南北朝時代(1336年 – 1392年)
- 1333: 建武の新政
- 1336: 建武式目を制定
- 1337: 後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷る
- 1338: 足利尊氏が征夷大将軍に補任
- 1392: 明徳の和約による南北朝合一
代
氏名
在職
事績
3代
1369.2.7 – 1395.1.8
応安元年12月30日 – 応永元年12月17日
室町時代(1392年 – 1467年)
- 1493: 明応の政変
- 1467: 応仁の乱
4代
1395.1.8 – 1423.4.28
応永元年12月17日 – 応永30年3月18日
1408.5.31 義満没
1411: 明と国交断絶
1416: 上杉禅秀の乱
1423: 嫡子の義量に将軍職を譲り出家
–
空位
1425.3.17 – 1429.4.17
応永32年2月27日 – 正長2年3月14日
義量死後、4代将軍で父の義持が室町殿として政務を執る
義持没後、くじ引きで義円が後継に決まる(籤引き将軍)
還俗・元服後の任官まで間の政務は義円(義教)と管領畠山満家によって行われる
6代
1429.4.18 – 1441.7.12
正長2年3月15日 – 嘉吉元年6月24日
–
空位
1441.7.13 – 1442.12.18
嘉吉元年6月24日 – 嘉吉2年11月6日
義勝後継が定められたが、幼少であったため、征夷大将軍任官まで時間を要する
この間の政務は有力守護大名の合議
–
空位
1443.8.17 – 1449.5.20
嘉吉3年7月22日 – 文安6年4月28日
義政後継が定められたが、幼少であったため、征夷大将軍任官まで時間を要する
この間の政務は有力守護大名の合議
8代
1449.5.21 – 1474.1.7
文安6年4月29日 – 文明5年12月19日
戦国時代(1467年 – 1588年)
- 1565: 永禄の変
- 1573: 信長が義昭を京都から追放
- 1582: 本能寺の変
9代
1474.1.7 – 1489.4.26
文明5年12月19日 – 長享3年3月26日
–
空位
1489.4.26 – 1490.7.21
長享3年3月26日 – 延徳2年7月4日
前将軍で父の義政が「東山殿」としてしばらく政務を執る
義政没後、次期将軍義材の父足利義視が大御所として政務を執る
10代
1490.7.22 – 1493.8.11
延徳2年7月5日 – 明応2年6月29日
1491: 長享・延徳の乱(第2次六角征伐)
1493.1: 河内征伐
1493.4: 明応の政変
1493.6: 越中公方(越中御所)
–
空位
1493.8.12 – 1495.1.22
明応2年6月30日 – 明応3年12月26日
明応の政変により義材が解官
義澄が征夷大将軍に任ぜられるまで、細川政元による京兆専制
10代
(再)
1508.7.28 – 1522.1.22
永正5年7月1日 – 大永元年12月25日
1511.8: 船岡山合戦
1520: 等持院の戦い
1521: 和泉国堺に出奔
12代
1522.1.22 – 1547.1.11
大永元年12月25日 – 天文15年12月20日
1527: 桂川原の戦い
堺公方の成立
1528: 朽木での政治
1531: 大物崩れ
13代
1547.1.11 – 1565.6.17
天文15年12月20日 – 永禄8年5月19日
–
空位
1565.6.18 – 1568.3.5
永禄8年5月20日 – 永禄11年2月7日
義輝殺害から、三好三人衆が擁立した義栄が将軍に任官するまでの期間
1567: 東大寺大仏殿の戦い
15代
1568.11.7 – 1588.2.9
永禄11年10月18日 – 天正16年1月13日
参考リンク

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