


 それは、遠い記憶。


 ——父上。わかりましたよ。私が如何にして龍神になったのか。

 ——……ある村にな、くだらぬ因習があるのだ。おれは、それで生まれた。妹は確かに血はつながるが、他人でもある。

 ——「お宿り」ですね。父上は、龍神の心臓を喰らい、肝を喰らい、その記憶と術式を簒奪した忌み子だった。

 ——さあ、殺せ。臥龍の血筋を、終わらせろ。


「はぁっ、はぁ……」

「この五分間抜けな顔で百面相していたがどうした? あまり興を削いでくれるな」

「臥龍の歴史を見てた。一つわかった。俺たちの一族は、決して霊山で自然発生した龍の子じゃない。罪が生んだ、穢れた、一族だ」

「お前たちの初代は近親相姦で子を成した。その話か?」

「それ以前の、問題だ。俺たちは龍の血を引いたんじゃない。龍の力を奪ったんだ。ちょうど、お前みたいに」


 暁人は龍爪一碧の構えを取る。羅剛が接近、暁人は段平を横薙ぎに振るい、屈んだ羅剛が瘴気剣を振るう。

 脇腹をスライスされ、瘴気の激痛がアドレナリンすら焼き、激痛にわずかに声が漏れる。

 ヤマタノオロチを両腕に降ろし、一等級と互角。決定打が、足りない。

 蹴り足が暁人の顔面を捉え、上足底が顎をぶち抜いた。暁人は熊出没の道路標識に頭から突っ込み、ステンレスの錆びた標識をへし折る。

 追撃の蹴りが胃に食い込み、剣が、右肩を切り裂いた。そして、そのまま暁人の腕を肩口から、切り落とす。


「ぐぁああああああああああっ!」

「どうした、陰陽師だろ。治せ」


 暁人を蹴飛ばし、重心のバランスが狂った暁人はふらつきながら立つ。青い血がこぼれ落ち、激痛に視界が白黒する。


「妖力治癒だ。俺を楽しませろ、ヤマタノオロチ」


 穢れの玉を形成し、暁人に飛ばした。咄嗟に左腕で妖力パリィする。


 妖力治癒は極めて高度な妖力運用である。操作難易度も精度も段違いであり、決して、一朝一夕でなるものではない。

 暁人は痛すぎて笑いそうになるのを堪え、膝をついた。


「臥龍家嫡流もこんなものか。つまらん。なぜ空亡様もこんなのに期待されるのか」


 羅剛が剣を振り上げた。

 妹が助かっただけでも良しとしよう。暁人は妙に諦めた心地でそう思って、


オン!」


 次の瞬間、爆撃が羅剛を吹っ飛ばした。


「勝手にくたばるな、暁人!」


 そこに焜が現れ、暁人は目を見開いた。


「なんで、お前……」

「話は後。あいつを祓うわよ」

「ああ……——来てくれたのがお前でよかった。お前だけには——」

「お互い様。あんただけには——」


 羅剛はニヤリと笑い、龍殻に赤黒い雷撃と暴風を纏わせた。

 暁人と焜は、二〇二六年最後の呪い合いを宣誓する。


「「背中を預けられる!!」」

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