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起業してからゲーム売上100億を超えるまで。背水の陣で海外移住からの経営復帰。起業家人生16年を振り返って。

久しぶりのnote更新です。
この度、2年以上かけて取り組んできた「コインムスメ」がやっとリリースに向けて事前登録を開始します。

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事前登録開始

約16年の起業家人生、今となってはやっと経営者として納得でき、毎日がものすごく充実していますが、振り返ってみると思い出したくない様な辛い時期がほとんどでした。

このnoteを始めたのもちょうど2年前、シンガポール移住を決めた時でした。人生の節目ということで、今までの人生を振り返りつつ、今の気持ちを記しておこうと思います。

生い立ちから学生時代

早速改めて、自分自身のプロフィールから述べていこうと思います。
1985年8月生まれなので、今年で39歳になりました。

東大法学部を2009年3月に卒業していて、卒業間際の1月に株式会社テクロスを創業しています。

今となっては東大卒の起業家もたくさんいますが、当時は起業する人はほとんどいなく、かつリーマンショック直後だったので、内定した会社が潰れた、という友人もいた様な状況でした。

そんな中、僕が当時起業した理由は、この分野(起業)なら勝てると思ったからです。

元々弁護士を志望していましたが、競争相手が超優秀な友人たちだったのを見て、これは自分が弁護士になっても彼らと戦っていくのは厳しそうだ、と感じて大学3年生の時に方向転換しました。

自分の能力を冷静に判断するのはビジネスをやる上ですごく大事だと思っていて、今僕がWeb3に取り組んでいる理由も、新しい、怪しい分野なので優秀な人がまだ比較的少ないことも大きな理由です。

強い敵からは逃げて、何かの分野でNo1になることで次の新しい分野に向けての挑戦権が得られるというのが僕のビジネス観、人生観のベースになっています。

テクロス創業とゲーム事業が立ち上がるまで

学生起業した株式会社テクロスですが、無事会社が離陸できたのは、多くの方のご縁があったからです。

特にお世話になったのはOmiaiなどのサービスを手掛けられていたネットマーケティング社の創業者で、今はエンジェル投資家として活躍されている宮本邦久さんです。

宮本さんとの出会いは就活イベント。「就職するつもりはありません。起業したいです」とやたら熱く語っていた自分のことを気にかけてくださり、「うちでインターンしてみたらどう?」と誘ってくださいました。

当時のネットマーケティング社は広告代理店事業が立ち上がり、新しく新事業でメディア事業を立ち上げようというタイミングで、社内人事の都合でたまたま新規事業を任せて頂きました。

任せて頂いたのはクレジットカードの比較メディアで、当時はエクセルの使い方もわかないほど全く経験がありませんがでしたが、文字通りゼロからインターネットビジネスの基礎を学ばさせて頂きました。

起業して一番辛かったことは何ですか?」と聞かれると、僕は迷わず起業する直前の自分の心境を思い出します。

当時は就職先もなく、かつ任せて頂いた新規事業はうまくいっておらず、起業するビジネスモデルも決まってない。人脈もお金も何もない。友人たちが卒業旅行の計画を練る中、自分自身の将来が不安すぎて毎晩泣いてました

当時は崇高なビジョンがあった訳でなく、とにかく不安で昼夜問わず働きました。結果、任せて頂いたメディアが何とか黒字化し、起業するに際してその仕事をそのまま引き継がせて頂けることになりました。

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創業時に運営していた比較メディア

2009年1月、株式会社テクロス創業

当時の資本金は250万円。100万円は友人から借りて100万円は親から結婚式のためにためていたお金を切り崩してもらい、50万円は自分の貯金から出したスタートでした。

当時23歳でした。何とか起業できたはいいものの、ビジネス経験が1年も経ってない社会人経験のない学生がまともに会社経営ができるはずもなく、会社は早速行き詰ります。

売上は全然上がらず、文字通り会社の残高が毎月減っていく、胃のきりきりした日々が続きました。

ピンチの時の解決方法は人それぞれ違うと思いますが、僕の場合は「人に会うこと」です。

当時も何とかしたいという思いから、業界の色々な方に会って教えを乞うていましたが、そんな中で当時のビジネスを助けてくれる方が現れ、会社の売上を伸ばすことに成功しました。

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創業時に間借りしていたオフィス

起業して最初のミス~いいオフィスを借りる~

確か初年度の年間の売上は1000万、2年目は3000万だったと思います。今からすると目くそ鼻くそですが、当時の自分からすると月の利益が数百万あった月もあり、天にも舞う気持ちでした。

そこで誰もがやってしまう最初の失敗をします。見栄を張っていいオフィスを借りる。ということです。

創業時はネットマーケティング社のオフィスの一部を破格の条件でお借りしていており、1年間はそのオフィスにアルバイトと事務スタッフと合わせて4席を借りていました。

ですが、起業したからには自分の城を持ちたい。という思いから2年目にマンションオフィスを借りて、そこに自分も住んでリビングを会社にするという体制が始まりました。

当時のネットマーケティング社が表参道にあったこともあり、その近くのマンションを借りました。売上利益に見合ってないいいオフィスを構える、というのは絶対にやってはいけない経営判断の一つだと思っています。

3.11と関西へのオフィス移転

テクロスの本拠地は京都にあります。それは創業して3年目の2011年3月末にオフィスを関西に移したことがきっかけです。

いいオフィスを借りて人も少し増強したはいいものの、売上は全く伸びずコストが膨らみ、またもや会社赤字になりました。

2年目から地元の友人が会社に入ってくれ、さらに3年目から学生エンジニアをやっていた僕のいとこが、大学卒業後に会社に入ってくれるということになり、会社を3人の地元の滋賀県に移そうということになりました。

当時は引き続き比較メディアの運営を主軸にしていたので、場所はどこでもよいだろうということでなるべく固定費を下げるためにも地元の滋賀県の3LDKマンション(当時8万円くらい)を借りて再スタートしました。

固定費を下げたことで会社は安定化したものの、滋賀県のマンションで会社をやっていもなかなか先行きが見えず、僕は毎月夜行バスで東京に行って営業にまわり、残りの2人は京都大学出身ということで京都オフィスを構えて開発部隊を作る、ということ3年目から会社が再スタートしました。

そして色々な出会いがある中、当時のDMM.comの取締役の方とご縁を頂き、開発の案件を任せて頂くことができました。その方が2011年の末から、社内でゲーム事業を立ち上げるということでお声掛けを頂き、テクロスでゲーム開発事業が始まりました。

最初のゲームリリースは2012年の秋、会社を創業して3年半の時でした。

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1年だけ借りた京都のマンションオフィス

ゲーム事業にドメインを決める

ビジネスモデルを何にするのかは、起業する上で最も大事なことの一つです。誰しもGoogleやFacebookの様に、世界をあっと言わせる様なビジネスモデルを思いつき、資金調達をして大成功を夢見るでしょう。

ですが、周りの友人を見ても成功しているほとんどの会社が最初から100点のビジネスモデルを見つけられるケースなんて皆無です。

僕自身も今まで書いた通り、ゲーム事業にたどり着くまでに散々回り道をして、失敗を重ねてきました。

今となっては「ゲームビジネスを一生やる」と決めていますが、起業した当時はまさか自分がそうなるなんて思いもしませんでした。本当に色々なご縁があって今があるなと思っています。

ゲーム業界に身を置いた12年間

この12年間で約50タイトルのリリースに0から関わってきました。最初は開発費数百万から始まり、直近では10億規模のタイトルまでいわゆるソシャゲ業界の波に乗って会社を伸ばすことができました。

一番のヒットは「神姫PROJECT」というタイトルで、リリースして8年半になりますが、このヒットタイトルが生まれるまでに約6年かかっています。

自分自身の一番の強みは何か?」と言われると、50タイトルのゲームリリースに0から立ち会えたことだと思っています。社内で10タイトル、社外で40タイトルの立ち上げにゼロから関わらせて頂きました。

ゲーム業界未経験の自分が、これほどまでに多くのタイトルの立ち上げに参加できたのは、DMMGAMESという今となっては日本最大のゲームプラットフォームが立ち上がるタイミングにたまたまご一緒できたからです。

ゲームを作るというのは一つの事業を作る様なもので、ターゲットの選定、予算の調達、人員の調達、コンテンツの制作など、幅広い能力が求められます。

僕はゲームプロデューサーに必要な能力を4つに分けています。

  1. 作るコンテンツを決めるクリエイティブ力

  2. 売れるものを見つけられるマーケティング力

  3. 予算確保ができる営業力

  4. メンバーを率いるマネジメント力

いわゆるクリエイターは1の能力には長けていますが、同時に2の能力を兼ねている人はかなり少なく、3と4を同時に満たせる人はほとんでいないと思います。

漫画制作だと、作家が1を担当、編集が2を担当して、3と4はほぼ必要ないですが、昨今のゲームだと予算が数億、数十億になってしまっていて、3と4も起業家並みの能力が問われるので、開発難易度は上がってきています。

昨今のゲーム業界の中でいうと、人生の中で1本ゲームリリースに立ち会うことすら難しいと思います。短期間でこれだけ多くのタイトルを立ち上げる経験させてもらえたことは結果的に自分の人生において最大の強みになっていると思っています。

ヒットタイトルが生まれるまでの4年半

ゲームビジネスが始まったのは2012年。本当に右も左もわからない中、一番初めはゲームエンジンを買ってきてそれに切り抜いたマンガイラストをそのまま載せたものを作るところから始まりました。

そんな未経験な自分たちがヒットタイトルに恵まれたのは、何本も開発を経験させてもらい、しっかりと市場に向き合い、組織に向き合い、改善を繰り返したからだと思います。そして何より、市場が成長したからです。

会社経営もコンテンツビジネスも、失敗しないことは実力ですが、成功するかどうかは運が大きいと思ってます。

なので、大切なことは成功するまで死なずにやり続けること

ですがいつ成功するかわからない中、それまでやり続けるのは本当に見えないトンネルを進んでいる様な辛い道のりです。

僕の場合はヒットタイトルが生まれてちゃんと会社として利益が出る様になったのは2016年4月。会社を作ってから丸7年たってからでした。

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ついに生まれたヒット作

ゲームがヒットしてからの暗黒時代

会社経営というのは本当に面白いもので、次々に試練が訪れます。無事ヒットタイトルが生まれ、会社の売上も利益も爆増し、ある意味、成功者の仲間入りを果たしたつもりになっていました。

その頃の自分を今から振り返ると本当に恥ずかしく、好きでもないブランド物に身を包み、いい車に乗っていい時計をや宝石を身に着けて必死に成功者であることをアピールしていました。

経営者人生最大の失敗

自分の経営者人生で一番の失敗は何かと言われると「現場を丸投げした」ことです。当時の役回りとしては僕が東京で営業して、2年目から入った同級生が京都の開発現場でプロデューサーとして社内を仕切っていました。

その際、共同代表だけに留まらず、共同社長という立場にしてしまい、会社のコアであるゲーム開発の責任をすべて投げてしまいました

ゲーム事業が始まった初期は僕が外部との折衝や資金調達を行い、それがとても重要でしたが、ヒットタイトルが出てからは一時期その重要性が薄れてしまいました。

その際、ちゃんと開発現場をわかった上で委託していたら問題なかったのですが、丸投げしてしまっていたため、全く手出しも意見もできず、社長としての役割を完全に失いました

僕はこの経験から一つの強い信念を持っています。それは「社長が現場に立てない会社は弱い」というものです。B to Bの会社は社長はNo1営業マンであり、 B to Cの会社は社長はプロダクトオーナーであるべきと思ってます。

楽天の三木谷社長と交友のある、とある先輩経営者からきいたエピソードがとても印象的です。

その方はある日三木谷社長にゴルフに呼ばれ、食事の際に。「楽天モバイル、俺が何十万台(何百万台?)か営業することにしたから、お前の会社でも頼むわ。」と言われたそうです。

サイバーエージェント社の藤田社長は、AbemaTVのほとんどの会議に出てるという噂をよくききます。

そのクラスの人たちですら現場に立ってるのだから、自分ごときが現場を離れるとか部下に任せるとか言ってたら、絶対に会社は伸びません。

ゲーム会社でもちゃんと社長が組織とコンテンツ制作の現場に立ち続けないと会社は成長しないと思っています。

本当に苦しかった6年間

テクロスの開発拠点は京都にあります。僕はほとんど東京の営業拠点にいて、資金調達や外部との折衝を担当しており、開発部分は京都のメンバーに丸投げしてしまっていました。

そして開発の現場に自分が一切立たず、そのままヒットタイトルが生まれてしまったので、社内での影響力を完全に立場を失いました

会社は成功してうまくいっているのにも関わらず、自分の役割はとても少なく、文字通りたまたまうまくいった感覚でした。その頃は今から振り返っても精神的に本当に辛い毎日でした

ユーザーや現場と向き合い大変そうな他の経営陣を横目に見ながら、気を使いながら何かできることはないかと探すものの、現場視点がなく目線が合わなさ過ぎて会話が嚙み合わない日々が続きました。

何とか自分の事業を作ろうと奔走する

このままでは本当にまずいと思いながら、色々なことに手を出しました。英会話、比較メディア、ウェブトゥーン、不動産、とりあえず立ち上げようとしてみてはみたものの、結果的には全て撤退しました。

この頃に声をかけて社内に入ってもらった方や社外の方々には多大なるご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳なく思っています。

結局自分自身が責任をもってやりきれない領域を丸投げする様な形になってしまい、中途半端な結果でした。自分自身が先頭に立って責任を持ってやり切れるものでないと始めるべきではないと強く思っています。

ゲーム売り上げ100億、現場との乖離から生まれる焦り

2016年にヒットが生まれ、その後も何本かそこそこの売上のタイトルが続き、ゲームの年間売上は100億くらいになりました。

会社は完全にフェーズが変わり、コーポートを整えたりオフィスを拡張させたり、社内制度を整えたり、色々と動きがありました。

ただしそのほとんどを当時の共同経営者と別の役員がやっていて、自分には社長としての権限も明確な仕事もなく、焦って自分ができる何かを探していました。

ですがなかなか自分が打ち込める事業が見つからず、色々な人に会ったり、色々な事業に手を出したりましたが、現場感がなかったので発想が非常にふわふわしており、社内との溝は深まるばかりでした。

その時期は人に会うという名目でゴルフやポーカーの海外遠征にも時間を使っていて、家族とも溝が出来、全て上手くいっていない時期でした。

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2019年の東京ゲームショウ

財務の仕事を引き継いでから徐々に流れが変わる

そんな流れに変化があったのが2021年の頭。財務担当が退職するとということで、手が空いていた僕は、その引き継ぎました。

夜遅くまでエクセルを叩いて全てを自分の目で把握し、直属の部下を持ち、自分のチームを持っていった結果、少しずつ現場感を取り戻していきました

そしてそんな中、2021年の夏、ブロックチェーンゲームというジャンルが大ブームだということを知りました。

ブロックチェーン×ゲーム

2021年、日本でも「NFT」のブームが訪れます。そしてNFTや仮想通貨をゲーム内に取り込んだ「ブロックチェーンゲーム」というジャンルが生まれます。

2021年の夏にはベトナムで開発されたAxie Infinity(アクシーインフィニティ)というゲームが月商400億を超えました。
※当時のnoteでもそのことについて書いてます。

ゲーム内アイテムやゲーム内ポイントがゲームの外に取り出せて売買できる世界。「Play to Earn」という言葉が生まれ、ブロックチェーン技術を使ったゲームの可能性に、世界中が魅了されました。

僕自身、ポーカーが大好きで世界中のトーナメントに参加していたので、
マネープレッシャーがあることで生まれるメンタルスポーツとしてのゲーム性についてはとても納得感があり、そういったゲーム体験が法律が整った中で表現できるなら、新しい可能性があると心の底から感じました

ゲームに携わった自分のキャリアが生きる、新しい分野。しかも世界規模で展開できる可能性がある。6年近く自分の居場所を探し続けていたので、やっと見つかったかもしれないと、興奮して寝れない日々が続きました

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Axie Infinityの当時の売上推移

とりあえず人に会う

ブロックチェーンゲームのことを調べる中で、一番初めに話をきいたのは玉舎直人さんでした。玉舎さんは2018年にdouble jump.Tokyoを設立、My Crypto Heroesを同年にリリースされ、同ゲームは初日から取引高・取引量・DAUで世界1位を記録していました。

ちなみに玉舎さんとの出会いは自分探しをしていた時のマカオのポーカーテーブル。どこからご縁に繋がるかわからないなと本当に思います。

玉舎さんに弟子入りして、「twitterやれ!」「Discordでコミュニティに入れ!」とか本当に基礎から教えて頂き、また現BOBG PTE. LTD.の代表の増山健吾さんなど、色々な方をご紹介頂きました

ちょうど10歳下の増山さんに「チェーンって何すか?」「トークンが消えました!」などと色々と質問ぶつけながらブロックチェーンの基礎を学ばせてもらったのも今ではいい思い出です。

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取引高・取引量・DAUで世界1位を記録したMy Crypto Heroes

シンガポールに移住すると決める

今回はグローバルでチャレンジしたい。そういった強い思いと、シンガポールにブロックチェーンの中心地があることをききつけ、とりあえず移住することを決めました。

家族が何も言わずに賛成してくれたのが一番救いでした。会社でも何とか移住を押し通すことができ、準備を始めました。2021年末のことでした。

そういった経緯があるので、税金対策でシンガポールに移住した訳でも、日本の会社を成功させて満を持して海外に乗り込んだ訳ではなく、完全に退路を断って背水の陣で移住しました

そして、シンガポールに移住すると決めた時には、ブロックチェーンゲームをやる、ということだ決めていて、何をやるのかも、誰とやるのかも全く決まってませんでした

文字通りゼロからのメンバー集め

シンガポールに行く、ブロックチェーンゲームやる、ということを色々な人に話して周り、沢山の方にご縁を頂きました。Xもアカウント消していたので、再度始めて、またその頃から英語の勉強も再スタートしました。

ですが、当時は社内で開発チームを持っていなかったので、文字通り、たった一人からのスタートでした。もちろん僕は、イラストも描けないしプログラムも組めません。それどころかアイデアすら全くありませんでした。

最初のコアメンバー

コインムスメには僕を含めて7人のコアメンバーがいます。その一人一人がなくてはならない存在で、とても優秀で、それぞれ得意領域を持っています。

最初にコアメンバーとして入ってくれたのは、株式会社JORO松田さんでした。松田さんとは以前からお仕事でご縁があったのですがしばらくやり取りはなく、偶然ゴルフ練習場で見かけたのがきっかけでした。

久しぶりに食事に行く流れになり、その際にシンガポール移住するという話とブロックチェーンゲームを作るという話をしたら、「面白そうっすね。ぜひ一緒にやりましょう!」とまさかの返事をもらいました。

コインムスメのクリエイティブやライブはとても好評で、よく褒めて頂くのですが、それは全て松田さんの功績です。ころころ意見の変わる僕にずっと付き添ってくれた、一番最初のメンバーです。

シンガポール在住の金融メンバーたち

次に加入したのは金融メンバーの二人です。シンガポール移住のための下見に行った際に、大学時代からの友人のYoggyと再会し、大学の先輩からの紹介でJMLと出会います。

彼らはいわゆる超エリートで英語も話せて頭もめちゃくちゃいい、僕が学生時代に勝てないなと思ったフィールドで勝っている超ハイスぺ人材です。

Web3、トークンプロジェクトは金融的な側面が非常に重要なので、金融業界のプロである彼らが早期から監修してくれたおかげで、コインムスメのトークのミクスは非常に洗練されました。

JMLは世界中探してもなかなかいない、金融業界からクリプト業界にどっぷりつかったに日本人で、飛びぬけて優秀なトレーダーです。

Yoggyは何でもできるCOO的な存在で、トークン設計からゲームのパラメーターまで、全て未経験ながら凄まじい勢いで新しい領域の仕事をキャッチアップしていきました。

またいつも暴走しがちでドリーマーな自分を、冷静に諫めてくれるチーム内でのバランサー的な役割を果たしてくれました。

ついに開発体制が整う

ブロックチェーンの開発に関しては、当初からCryptoGames社の小澤さんにアドバイスを頂いていたのですが、ゲーム開発のメイン部分に関してはコアメンバーでチームを組まないといけません。

ですがブロックチェーンゲームという分野は従来のゲーム開発者からすると未知数で、かつ金融も絡むため開発難易度も高く、なかなかいい開発チームが見つかりませんでした。

色々な人と会ってはアイデアを話し、とりあえずチームに入ってもらったがなかなか折り合いがつかずにお別れして、なかなか開発体制が整いませんでした。

そんな中、移住する前日にテクロスのグループ会社の株式会社Withoutの代表の沖さんに移住します、という話をしに行きました。

沖さんは僕と同年代。DMMGAMESに勤めた後に、転職してゲーム開発をされていて、その後独立するタイミングでお声掛けをしてWithout社を共同で設立しました。

今でも会社に寝泊まりしている様な、めちゃくちゃ現場の方です。当時も案件を何本も抱えていましたし、ブロックチェーンゲームの様なよくわからない分野は興味ないだろうなと思っていました。

ところが僕が本気でやろうとしているのを感じられたのか、「ブロックチェーンはちょっとよくわからないですが、ゲーム部分は何とかなると思うので、開発体制組んでみましょうか?」と言って頂きました。

日本側がゲーム業界から2人+シンガポール側が金融業界から2人+自分の合計5人で、どんなプロダクトを作るのか、どうマーケティングして何をゴールにするのか、毎日話し合いました。

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最初は2022年にリリースする予定だった

コインムスメが始まる

企画当初の名前は「星プロジェクト」。アイドルを推すという熱狂とトークンへの熱狂を掛け合わせた企画にしたい。DAOでユーザー主導で沢山キャラクターを作ったりできないか?という発想でした。

そして、キャラクターごとのトークン発行をして、取引所みたいなプラットフォームにできないか、という壮大な企画から入りました。

当時はDAOやブロックチェーン、Web3に対しての幻想も先行し、大きな絵を描いて大きく資金調達して一気に駆け抜ける、というプロジェクトが多く、自分たちも早くやらないと、と焦っていました。

しかし、話を進めていくうちに、実際にちゃんと自分たちでコンテンツを作っていかないといけない、という現実的な落としどころになり、既存のトークンの擬人化が一番やりやすそう、というところで方向性が決まりました。

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最初のランディングページ案。当初のプロジェクト名は「星プロジェクト」

ネーミングでの議論

色々な議論の結果、仮想通貨をアイドルに擬人化する、という企画に落ち着きました。日本のゲーム業界出身者からするとありきたりですが、世界的には非常識で、かつそれをやり切っているゲームプロジェクトもなかったので、ど真ん中で攻めていこうという気持ちでした。

結果的にプロジェクト名は「コインムスメ」に決まったのですが、最初メンバーからは大反発を受けました。一番大きな理由は、英語で読めない、意味がわからない、という問題です。

幻影少女、クリプトガールズ、など色々な名前の候補が上がりましたが、僕は「コインムスメ」をゴリ押ししました、少しのダサさも含めて、日本っぽい感じを表現したい、と思ったからです。

唯一、英語で発音できないという理由から、CoinMusumeではなく、CoinMusmeと「u」を抜いた形でネーミングしました。

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当時のロゴの案出し

ゲーム性での議論

ゲーム性に関しても相当もめました。僕自身、Web3ゲーム(ブロックチェーンゲーム)は、既存のゲームとは全く別の体験にしないといけない、というこだわりがありました。

それはブロックチェーンゲームが新しい可能性を開くなら、既存のゲームユーザーじゃないところからユーザーを引っ張ってこないと無理だ、と思っていたからです。

僕自身、いわゆるスマホのソーシャルゲームの市場の黎明期から入り事業を作ってきたので、その際にコンシューマゲーム(プレステやswitch)とは別のユーザーが市場を作ったのを目の当たりにしていたからです。

なので、ゲームプロジェクトでありながら、既存のゲームとは全く違う体験を作らないといけないので、他のメンバーからすると、何が面白いのかわからなく、議論にならないということが起こりました。

多くのゲームプロジェクトの場合、既存の他のゲームを参考にしながら、改変を加えていきますが、コインムスメはベースとなるゲームシステムがないため、完全なるオリジナルです。

メンバーと話すとどうしても既存のゲームをベースにするという発想になってしまうため僕が納得いかず、結局は辻が納得いくものをとにかく作る、ということになりました。

今となってはゲームが出来上がり、「なるほどね、これは面白いかも」と反応をもらえていますが、当時は全てが手探りの中、仕様が毎日変わる、全く先が見えない開発の日々でした。

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オンラインゲームが10年でめちゃくちゃ伸びた

広報キャラクターのムスメちゃん

ゲームシステムは決まりつつありましたが、まだまだ課題は沢山ありました。一番の課題は、世界観の方向性が決まらない、ということでした。

全く新しいゲーム性に、Web3という新しい概念を取り入れ、かつオタク過ぎないいいバランスの世界観を構築したかったのですが、なかなか思ったものが作られず、途方に暮れていました

そんな2022年末のある日、シンガポール側のメンバーで忘年会をしていたところ、共通の友人の中から一人の名前が上がりました。すぐに連絡を取ってみたところ、奇跡的に会社を辞めたばかりで時間がある、ということですぐに仕事を依頼しました。

その方はユーモアあふれるとても面白い方で、僕たちがイメージしていたドンピシャで世界観を作ってくれました。そしてその方が連れてきたのが、今の日本語のコインムスメの広報担当のムスメちゃんでした。

「SNSの投稿は基本NGないので」と伝えていたので、割とギリギリを攻めた投稿もありましたが、僕自身も毎日大爆笑しながら仕事することができ、それが今のコインムスメのコミュニティの雰囲気にも繋がっています。

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おふざけ担当、公式広報のムスメちゃん

SNSでコミュニティを作る

「コミュニティ」はWeb3、ブロックチェーンビジネスにおいてとても重要な概念です。初めてのチャレンジでどうしてよいかわからなかったのですが、ムスメちゃんのお陰で最初の突破口が広げられました。

2023年6月にコインムスメのXアカウントが作られ、「コインムスメ」というコンセプトが世に出ました。ブロックチェーンゲームの公式アカウントをキャラクター化するという発想が刺さり、とてもいいスタートが切れました。

そしてその流れに沿って、7月からDiscordコミュニティの募集も始めました。

コインムスメのコミュニティでは、コミュニティ自体をゲームの様な楽しいものにしたい、ということで僕のXから呼びかけをしたところ、200名近くの方から参加表明を頂きました。

そして集まった方の中から熱量の高い方何人かと議論を重ね、仮想通貨について遊んで学ぶ、学園みたいなものにしたらよいのではないか、という話の中から「コインムスメ学園」というネーミングが決まりました。

コインムスメのコミュニティはユーザーによる自治が行われていて、生徒会長のシャムさんや副会長のたろさんを中心とした執行部により、オンラインのイベントが継続的に行われています。

またコミュニティ運営に当たっては0x Consulting Group社のコミュニティマネージャーのmountlongさんに最初期からご支援頂いています。

0x社はWeb3に特化したコンサルティングファームで、ファウンダーの細金さんは、浮き沈みのものすごいWeb3業界で、安定して結果を出されている僕のとても尊敬する経営者です。

コインムスメが企画書1枚のコンセプトだったころから手厚くサポート頂いている、一番長いパートナー企業です。

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2023年東京ゲームショウ。ゲームリリース前からコミュニティが賑わう

海外への展開

最後に課題として残ったのが、海外への展開です。シンガポール移住を決めてから英語は毎日勉強はしていたものの、単独で打合せをするには程遠く、言語の壁を強く感じていました。

そんな中、後輩経営者からの紹介で株式会社Pacific Meta岩崎さんとご縁を頂きました。同社はCOOのKousei Shoさんが日英中のトリリンガルで、在籍メンバーの多くが2か国語以上話せる海外マーケティングに特化した会社です。

岩崎さんから連絡をもらい、ぜひ支援したいというとても熱いプレゼンをもらいましたが、海外展開に悩んでいた当時の自分からすると、正に渡りに船でした。

岩崎さんは10歳も年下ですが、僕よりも安定感のある優秀な経営者です。未開拓のWeb3領域でどう事業を作っていくかよく話しますが、お互い悩みながら答えを探っている、一番の戦友だと思います

Pacific Meta社では中華圏のマーケティングはAndyさん、東南アジアのマーケティングはロンさん、日本のマーケティングは平井さん、様々な面からサポート頂き、本当にいつも無理をきいてもらっています。

最後のコアメンバーの加入

Web3領域では、世界各地でイベントが行われます。アジアだけでなく、アメリカやヨーロッパも含めて年間で様々なオフラインイベントが組まれ、業界関係者はそこで横のつながりを作ります。

Pacific Meta社からサポートは頂いていたものの、内部にはグローバルメンバーがおらず、海外のイベントには僕一人で参加しており、いまいち手触り感のない日々が続きました。

そんな中、2023年の韓国で行われたKorean Blockchain Weekでご縁を頂いたのが、ミレさんでした。日英韓がネイティブレベルに話せて実務能力も非常に高い彼女の加入により、海外戦略に対する解像度は一気に進みました。

2024年の年初に実施したNFTセールでは、日本以外に英語圏、中国語圏、韓国語圏などからの売上も売上を上げることができま、リリースに向けてはフィリピン、タイ、インドネシア、ベトナム、インド、などへの展開も進めています。

テクロスの経営を引き継ぐこととなる

コインムスメを何とか成功させようと奮闘する中、まさかの事態が起こります。共同経営者からテクロスの経営を引き継ぐことになるのです。

元々グループ会社で色々な事業を展開していたのですが、お互いの方向性が違うことが改めてはっきりしたということで話し合いが進み、ゲームと非ゲームで会社を切り分け、僕がゲーム側の会社を全て見ることになりました

2023年の末には話し合いがまとまり、約10年ぶりにテクロス単独代表になりました。人生、何が起こるか本当にわからないなと思います。

15年目にして初めて会社経営に向き合う

テクロスの本拠地は京都ですが、起業して15年間で京都オフィスには年間数回しか行ってなかったので、ほとんどのメンバーは顔も名前も知らない状態でした。

まずは信頼を得ないといけないと思い、なるべく多くの方と個別で会って今までの事情を直接話しました。そして現場の問題点をきいて、今後どうしたらもっと会社が良くなるか、真剣に考えて新経営陣で話し合いました。

そして改めてビジョンとポリシーを見直し、評価制度を変更したり、組織改革を行い、グループ会社の再編を行いました。

会社はどこを向いているのかを示し、何をしたらそれに貢献でき、給与や役職が上がるのかを明確にし、全ての社員にキャリアアップの機会が与えられる様に組織を作り直しています

またオフィスが2つのビルと4つのフロアに分断され、コミュニケーションの機会も薄く、利便性も悪いのでオフィス移転をすることを決めました。また採用も新卒中途問わず力を入れてました。

まだ経営を引き継いで改革の最中ですが、会社の雰囲気は確実に良くなっているなと感じますし、新規の開発案件も進んでいます。

シンガポールと京都を行き来する様になり、自分の時間はテクロスに割く割合は増えましたが、逆にテクロスからコインムスメの開発に移ってくれたメンバーも現れ、結果的にコインムスメの開発体制も非常に安定しました。

自分の人生がこんな事態になるなんて、全く予想していませんでした

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テクロス15周年パーティでの経営陣

世界に向けてプロダクトを作る

日本を出て、日本人ほどマンガやアニメなどのコンテンツに触れている国はないと強く思います。

僕もマンガアプリを複数インストールしてますし、友人と会話するときに最新のマンガの話題もよく出ますが、いい大人がそんなアニメやマンガに触れているのは、世界的に見ると異常事態です。

つまり裏を返すと日本人はそれほどコンテンツ作りに対しての土壌があるとということです。また日本には、そういった日本コンテンツを作りたくて海外からも多くの人が働きに来ています。

「ドラゴンボールの悟空みたいな性格のキャラクター」と言えば誰もがイメージが湧きますし、チームでの共通言語もできています

一方、日本人は現場は得意だが経営は苦手だと一般的には言われています。指示されものをちゃんと作るのは得意ですが、リーダーシップを持って人を引っ張るのは確かに国民性から少し遠いのかもしれません。

しかし昨今では、母校である東大出身者も含め、日本でも起業する人が増えてきました

しかし、優秀な人ほどSAASなどの固いB to Bビジネスを好み、B to C領域、特にゲームなどのコンテンツ領域で起業する人はほとんどいないのではないかと思います。

当たり外れが大きいコンテンツビジネスは株式市場では評価が低く、またスキルセット的にも未経験からコンテンツ会社を立ち上げるハードルは非常に高いからです。

僕自身も色々な偶然が重ならなければ、ゲーム会社をやる結末にはなってなかったと思います。人生、本当にどうなるかわからないなと思います。

コンテンツつくりは難しい、でも面白い

今までにも述べた通り、昨今のゲーム作りは非常に難易度が高いビジネスになっています。予算も大きいし市場のスピードも速い、かつ経験を積む環境がそもそもない、という状態です。

なので、僕自身はなるべく多くのプロデューサーを輩出して、彼らが力を発揮できる様な体制を作っていきたいと考えています。

僕が考えるヒットコンテンツが生まれる要素は下記の3つです。

  1. プロデューサーがマーケットを見えている。

  2. プロデューサーに権限が集中している。

  3. 時代が味方する。

僕は人生かけて「見えている」プロデューサーに「預け」続けたいと思います。それがしっかり出来ていれば、外したとしてもダメージは薄く、張り続ければタイミングによって、ヒットが生まれると思います。

コンテンツはお金があっても、ブランドがあっても、頭数があっても作れません。大事なのは人です。たった一人の熱狂から全てが始まります

それを日本を中心としながら、グローバルで色々な人を巻き込みながらやりたい。

起業家人生、16年かけて本当に回り道しましたが、やっと自分がやるべきことに出会えたと思っています。

コインムスメはそんな自分自身の人生の新しいスタートにおける、第一弾のタイトルです。ここまで偉そうに書いておいて、実際に結果がどうなるかは本当にめちゃくちゃ不安です。

ですが、後悔が一切ないレベルまで考え抜いて、やり切った自信だけはあります。不透明なWeb3業界、不安定なゲームビジネス、グローバルチャレンジ。ここまで清々しくリリースを迎えられること本当に奇跡だと思います。

全ては今までついてきてくれたメンバーや関係各社の皆様、支えてくれた家族のお陰です。ころころ意見変わるし無茶な要求ばかりで振り回し続けましたが、今日を迎えられたことに心の底から感謝してます。

本当にありがとうございます。

皆さんと駆け抜けた2年間は僕にとって何より大切な宝物です。やっとリリースですので、これからまた改めてよろしくお願いします。

またここまで読んでいただいた方、長文お付き合い頂きありがとうございました。プロジェクト内容についてはリリース前にまた別のnoteを書こうと思います。ぜひSNS登録をしてリリースを追ってもらい、ゲームで遊んでもらえたり、トークンを触ってもらえたりするとありがたいです。

2024年9月25日 辻 拓也

公式広報、ムスメちゃん

公式コミュニティ、コインムスメ学園

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コメント

1

興味深い記事、ありがとうございました。知性と行動力、その他の様々なスキルがある方なのだと思います。大きな成功の裏には、経済的にも、精神的にも大変な事が(記事には書ききれないくらい)あったのでしょう。また人脈の大切さも実感しました。何を知っているかより、誰を知っているかが大切。私がやりたい事は分野は違いますが、更に人脈作り、売り込みに目を向けてみます。

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起業してからゲーム売上100億を超えるまで。背水の陣で海外移住からの経営復帰。起業家人生16年を振り返って。|辻拓也
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