「教われる」について一考

「教われる」の意味を聞かれたら、「教わることができる」と答えますか?

 

❶ 「教わる」は「教えを受ける」という意味で、ラ行五段活用をする動詞です。

  未然形 教わ ら (ない。) 教わ ろ (う。)

  連用形 教わ り (ます。)

  終止形 教わ る (。)

  連体形 教わ る (時)

  仮定形 教わ れ (ば、)

  命令形 教わ れ (。)

 

  「教わる」は「教えられる」という「受身」の意味になりますが、「教えを乞う」

  という「能動態」とみる考えもあるようです。

 

❷ 現代語の「可能」を表わす助動詞は「れる」と「られる」で、いずれも動詞の未然

  形に接続します。

  「れる」と「られる」の使い分けは、それぞれの接続する動詞の語尾が「ア」の段

  であるか否かによります。

   「知る」  「知ら」+「れる」 「ア」の段なら「れる」が接続します。

   「見る」  「見」+「られる」 「イ」や「エ」の段なら「られる」です。

   「攻める」 「攻め」+「られる」

 

❸ したがって「教わる」を可能の言い方にすると「教わら れる」になるはずです。

 

❹ しかし現代口語には、「ら抜き」という現象が多発します。

  「知る」   「知 れる」

  「見る」   「見 れる」   

  「攻める」  「攻め れる」  

 

❺ 「ら抜き」には、

  動詞の語尾の「ら」を省略する場合と、助動詞「られる」の代わりに「れる」を用

  いたように見える場合とがあるようです。 

 

❻ 「ら抜き」は、可能と受身の区別を明確にしたい意識から生まれたようです。

  「見 られる」「攻め られる」 受身

  「見 れる」「攻め れる」   可能

 

❼ 「教われる」は文法的には「教わら れる」が正しいはずですが、「ら抜き」の言

  い方になって、動詞の語尾の「ら」が省略されたのでしょう。

  しかし「教われる」というと、「襲われる」と紛らわしいので、助動詞を用いず

  「教わることができる」のように言うのが普通ではないでしょうか。

 

❽ あるいは、五段活用動詞が一段活用に変化し、「可能動詞」となった例だと言え

  るのかもしれません。

   例えば「切る」なら(切れ、切れ、切る、切るる、切るれ、切れよ)となって

   未然形「切れ」+「る」=可能動詞「切れる」

    同様に、

   「教われ」+「る」=可能動詞「教われる」

 

❾ 現代語の「教わる」にあたる古語は、手近の古語辞典には見当たりません。

  現代語の「教える」は古語では「教(をし)ふ」でした。

  「教ふ」が能動態で、それが何らかの変化を経て「教わる」という受動態ができた

  ということでしょうか。

 

  似た語に「襲(おそ)ふ」がありますが、「継ぐ」という意味で「教わる」と何ら

  かの関係があるのでしょうか。

 

❿ 一般的な古語辞典の項目に「教(をそ)わる」がないのはなぜでしょうか。

  ・明治20年(1887)頃に編纂された『言海』には「をそはる」はありません。 

  ・小学館の『精選版日本国語大辞典』には初出が以下のように示されています。

  1. ① 知識、技芸などが身につくようにしてもらう。習う。
    1. [初出の実例]「おそわった通りどの客にもままになるのか」(出典:洒落本・傾城買杓子規(1804)二)
  2. ② 他人から知らせてもらう。
    1. [初出の実例]「教(ヲソハ)りし門へ往」(出典:滑稽本・七偏人(1857‐63)二)

  ・1600年頃に長崎で編まれた『日葡辞書』には「Vosouare ヲソワレ 魘われ」は

  ありますが、「教われ」はありません。

 

  こうしてみると、少なくとも17世紀初頭までには日常使われていなかった(少なく

  とも西日本では)が、19世紀初頭には、江戸を中心とした遊郭関連の会話に使われ

  ていたことは確かなようです。近代に近くなって発生し、その初期には比較的通用

  範囲が限られていたものが、幕末から明治中期にかけて急速に普及した、というよ

  うな経過が推測されます。

  古語と現代語の狭間で生まれたために、一般的な古語辞典には採られていないのか

  もしれません。

 

  以上、あくまでも思い付きで調べただけで、国語学的根拠は薄いです。

八代目半澤久次郎の建立した「明治天皇御駐輦記念碑」

 山形市蔵王高湯「わらべの里」に移築されている。前は市内の料亭嘯月にあったが、料亭の改装時にここに移築されたという。嘯月も今はなく、其処はマンションになっている。この碑は元々は漆山の半沢久次郎邸内の明治天皇行在所前に建てられた物である。

「侯爵 大久保利武 謹書」とある。大久保利武は利通の子。この碑が建てられた昭和五年(1930)には65歳。

 裏面には「際御小休五十周年/昭和五年九月二十九日/八代目半澤久次郎建之」とある。明治天皇の東北御巡幸は明治十四年(1881)九月のことだった。

 

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 その2 - 晩鶯余録

近況報告 20240928

 エアコンをつけっぱなしにするような猛烈に暑い夏だったが、さすがに季節は廻り、一時はファンヒーターをつけたりする寒さになったりした(家人はあきれ顔)。

 雨と共に(この雨がまたひどい降り方だったが)涼しくなってきている。秋は短く、冬は厳しいような予報のようだ。まあ、これが日本の自然で、日本人はこの中で生きてきたし、心(気質?)も培われたのだ。

 

 市の集団健康診断に行った。近くの公民館でやるのだが、昨年は雨の中で、駐車場にある検診車への出入りが大変だった。今年は気持ちよい天気で良かった。

 健診着など無いので、ズボンを脱ぐとジャージを貸してくれた。ステテコなどが必要のようだ。これは助手?が女性だからか。

 体重が昨年から1キロ減で腹囲も1センチ減。身長は若かりし頃から2センチ低くなっている。歳と共にこういう変化が現れるのも自然で、老人力が付いたとまでは言わないが、肯定的に受けいれている。

 

 ボランティアを始めている。一つは昔取った杵柄で高校演劇部のお手伝い。去年と違うのは、コーチというよりアドバイザーという意識でいること。演劇経験の浅い顧問に代わって出過ぎたことをしないようにしている。生徒の自主性、主体性を尊重するという方針である。人によるのだろうが、自分は一人でやりたがる性質なので、人に任せるというのが苦手で、すぐ口出ししたくなる。これを抑えるのが仕事の一つである。

 もう一つは視覚障碍者への「音訳」であるが、読むのではなく校正の方である。二年に一度募集している。読み方の校正なので、漢字の読み方、アクセントなども注意しなければならない。まだ一年間の養成講習が始まったばかりで、これを経て実際の仕事をすることになる。この仕事、まあ女性の比率が高い。というか男性は自分だけである…。

 

 清野和男先生が亡くなられた。自分の4歳年長である。長く闘病生活にあったが、演劇への情熱は衰えなかった。自分が最初に高校演劇部活動に触れたのが先生の下であった。演劇というもの、その作り方を初めて実地に学んだのは先生の下にいた二年間であった。先生作の『七夕の夜』がその年の東北大会(山形市開催)で県代表となり、翌年の熊本大会に出場した。自分は第三顧問で、生徒の通院付き添い(ヒロインの声が出ないとか男の子の手の骨の痛みとか)や、部Tシャツ新調のためプリント先を探して熱暑の市内を歩き回ったりしていた。ので、肝心の上演はほとんど観ていない。大会期間中の生徒交流会で、生徒がサービス精神から寸劇的な出し物で笑わせ、受けていた。翌日、上演中にその子が登場すると、シリアスなシーンなのに客席から笑いが起きてしまった。そんな予想外のことがいろいろあった。四十年近い昔の事である。

 遺影の前に立ち、涙を禁じえなかった。改めてご冥福をお祈り申し上げます。

 

 そういえば今日は「青春舞台2024」の放映日だ。

山形東高等学校 新正門

 今年、令和6年9月10日(火)、県立山形東高等学校の正門、門柱が新しくなり、その除幕式が行われた。写真は完成した新正門。

 山形東高校ホームページより 学校行事 | 山形東高等学校 (yamagatahigashi-h.ed.jp)

 

 

 上は6月3日工事中の正門の様子。撤去された旧門柱は別途保存されるようだ。

 下は令和4年4月8日の正門。 

 

 

 昭和59年度山形東高等学校生徒会『生徒会雑誌』創立百周年記念号の記事を引用してみる。110頁下段。

 「〈正門の門柱 90年間の位置より移動〉 1月末、正門の門柱が若干動かされ、従来より少し広く、道路側に出た形になった。この門柱は明治26年、現在地に校舎が移って以来、その柱に掲げられた門表こそ山形中学校から山形東高へと変わったものの、90年以上同じ位置にあったのである。また、通信棟南側のくぼ地が埋め立てられ、駐車場となりつつあるが、ここは昔、現在の昇降口前までつづく堀になっていて水がたたえられていた所で、つい最近までその面影を残していたものである。どちらも、校舎の様変わりを決定的に実感させる出来事だった。」(この記事を書いたのは自分です)

 

 山形東高校の前身である県立山形中学校は明治17年10月29日の創立だが、当初は県師範学校内にあった。現在地に校舎が建てられ移転したのは明治26年9月のことである。当時の写真には正門の門柱が写っている。

 この校舎は明治30年に火災に遭い、同じ土台の上に再建された。

 さらに明治44年5月8日の市北大火で焼失、大正元年12月に新校舎が完成した。この写真にも全く同じ門柱が写っている。

 この大正の校舎はその後70余年に渡って幾多の健児を育んだが、長い間に甚だ老朽化し、昭和40年代でも、冬の朝は教室の窓際の机に雪が積もっているという状況だった。床の隙間から階下の教室が見えたという話もある。

 校舎をつなぐ渡り廊下はかなり簡素な作りで、累次の火災被害の経験から、延焼を防ぐため引き倒せるように柔な構造にしてあるのだという話だった(本当かどうかは未詳)。教室棟自体は、解体する時見たが、かなり細かい木組みでモルタル造り、頑丈に見えた。

 創立百周年記念事業として校舎改築、新講堂の建築が計画実行され、昭和59年に現在の校舎が完成をみた。この校舎もすでに40年を経ているとは、時の流れの速さに驚くばかりである。(だいぶ汚れてきている)

 この地に校舎を建てて以来、火災にも負けずに不動の位置を護っていた門柱は、やはり車の出入りには狭かったのか、少し移動されたのだった。

 そして山寺石で作られた門柱自体も、近年は傷みが目立つようになっていた。

 今回の門柱の意匠は旧門柱と同じであるようだが、その門幅は広くなっているように見える。別途保存されるという旧門柱は元の幅で置かれるのかどうかは知らない。

 

旧山形師範学校講堂の保存活用運動を知ってください

 山形市緑町にある旧山形師範学校講堂。

 男子と女子の両師範学校は、戦後、小白川町の山形大学教育学部に統合され、空いた男子師範学校の校舎に香澄町から新制山形北高校が移転してきました。

 その後校舎は改築されましたが、旧本館は国指定文化財になり、県教育資料館として整備され、一般公開されています。一方、北高が授業や部活動で使い続けた講堂は指定に漏れ、今は耐震の問題もあり、物置になっています。

 昔、私も山形北高校演劇部でよく校内公演で使いました。ずっと前の先輩の顧問がステージ上に照明機材を吊ってくれていました。

 今は荒廃の一途をたどりつつあり、保存活用への運動が起きています。皆様の関心の高まりが運動の後押しとなります。下の実行委員会ホームページをご覧いただきたいです。まだまだ始まったばかりですが、年内に閲覧数1,000が個人的目標です。

 

9shihankoudou.wixsite.com

 

 

 下の写真は、北高演劇部OGでオランダ在住の写真家奥山美由紀さんの撮影。

 2016年撮影。奥山さんの許可を得て掲載しています。禁無断転載。

   奥山さんについて参考まで⇒huffingtonpost.jp/entry/story_jp 

 

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 講堂の西側、ステージの裏にあたり、奉安庫の部分が出っ張っているのがわかる。

 

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 講堂裏、西南角。奉安庫の左右に外に出入りする階段がある。階段から入ると、ステージ両側奥の一段低く窪んだ部分に出る。この西側部分はある時期に大幅に延長増築されたもののようで、結果、かなり道路に迫っている。

 演劇部時代は、練習後夜遅くに、鍵のかかっていない窓から忘れ物を取りに侵入したこともあります。

認識と錯視

久しく記事を書いていませんが生存確認します。

暑くて、腰が痛くて、冷房を効かせて寝てばかりいる。

 

縦軸で回転する人間のシルエットが、右回転していると見えるか左回転していると見えるか、というクイズのような映像がある。シルエットは野球の投手だったり、バレリーナだったりする。最初は一方向に回っているとしか見えないが、何かの拍子に逆回転に見えるようになるので驚くというものだ。

動かない図像でも、「老婆と若い女」とか「鴨と兎」とか、同じ絵が違うものに見えるものがある。「錯視」である。

同じものを見ていながら全く逆の認識を持つという不思議さを感じるが、中にはどうしても一方向にしか見えない人もいる。

 

都知事選があったが、衆院補選15区の大騒ぎの後なので少しく関心を惹かれていた。

某候補者は、某市市長在任中のYouTube発信で一部界隈には知られていた。それは「若い革新的な市長」対「頑迷無知な老市議会議員」あるいは「偏向した地方新聞記者」という構図で編集されているので、初めて見る人はその論理展開や舌鋒の鋭さに感嘆し、悪を倒すスーパーヒーロー的な存在に見えて心酔してしまうのだった。

彼は市長の任期を終えずに辞職し、都知事選挙に打って出た。たいそうな金額の選挙資金を出してくれる人もいた。結果は2位だったが160万票も獲得し、知名度では現職に匹敵するような国会議員候補をも凌駕した。マスコミが初めから主要候補として取り上げたこともあり、社会現象とも言える状況になった。

 

しかし一方では、投開票日のインタビュ―で、「○○構文」と揶揄されるようなやりとりがあり、疑問符が付く場面もあった。

 

市長時代の議会質疑や議員との会話、単独インタビューなどの公開映像を見ると、まるで噛み合わない応答が頻出し、見ている方が困惑させられる。当事者はなおさらだったろう。

特定議員への個人攻撃とさえみられるような強い発言もあった。これらについては裁判が起こされ、市長側の敗訴という判決も下された。

自分に都合の良い他責的な思考傾向が指摘されたり、実効的な政策が無かったのではないかという批判が加えられたりしている。

 

一方で全国に発信された彼の言動に対して快哉を叫び、強く支持する人も多く、SNSによって個々の市議会議員や記者、印刷業者への誹謗中傷が殺到するような状況となった。

 

同じ人間の言動を見ても、多くの人々の中にまるで違う正反対の人間のような認識が広まる。「○○構文」についても、会話の前段から追えば正しいやりとりになっているとする人も多い。

まるで、初めに書いた「錯視」のようである。

 

川口市クルド人騒動で、「日本人死ね」という声が映像に記録されたが、本人は「精神病院に行け」と言ったのだという。まるで違う内容であるが、同じ音声が聞きようによっては確かにそう聞えるから不思議である。客観的判断は本人に両方の言葉を言ってもらって、音声分析でもするほかないだろう。

 

ことほど左様に同じものを見、聞いても、認識が分かれるのだから、自分が正しいと信じ、相手が嘘を言っているとしか思えないのは当然であろう。

いかにして認識の異なる者どうしの共通理解が得られるか。

今に始まったことではないが、はなはだ悲観的なのである。

『美神』

 なぜかこのブログで最もアクセスが多い記事は、『赤い繭』 - 晩鶯余録 (hatenablog.com) である。(まずそちらを読んでいただくとよいかと思います。)

 

 その中で、同じ教科書に『赤い繭』と並んで掲載されていた三島由紀夫の『美神』との対比に触れた。この教科書からは、この二作品を並べることで「天皇」あるいは「天皇を戴く国」に対する二人の作家を対比的にみようとする編集意図を感じた(誤解かもしれませんが)からだった。

 敗戦時に満洲に残されながらも(国家から見捨てられた)生きて帰った安部公房と、日本の中心(地理的にも精神的にも)にあって国家に殉じそこねた三島由紀夫。両者の対比で、主に天皇に対する思いについて感想を持った。

 三島の『美神』について言えば、その主題は一般的には、「美」という普遍的価値を個人的に我が物にしようという不遜な(偏執的な)思いと行動への「美」の側からの復讐、というようにとらえられるのだろうが、自分は少し変わった見方をしてみた。

 

 昭和十九年九月、三島(平岡公威)は学習院を首席で卒業し。昭和天皇から銀時計を賜る栄誉にあずかった。三島の中の「天皇」は、日本という国家、歴史、文化そして美の象徴、というか、そのものだったのではないか。

 翌二十年二月十日、三島は入隊検査で素裸になったため気管支炎が悪化、軍医は肺浸潤と誤診し、即日帰郷となった。一兵卒としての出征という明日は消え、彼は生き残った。そこには、戦争を生き残ったということ以外、安部公房とは真逆の体験と感情があったに違いない。

 

 

 昭和二十七年に発表された『美神』には、今際の床に伏す八十三歳の老博士が登場する。なぜ八十三歳なのか。それは、明治八十三年が昭和二十五年になるからだろう。つまり、この年齢は明治維新後の天皇の時代を象徴しているのではないか。

 明治維新以後の日本人は、「新天皇」のもとに復古した「新日本」を生きてきた。その日本人の最先端に三島はいたのだろう。

 だが戦後、天皇は神聖にして犯すべからざる存在ではなく、国家の象徴ではあるが人間となり、庶民の前に背広姿で現れ、笑顔で帽子を振り、肉声で語るようになった。

 三島の栄誉とともにあった天皇は俗化したのか?

 『美神』の老博士は自分だけの秘密を女神像と共有し、そこにひそかな満足と喜びを感じていたが、あろうことか女神像は博士の「秘密=嘘」を「真実」に変え、変わりなく美しく存在していた。

 これは「美」を私有せんとする人間の野望への復讐を描いた話であるとともに、日本人に崇拝されていた「新天皇」がさらに姿を変えながらなお「シン天皇」であり続けていることへの三島の複雑な思い(一方では裏切られたとの思い=憎悪、一方ではかわらぬ賛美)を重ねているのではないか。

 

 まあこれは七十過ぎの老爺のたわごとです。

 

 ついでに根拠の無い妄想を披歴すれば、女神像の身長である2.17メートルと2.14メートルは、二月十七日か二月十四日かの違いかもしれない。つまり、「肺浸潤」で即日帰郷となった日付なのではないか。詳しい年譜を見ていないのでわかりませんが。

 ちなみに、ミロのビーナスの身長は2.03~2.04メートルで、台座を含めると2.14メートルらしい。ミロのビーナス | ルーブル彫刻美術館 (louvre-m.com)