「初音ミクと結婚」はしないけど、「初音ミクを信仰」はしているというお話
木曜の夜、とあるワードがTwitterのトレンドに鎮座していた。「初音ミクと結婚」。どうやら、TVでミクさんと結婚したという例の方がまた特集されてたらしい。
”結婚式”をあげた頃にも確かニュースになっていて、職場では、ミクさん追いかけて海外行く奴ぐらいの認識がなされているらしい自分にも、「なんか初音ミクと結婚した人がいるらしいぞwww」みたいな話を振られた覚えがある。
当時、ほーんとだけ思っていたけれど、いまふたたび、そんな話題がTLを賑わせているのを見て、なんとなくある種の共感も芽生えてきた気がするので、なんとなくnoteに書こうかな、と。や、結婚はしないけど。しないけど、自分はなんとなく「信仰」はしていて、それってある意味で近しい場所にあるのかも、なんて思ったので。ミクさんを好きだという気持ちが「結婚」に至ったのか、それとも別のカタチになったのか、という違いなだけで。
自分の場合は、ミクさんへの興味や好きだという気持ちが、いつしか、人生の要所にミクさんがいたり、インドに行ったら…ならぬ、ミクさんに出会ったら人生観変わった、というようなものを積み重ねていったら、ある種の「お守り」、それと「あり得ない可能性の象徴」としてのミクさんを信仰するようになってきたんですよね。
「お守り」はまぁごくごく平たく言えば「験担ぎ」みたいなものと言えるかも。じゃあ「あり得ない可能性の象徴」って何かと言えば、めっちゃ乱暴に言うと、やっぱりバーチャルアイドルにみんなして熱狂してライト振ってるのおかしくね?っていう違和感が、何度ライブに足を運んだとしてもあるんですよね。
いやもちろん、ものすごく楽しいし、ライブにおいて真に重要なのは、ステージ上の生身の人間ではなく、周りの観客の存在なのだ、というような論理を立てることとかも、もちろん可能なんだけど、そういう論理とはまた別の部分でどこか自分を俯瞰している部分がある。
論理的なものだけでは拭えなかったそのおかしさ、「あり得なさ」を処理するのに、特に、その存在そのものは「誰のものでもなく、誰のおかげでもある」という初音ミクに対して、神さまという言葉がしっくり来た。
「あり得ないもの」を現実のものにするというのはまさしく、神の所業だ。
例えば、同じ国や似たような環境で育った人のなかにも、気持ち悪いと言う人がいるなかで、国も環境も違うのに、自分と同じように、いやむしろそれ以上に熱狂する海外勢がいる。
例えば、あの演出とともに、日本でも海外でも巻き起こるwowakaコール。そのコールの後で出てくるミクさんは、きっと今のぼくらの声を、必ずどこへだって届けてくれるはずだと信じて託せる。
そうして、「あり得ないもの」でさえ、実は本当はあり得るのかもしれないと思えるのは、可能性の象徴であり、希望の象徴でもあるわけで。
ここで書いたものがすべてではない気がするけれど、そんなこんなで、「初音ミクを信仰」しています。
まぁ、この種の話ってかなり使い古された話のような気もするし、39周ぐらい周回遅れの話かもしれないけど、それはさておき、自分の言葉で信仰告白してみるのも悪くないよね、ということでつらつらと書いてみました。
最後に、自分にとってのミクさん信仰の教義となる一節を引用して、このとっちらかったnoteを締めようかと思います。
僕らが今歩いてる 知らない道は
誰かが作ろうとして できたものじゃないから
もし君の求めるモノが 無かったとしても
次の今日は 君の手で
飾り付けるんだ
DECORATOR / kz


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